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イワナと人の自然誌

岩魚のある風景、移植法流、イワナ民俗誌、秋田マタギと職漁師、イワナと八郎太郎伝説、原始生活
  • 秋田・山村の食文化

     秋田の山村では、積雪が多く麦類などの冬作はできない。こうした村々では、アワや冷水がかりのヒエ栽培を行い、イワナや山菜、きのこなどの山の幸に依存した食文化が発達した。また、数多くのマタギ集落にみられるように、山の動物や川漁への依存度が高いのも秋田の食文化の大きな特徴と言える。
  • 「岩魚のある風景」(昭和12年6月、登山家・冠松次郎)
     「岩魚は化けるという。それはよく知らないが、とにかく同じ谷の魚、急流に棲む魚でも、鮎やヤマメなどに比べると、この魚は遥かに凄い目付きをしている。・・・
     随分感覚の鋭い魚だ。人のあまり入らない谷だから、魚が馬鹿だろうと思っていると、それは大間違いで、人の影が少しでもさせば決して出て来ない。渕の中に見えていても、毛鉤に飛びついて来ない。
  • ・・・釣り上げたやつを、うっかり川近い石の間などにおくと、水の響く方へピョンピョン跳ねて行って、何時の間にか水の中に潜ってしまう。
     よく岩魚は蛇をとるという、大きな奴になると小さな蛇が岸辺近くにいる処を、その尾をくわえて流れの中にひきづり込む位なことをするだろう。
     普通は水面を流れてくる虫などを喰う、時には水面近くを飛んでいる羽虫を、激流の中から跳ね上がって喰いつく、その敏捷な様は小気味よい位だ。
  • ・・・暴風の前になると、砂を腹一杯に呑み込んで岩陰の砂の中にぴったりと身体をつけている。砂の重みで大概の出水には流されないですむ。しかしたかが小魚であるから、幾年か振りの大水だなどと云う時、大きな岩石でさえ押し流され、谷の流れの模様まで変わるような時には、上流の魚が一時下流に押し流されていなくなる時もある。
     (地震や洪水で上流域にイワナがいなくなると、ゼンマイ採りや岩魚職漁師たちは、下流で釣り上げたイワナを再び上流に運び復活・・・それを繰り返してきたと言われている)
  • ・・・夏の谷旅には岩魚はつきものである。この魚のいない谷へ入ると何となく物足りないものだ。それは谷の味として、僕等の味覚をそそるからというばかりではない。岩魚も谷の風景の一つだと考えるからである。
  • 「岩魚のいない谷に入ると何となく物足りない」と感じるのは、登山家だけでない。釣り好きなマタギやゼンマイ採り、杣夫などにも多かった。
  • 源流域に生息するイワナは、天然分布ではなく人為的分布
     「淡水魚の分布は、水温や餌生物などの生態的条件、滝、酸性河川などによる地形的・水質的な条件によって一応決まる。しかし、あるがままの自然は時として地震や洪水で変化し、魚の分布を変える。しかも、人間自らが分水嶺をこえてイワナやアマゴを移植したり、上流に運ぶのである。・・・渓流こそ、自然と人間がより素朴にそして直接かかわってきた世界ではなかったか」 (「渓流魚と人の自然誌 山漁」鈴野藤夫著、農山漁村文化協会
  • 「昭和43年9月、奥只見の「銀山平」から袖沢を遡行して会津駒ヶ岳(2,132m)に登頂した折のこと、山頂近くの登山道で、タケ製の大型籠を背負い、一本竿を手にした桧枝岐村下ノ原の星常次とバッタリ行き合った。聞けば、中門岳(2,060m)から袖沢支流のミノコクリ沢に下降し、自身のゼンマイ小屋に泊まり込んで付近を釣るのだ・・・という。
     このような山上に゛イワナ道゛が通じていたのには驚いた。常次はゼンマイ採りのシーズンが終了するとイワナ釣りに従事し、筆者が遡行した本流の御神楽沢は、常次の度重なる放流により、駒ヶ岳の下まで広範にイワナが棲むようになったのだと言う。」 (「渓流魚と人の自然誌 山漁」鈴野藤夫著、農山漁村文化協会
