本文へスキップ

旅マタギの記録「秋山記行」

▲長野県栄村秋山郷小赤沢集落
  •  山間奥地に細々と受け継がれてきたマタギの歴史文化は、残念ながらその記録がほとんどない。そんな中、1828年、鈴木牧之が記した「秋山記行」は、極めて貴重な記録である。
     越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山記行」を書き上げる。
     この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟やイワナ漁を行っていた様子が詳細に記されている
▲左:秋山郷切明の吊橋 右:切明から中津川を望む
  •  大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと
     「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える。
     「雪の間は里の人は一人もやってきません
     ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」
  •  牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。その際、彼を案内したのが湯本の湯守の主人・嶋田彦八・・・実は、彼も秋田マタギだったという。「信濃の箕作(みのつくり)村の嶋田三左衛門の分家だろうか」と記しているが、嶋田は彦八を婿養子に迎え、湯本の湯治場の湯守として定着したという。
  • 秋田の狩人
     「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた。・・・
     「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた」
  •  当時、秋山郷に婿養子となった忠太郎は38歳、松之助は21歳。田口洋美先生は「牧之が湯本で出逢って話を聞いたこの30ぐらいの秋田マタギというのは、彼らだったのだろうか、それともまた彼らとは別のマタギであったろうか」と想像を巡らし、「秋田マタギが秋山郷に定着した過程は実に面白い」と述べている。
▲秋田県上小阿仁村萩形部落跡(昭和44年集落移転)
右の写真:八木沢集落、背後の山を越えると阿仁町根子集落に至る
  •  「山に生きる人びと」(宮本常一)によれば、
     「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」と推測している。
     上小阿仁村には、小阿仁川沿いの奥に八木沢と萩形のマタギ集落がある。この八木沢、萩形集落は、文化元年・1814年に、いずれも阿仁町根子から分村した集落である。
  • 狩人の話・・・山漁(イワナ漁)と狩猟
     「右は魚野川、左は野反川です。右の魚野川沿いに登りますと、私たちが寝泊まりする小屋があります。そこでは、三十センチほどの大物の岩魚を釣りますが、一度に数百匹は採りまして、草津の湯治場に売ります。このところ岩魚の値段はとても高いのです。
     また、魚が特に獲れない時は、鹿か熊、その他何でもいいのですが、ワナで捕まえ、その皮をはいで肉を塩漬けにして、私ども三人いれば二人で売りに、不漁の時は一人で草津の湯治場へ売りに行きます。残った二人は、一生懸命狩りをするのです」
  •  旅マタギは、2~3人の小集団で行われていたことが分かる。そして、沢沿いに狩り小屋を設け、そこをベースキャンプに、狩猟や岩魚の漁を展開している。一般にこうした岩魚やヤマメを捕獲する漁を「川漁」と呼んでいるが、旅マタギの場合は、人跡希な源流部を漁場にしていることから「山漁」と呼ぶ方がふさわしいように思う。
     特に、夏は岩魚の値段が高く、山漁が中心で、釣り上げた岩魚を最短ルートで市場(湯治場)へ売りに行っている様子が記されている。
  • 山での暮らし
     「米と塩だけあればよしとしています。こんな深い山奥へ、二十日も三十日も住みつくのでございます。獣をいろいろ捕獲しまして、皮は売り物にします。その肉は、自分たちが食べます・・・
     着るものは猪や熊の毛皮、いつも着ている毛皮を夜具として寝ます。寝ゴザ一枚あればすみます・・・夜の漁は松明を灯して行い、時には網を投げ、その場所場所で方法を変えます。昼はカギを使い、ヤスや釣り竿も使います。ですから魚や獣もすっかり食べ飽きてしまいます」
  •  山に持っていくものは、米と塩だけで、他は全て現地調達でまかなっていたことが分かる。岩魚や獣の肉だけでなく、山の野菜やキノコも食べ、栄養のバランスを保っていたに違いない。奥が深い沢々に小屋を幾つも掛けて、一ヶ月の長期にわたり山ごもりしている。
     岩魚や毛皮は、沢を詰め峰越えルートで市場へ売りに行く。恐らく湯治場で換金しては、米と塩、味噌、あるいは釣り具、漁具、草鞋などを補給し小屋に戻ってきたのだろう。
  •  「すべて川づたいの所々に小屋をかけておきます。中津川の源流地帯や、例の魚野川の左に沿って木こりの道があるにはあります。けれども・・・歩くのにたいへんなことは、とても言葉では言い尽くせません。
     また、大滝というのがあります。高さは20mもあろうという滝です。その素晴らしい光景は、旦那さんに一目でもいいから、ぜひともお見せ申したいものです」
     岩菅山を越えた所に、燕滝がある。
     「この滝の見事なことは、言葉にも話にも、とてもその一端も言い表せそうにもありません・・・この辺りにも岩魚を獲るための小屋を掛けます。ここに何十日と日数も決めないで、私どもは生活いたします」
▲阿仁のビラオトシ・・・獣がこの罠に入ると上から重い物が落ちて圧死させる構造(2007マタギサミット)
  • 獣を捕る方法
     「獣は夏はワナを仕掛けて獲ります。このワナというのは、1mぐらいの高さに2本の木を立て、横木を結びます。2mぐらいのまっすぐな横木の下に渡して、何本も枝木の上へ並べ、木の端を下の横木にかき付けるには、フジツルなどを用います。
     また、ワナの上に大きな石を幾つも置き、草木を切って、石が見えないようにふたをします・・・漁小屋の近くに幾つも掛けて置きます。ワナの下の蹴網のツルに足が少しさわりますと、横木に仕掛けがありまして、一度に獣の上に落っこちて、押し殺します。
     その肉は、三度三度食事に食べます。幸い近頃獲った猿の皮が二枚ございます。よかったらお売りしましょうか」