  • 北アルプスの黒部川源流は、かつて、兎平の下流に懸かるわずか4mほどの滝が魚止めであったが、今では、標高2300m地点まで生息している。黒部川源流は、歴史的に職漁師たちの漁場であり、日本最標高のイワナは、彼らの度重なる放流によって生息域を拡大したと言われている。
  • 魚止めの滝上に生息するイワナ
     イワナが到底上れない滝を幾つも越えた。こんな険しい谷にイワナはいるのだろうか。半信半疑で滝を何度も高巻いた。やっと穏やかになった源流部で、黒い魚影を発見した時の驚きは、決して忘れることができない。秋田県内を流れる沢々に共通する点は、イワナが自力で遡上できない魚止めの滝の上流に、ことごとくイワナが生息していることである。
     一体誰が放流したのだろうか。後日、地元のマタギや木樵、炭焼き、職漁など山で暮らした先人たちによって移植放流されたことを知った。つまり、秋田のイワナの生息分布も、天然分布ではなく人為的な移植放流によって大幅に拡大した結果、「秋田はイワナの宝庫」と呼ばれるようになったのである。
▲滝が連続する和賀山塊・堀内沢上流八滝沢  
  • 秋田のイワナ移植放流の事例その1・・・和賀山塊・堀内沢
     堀内沢の上流部に位置するマンダノ沢と八滝沢は、滝が連続する険しい谷である。その滝を幾つも越え、下流で釣り上げたイワナを繰り返し、繰り返し移植放流したのは、イワナ釣りが大好きだった故秩父孫一マタギ(白岩)である。
     彼は、熊猟の合間にお助け小屋に置いてあった釣り道具と一斗缶を背負い、魚止めの滝に向かった。「今日は○番目の滝まで放流してきた」と、イワナの放流を得意げに語っていたという。
▲故秩父孫一マタギ(白岩)が放流したイワナの子孫
  • 事例その2・・・八幡平・大深沢源流
     秋田県最標高のイワナは、八幡平・大深沢源流のイワナである。水がチョロチョロ流れる源流部・・・標高1,200m地点まで生息している。これには驚くほかない。これは「イワナに生かされた玉川集落」の人たちが、各沢々に移植放流を繰り返したからだと言われている。
  • 事例その3・・・阿仁マタギ
     
    「マタギが移植や放流に積極的であった事例には事欠かない。秋田マタギの故郷、阿仁町には゛小沢を持っている゛という言葉があるが、これは魚止めの滝上に人知れずイワナを放流し、隠し沢とも言うべき自前の漁場をもつことをかく称したもので、一人のマタギが2~3本は持っていたと言われる。
     そうした隠し沢の生産が、結果的に漁場の深耕・・・分布域の拡大につながったことは言うまでもない。」(「山漁 渓流魚と人の自然誌」鈴野藤夫著、農山漁村文化協会)
▲移植放流されたイワナの子孫・・・葛根田川源流のイワナ 
  • 事例その4・・・岩手県葛根田川源流
     かつて岩手県葛根田川中流の鳥越ノ滝より上流に、イワナは生息していなかった。武藤鉄城著「秋田郡邑魚譚」には、昭和16年の仙北郡田沢村の項に、移植にまつわる話が記録されている。
     「時代は判然せぬも、毎年田沢村からマンダ(シナ)の木の皮を剥ぎに行く人々が、魚のいない川もオカシイものだと思って、ある年ワッパ(飯を入れる曲げ物)にイワナの子を入れて行って放流した。それが年を経過するにつれて、殖えに殖えても、あまりに上にも下にも行けぬ地形故に、ほとんどウジョウジョするくらいになった。」
法体の滝・・・その上流・玉田川には、かつて魚は生息していなかった
  • 事例その5・・・法体の滝の上流・玉田川
     鳥海の山すその秘境を流れる玉田川にイワナを放流し、養殖を図ったのは、かつてマタギ集落で有名な百宅の佐藤浅治である。釣りキチだった彼は、百宅川で釣ったイワナを「生簀(いけす)」に蓄えて、手頃な数になると、法体の滝上の玉田川に放流・・・その数は十数回に及んだという。
     今まで魚一匹生息していなかった清流にイワナが増えに増え、時には川に入った人の足にからみつくほどになったという。明治35年、学校が新築移転された祝いに、このイワナが料理され、村人たちが喜びに浸ったと伝えられている。明治37年8月、彼の没後、村人がその功績を讃え、感謝の意を込めて功績碑を建立している。(「鳥海町史」)