▲秋山郷総合センター「とねんぼ」・・・秋山マタギの狩猟文化についても紹介
  •  秋山郷一帯は、鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で、狩猟禁止・・・実質上の保護区であった。1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている。この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが19世紀である。この時期は、幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代であった。
▲熊の落とし穴
  •  1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあった。落とし穴の深さは3.5m~4.5mとかなり深い。この穴を一人で掘ることは不可能で、村仕事として掘られたと推測されている。
     当時、専門的な狩猟技術をもたない秋山郷では、農作物被害、人身被害に悩まされていた。また熊の胆など漢方薬の需要が高まっていたこともあり、害獣駆除と利用を兼ねて村総出で熊の落とし穴を掘ったのであろう。
     19世紀前半になると、秋山郷へ組織的な集団猟を展開する秋田の旅マタギが入ってくる。伝承によれば、秋田の阿仁から秋山郷まで120里(480km)、歩いて1ヶ月と10日、9足の草鞋を要したという。彼らは、近世から明治にかけて、阿仁から奥羽山脈の尾根を南下し、関東や中部山岳地帯までやってきたという。
     旅マタギは、巣守側にとってみれば、狩猟禁止区域を荒らす密猟者、犯罪者である。しかし、村にとっては、彼らを受け入れることによって、害獣を換金資源として利用する技術と市場を得る救世主であったに違いない。
     大赤沢に婿養子として定着した阿仁マタギの親子や鈴木牧之を案内した湯守の彦八、和山集落の湯守も秋田マタギが婿養子となって定着したという。
     これは、秋山郷一帯がクマやカモシカなどの野生鳥獣、岩魚の宝庫であったこと。また、群馬県の草津温泉や奥志賀高原の発ぽ温泉、熊ノ湯温泉、湯田中温泉など市場に恵まれていたためであろう。
     病気療養の湯治客たちにとって、肉や熊の胆、カモシカの脂で作った膏薬、新鮮な岩魚などをもたらす旅マタギは、さぞ喜ばれたに違いない。こうしてマタギ文化は、中部東北の村々に伝播され・・・今日の「ブナ林と狩人の会・マタギサミット」へとつながったのである。
  • 秋山マタギ 山田文五郎翁(右上の写真)
     翁は、秋田からやってきて定住したマタギの五世。マタギたちは、日光修験道の信仰をもち、シカリの指揮に従って、組織的な狩猟を展開した。
  • 「山に生きる人びと」(宮本常一著、未来社刊)抜粋
     以上、長々と「秋山記行」に見えた秋田マタギの生活を掲げたのは、マタギの生活がどのようなものであるかを実によく伝えているからであって、狩猟のみで生活をたて得る余地のあったことを物語る
     しかも秋田ではマタギは集落をなし住んでいるが、夏季のこうした移動狩猟はきわめて少人数であった・・・狩猟以外の農耕などによって生活のたつ道があれば、それにしたがったであろうが、マタギの村の多くは農耕に不適な場所に立村していたから、猟は獲物を探して三々五々移動狩猟が試みられたのである。
     ・・・猟師は狩猟のかたわら農業を営んでいたが、農業には全然タッチしない者も少なくなかった。秋田県角館のマタギは冬は主としてクマを追って歩くが、夏は川で鵜飼を行なってアユやコイ、ウナギ、イダなどをとっている。
     ・・・作物を鳥獣の害から守ることは容易でなかった・・・野獣とのたたかいに農民のかけたエネルギーと知恵は大変なものであったといっていい。そしてその中で果たした狩人の役割は大きかったのである。
  • マタギ集落・北秋田市阿仁根子集落
     1805年、菅江真澄は、マタギの里として知られる奥阿仁地域を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書き留めている。
     「山ひとつ越えると根子という部落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ねている。このマタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵している。
     祖先をヒコホホデミノミコトとする系図をもち、かれらのつかう山言葉の中には、獲物の肉をサチノミ、米を草の実といい、その中には蝦夷言葉もたいそう多かった。佐藤利右衛門という地主の家に宿をかりた。ほかの国で庄屋というのをここでは肝いりの次の村長をいうのである」
▲春クマ狩り(北秋田市阿仁) ▲クマ曳き(北秋田市阿仁) ▲ワラダウチ(ウサギ狩り、北秋田市阿仁)
  • 秋田のマタギMEMO
     マタギというのは、クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人をいう。中でも秋田県の仙北や阿仁地方には、マタギの村が多かった。彼らは、クマ狩りなどの集団猟を得意とし、晩秋から早春にかけて山に入り、拠点となる場所に設けた簡単な狩り小屋に泊まり込んで、クマ、カモシカなどの大型獣を捕った。
     かつては、旅マタギとして他国、他領の山に行くことも多かった。秋田マタギが歩いたところは、青森、岩手、山形、新潟、福島、長野、群馬、富山など、東日本の脊梁山地の全てといえるほど広い範囲に及んでいる。旅先で養子などに入り、その土地にマタギの技術を伝えたという例も少なくない。
     山や動物についての豊富な知識と独特の狩りの作法や禁忌を持ち伝え、獲物を求めて回帰性移動を行いながら山に生きてきた人々である。
参 考 文 献
  • 鈴木牧師之著「秋山記行 現代口語訳 信濃古典読み物叢書8」(信州大学教育学部附属長野中学校編)
  • 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
  • 「東北学VOL3 総特集 狩猟文化の系譜」(東北文化研究センター、作品社)
  • 「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫、農文協)
  • 「菅江真澄遊覧記4」(内田武志、宮本常一編訳、平凡社)
  • 「山に生きる人びと」(宮本常一)
  • 「最後の狩人たち」(長田雅彦、無明舎出版)