  • イワナに生かされた民俗誌
     「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)には、秋田県仙北郡玉川部落の「イワナ」の項に、昭和初期の貴重なイワナ民俗誌が記されている。
     「玉川部落の人たちは魚といっても、イワナだけが日常生活に最も大切なタンパク源で、これらの数々の支流をイワナの宝庫としていた。昭和初めまでは、玉川に行くには・・・険しい山道を越えて20キロ。さらに西木村からも、サルも通わないような尻高峠を踏破して15キロ、やっとたどり着く。全く俗世を離れた別世界の部落だった。」
玉川集落は、平成2年、玉川ダム(宝仙湖)の完成により全戸(118戸)が水没した。 ▲玉川集落の上流・玉川温泉は、PH1.2ほどと日本一の強酸性水で、昔から「玉川毒水」と呼ばれ、魚も棲めない「沈黙の川」であった。
  • 玉川本流は、強酸性水で魚の棲めない川であったため、イワナの漁場は、大深沢、小和瀬川、湯渕沢、岩ノ目沢などの支流であった。
  • 「昭和4年・・・玉川部落のごちそうは、玉川上支流でとれたイワナを主としたものだった。1.5m四方もある囲炉裏の焚き火で・・・一つのベンケイには、30センチから50センチまでのイワナを串にして2、30尾。3、4つのベンケイに、数十尾以上のイワナ串が見事に刺されてあり、焚き火の燻製で、イワナが黒く底光りし、ギラギラ天井に輝いていた。(写真はイメージで鮎:由利本荘市矢島町)
  • この山奥でこれだけだと思ったとおり、朝からイワナ攻めで、イワナと親指ほど太く柔らかい大深ゼンマイの味噌汁、イワナの燻製の焼き魚、イワナのいい寿司、イワナの味噌漬け、ウド、ミズなど山菜を入れたイワナかやき、干して保存してあったシイタケ、マイタケのキノコ類を入れたイワナの吸い物。さらにイワナだしの干しうどんなど、全て豪華なイワナ料理であった。
▲「盆魚」として珍重された大深沢のイワナ
  • 玉川部落の盆魚
     玉川では結婚後三年間は、盆・正月に夫婦で実家を訪れる儀礼があった。お盆には「酒二升、燻製イワナ20尾、赤飯」を持参する習わしがあり、この燻製イワナを「盆魚」と呼んでいた。8月になると、盆魚のイワナを獲るために、各々グループを組んで大深沢に泊まり込みで出漁した。
     釣りや置き針、刺し網、夜突きなどで漁獲したイワナは、内臓を取り除き、雑魚箱に塩蔵した。30kg入りの雑魚箱がイワナで一杯になると帰宅。塩出しした後、囲炉裏で燻製に仕上げたイワナを「盆魚」として実家に持って行った。なお、田沢湖畔の集落では、固有のクニマスを盆魚にしていた。
▲長野県栄村秋山郷切明から中津川を望む
  • 秋田マタギが伝承した職漁師
     1828年「秋山紀行」(長野県栄村秋山郷)によると、秋田の旅マタギが草津温泉を市場に狩猟やイワナ漁を行っていた様子が詳細に記されている。魚野川では、「三十センチほどの大物のイワナを釣りますが、一度に数百匹は採りまして、草津の湯治場に売ります。このところイワナの値段はとても高いのです。」
     山村にあって温泉地は、昔からイワナの有力な販路を提供する消費地であった。この秋田マタギが歩いた中部山岳地帯は、豊富な温泉と渓流魚に恵まれていたことから、多くの職漁師を輩出した。狩猟と川漁による生業体系は、秋田の旅マタギが伝承し、それを多くの職漁師たちが踏襲したと言われている。
     「その代表的な存在と言えば、北アルプスの南北の゛岳庄屋゛と畏敬され、登山史上で名高い上條嘉門次であり、遠山品衛門である」(「渓流魚と人の自然誌 山漁」鈴野藤夫著、農山漁村文化協会
  • 日本近代登山の父、W・ウェストンの山案内人「上條嘉門次」
     上條嘉門次は、32歳の時に明神池のほとりに猟師小屋を建てた。夏は梓川でイワナを釣り、冬は山にこもって愛犬とともにカモシカやクマを撃っていた。明治26年、ウェストンは山案内人として嘉門次を紹介された。
     雨が激しく降り、梓川は水嵩を増していた。その時、嘉門次は次のように言ったという。
     「すぐ出発することはできません」・・・その理由がおもしろい。
     川が増水するとイワナがたくさん出るから、案内役をするよりイワナ釣りをする方が金になるからだと言ったという。
  • 黒部の主・遠山品衛門、穂高の仙人・上條嘉門治と岩魚
     「黒部の主である品右衛門は、穂高の仙人といわるる、神河内の上條嘉門治とともに、岩魚を中心としても考えられる男だ。品右衛門が魚釣りだけで谷の日を送っていたのに比べて、嘉門治は神河内を中心とした山の開拓者でもあり、名案内人であった。
  • ・・・宮川池畔に居を構えていた彼は、岩魚を捕って楽な、自適な生活をしていた・・・流れの魚を釣って一日平均三四円位の収入を得ていた。それだのに彼は山好きの人のために、それを犠牲にしてまで山案内をした。
     ・・・何時も先登を行く彼は、荷と共に釣竿を担いで行くことを忘れなかった・・・岩魚のいそうな処へ行くと一本立てる(休むこと)、その合間に彼は魚釣りをした。お客様に魚をご馳走したいという考えもあったが、魚を見てそのまま行くというのは気がすまないと云うような様子も見えた。」
▲八郎太郎出生の地(鹿角市草木村) ▲八郎太郎を祀る八龍神社(男鹿市船越)
  • イワナと八郎太郎伝説
     昔、草木村(鹿角市)に八郎太郎という17歳の若者が住んでいた。八郎太郎は、鳥や獣を捕ったり、マダの木の皮を剥いで集めたりしていた・・・つまりマタギであった。ある日、八郎太郎はマタギ仲間と3人で、泊まりがけでマダの木の皮剥ぎに出かける。
     八郎太郎が炊事当番の時、水汲みに行った川でイワナを3匹捕まえ、焚き火で串刺しにして焼いた。こんがり焼けた美味しそうな香りに耐えきれず、魚を一口食べた。あまりの美味しさに、仲間の分のイワナ2匹も食べてしまった・・・マタギの世界では、捕った獲物は平等に分配するのが掟、その掟を破ったため天罰が下る。
     まもなく、八郎太郎は焼けるような喉の渇きを覚え、桶の水を全部飲み干す。それで、ますます喉は渇くばかり・・・川の流れに顔をつけて、日の暮れるまで休まず飲み続けた。八郎太郎は、いつのまにか竜になってしまった。
     こうして八郎太郎は、十和田湖の主となった。その後、南から来た修験者・南祖坊との戦いに敗れ、十和田湖を追われ八郎潟の主となる。男鹿市船越の八龍神社には、八郎太郎を八龍の神様として祀っている。
  • 「八郎太郎伝説」は、イワナが昔から山村の暮らしに最も密着した川魚の筆頭であったことを示唆しているように思う。
  • 「原始生活への誘い」(生態学者・登山家「今西錦司」)
     「だいたい、専門のイワナ釣りというのは、人跡絶えた渓流のほとりに小屋掛けして、何日も釣りくらしていることが多い・・・この魚はその山の一番奥深く、一番人気の少ない、渓流でいうならその最上流部にしか住んでいない、というところが気に入って、わたしは、またしてもイワナ釣りに出掛ける。
     東北地方の岩手県あたりに行けば、水温の下がるせいか、中流部ででも釣れるけれども、釣っている横をバスが通ってゆくようでは、もはや何としておもしろくない。そんな所でイワナを釣っても、ちっとも釣った気がしないのである。
     ・・・私の本当の目的は、どうやら山の中へ入って、そこでできる限り文明から遠のいた、原始生活を味わいたいのであるらしい。」
参 考 文 献
「秋田たべもの民俗誌」(太田雄治著、秋田魁新報社)
日本の食生活全集5「聞き書 秋田の食事」(農文協)
「マタギ 森と狩人の記録」(田口洋美著、慶友社)
「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫著、農山漁村文化協会)
「イワナとヤマメ」(今西錦司、平凡社ライブラリー)
「峰と渓」(冠松次郎、河出書房新社)
「渓(たに)」(冠松次郎、中公文庫)