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 2014年10月4日~5日、「JOMON ARTフェスタ」が特別史跡「大湯環状列石」(鹿角市十和田大湯)を会場に開催された。二日目は、特別鼎談「JOMONのココロとカタチ」や秋田アフリカンサークルのジャンベの演奏と踊り、十和田中学校生徒によるダンス、ストーンサークル賛歌「時空をこえて」の合唱が行われた。また、大湯ストーンサークル館内では、県指定の土偶12点を含む116点の展示、「Spirits of JOMON-秋田の土偶大集合-」展(10月4日~11月3日)が開催されている。

 北秋田市の伊勢堂岱遺跡では、平成28年度のオープンに向けて整備中だが、10月4日~5日、ガイド付きで特別公開された。
特別鼎談「JOMONのココロとカタチ」

 写真左からコーディネーター・冨樫泰時さん、縄文造形家・猪風来さん、桜月流・神谷美保子さん、国学院大学名誉教授・小林達雄さん。縄文人は、なぜ腹の足しにもならないストーンサークル=モニュメントをつくったのか、我々も縄文人と交信できるなど興味深い話が次々と語られた。話題になったテーマを小林達雄先生の著書などを参考に、少々掘り下げて紹介する。
▲大湯環状列石

「ストーンサークルはなぜ丸い?」(国学院大学名誉教授・小林達雄)

 大湯ほかのストーサークルの円、滋賀県杉沢遺跡の11基の墓が円形に並んで一つのまとまりを形成すること、能登半島の真脇遺跡を代表とする円形巨木柱列など、各種記念物=モニュメントにおいて「円」形が共通して認められる

 記念物は祭りの場で、踊りは輪をつくり、しばしば廻る。円は、縄文人の世界観の中核に位置づけられるほど重要である。イザナギ、イザナミの二神が天の御柱を廻るのも、その後の民俗行事の中で廻るのも、縄文以来の記憶につながる可能性があることを指摘している。(「縄文の思考」小林達雄、要約)
▲伊勢堂岱遺跡

円は生と死の循環 (参考「ブナ帯文化」梅原猛外、新思索社

 「太陽は東から出て西へ没する。古代人には、太陽は日々その日に死ぬと考えられているのである。一度死んだ太陽は再び翌日の朝、東から生き返る・・したがって一日一日が生と死の循環なのであり、一年一年も又生と死の循環なのである。

 古代人にとって円はただの円ではなく、円は生と死のシンボルなのである。又、柱はただの木ではなく、地上と天を結ぶものである・・・人間の霊も又そのような循環の摂理に従って死の後に故郷である天に帰り、そして何時のときか又、その霊は再び地上に現れて子孫となって生まれ変わるのである。

 このような宇宙の摂理を循環と考える捉え方は、やはり旧石器時代に行われた考え方と考えざるを得ないのである。・・・人間から世界を見るのではなく、世界の大きな循環の中で人間を見る世界観なのである」
頭、心の足しになるモニュメント「大湯環状列石」(芸術新潮2012.11 「縄文人の心」小林達雄・要約)

 縄文人は、草や木や石や水、自分たちの肉体にも精霊がいると考えていた。いわゆるアニミズムである。そうした精霊たちと交流する場が環状列石のようなモニュメントであると考えられる。

 大湯環状列石を構成する大きな石は、7キロも離れた川から7200個も運び、200年ほどかけて作られた。それだけの時間と労力をかけた必然性を考えると、このモニュメントが腹の足しにはならなくとも、頭、心の足しになったはずだと理解せざるを得ない。
 伊勢堂岱遺跡から、世界自然遺産「白神山地」の藤里駒ヶ岳(1,158m)や、「白髭大神」が住む山・田代岳(1,178m)などの山々を望むことが出来る。

記念物と聖なる山(「縄文の思考」小林達雄、要約)

 環状列石は、主に東北北部で発見されているが、こうした聖なる舞台は、聖なる山を背景として成立する。大湯のストーサークルからは、冬至の日の出方向に黒又山(クロマンタ)を見る。青森県大森勝山遺跡のストーンサークルから秀峰岩木山を望むことができる。こうした事例を見渡すと、大きな遺跡や記念物を保有する特別な遺跡の周囲あるいは遠くには、決まって目を引く山の姿があることが分かる。

 ムラの設営や記念物の設計に際しては、特別な山に方位を合わせたり、二至二分の日の出や日の入りを眺望できるような位置取りがなされていた。従って、めざす山が見当たらない所では、まずは山を探すことから始めて、ムラや記念物を営む場所を選定したりしたのである。
二至二分と祭りや儀礼を行う劇場空間(芸術新潮2012.11 「縄文人の心」小林達雄・要約)

 環状列石は、冬至や夏至、春分や秋分の日に、その山頂から太陽が昇る、または落ちるのが見える地点に造営している。縄文人が天文学に通じているはずはないと否定する人もいるが、彼らが現代風の天文学とは別に、二至二分を認識して環状列石や御柱を立てていた事実を無視したら、縄文人に対して失礼である。

 青森県の三内丸山遺跡にある巨大な六本柱も、あの柱の間から、夏至の日には太陽が昇り、冬至には太陽が沈むことが確認されている。縄文人はそんな場所を捜し当てた上で、祭りや儀礼を行う劇場空間を作っていたのである。
祭り、儀礼と第二の道具「土偶」(「縄文の思考」小林達雄、要約)

 環状列石のようなモニュメントでは、しばしば土偶をはじめとする日常生活ではない道具=第二の道具が多数発見されている。これは、そこで祭り、儀礼が執り行われていたことを示唆している。

 第一の道具とは、狩猟漁労採集などの労働用具、調理用具、工具など。これに対して第二の道具とは、頭の中で操作するもの。土偶は、第二の道具の代表格で、縄文人が精霊のイメージを実体化した立体的な人形である。
▲美しいプロポーションの遮光器土偶(大仙市星宮遺跡) ▲突き出た乳棒は女性を表現(北秋田市高森岱遺跡) ▲柔らかなラインが女性的な土偶(大仙市館の下遺跡)
女性的造形の土偶(芸術新潮2012.11 「縄文人の心」小林達雄・要約)

 縄文前期には、男根を象徴した石棒であった。それが次第に大形化し、目立ってくると、それに対抗して、女性的な姿のものをつくる機運が生まれたのではないかと推測される。男か女かではなく、土偶はそもそも性差を超越した存在である。

 遮光器土偶は、サングラスのようなものを身につけた人を象ったものではない。ハート形の土偶にしても、そんな顔の人間はいない。あえて人間離れした不自然な顔をつくったのは、目や鼻や口を付けて、なお、あくまで人ではない物を表したかったということである。
バラバラ土偶(芸術新潮2012.11 「縄文人の心」小林達雄・要約)

 縄文中期における土偶の絶対多数が、バラバラに壊された状態で見つかる。注目すべきは、首や四肢の付け根の接合部をあえて壊れやすく作ったものがあること。これは、土偶に傷のついた身体の部位の身代わりになってもらったのではないかという「形代説」があり、他民族には見られない興味深いものである。
▲八幡平山頂方向を望む ▲石刀

縄文人、山に登る(「縄文の思考」小林達雄、要約)

 八幡平から縄文晩期の石刀が発見されている。石刀は、実際には切れない第二の道具を代表するもの。その他栃木県男体山八合目、長野県八ヶ岳編笠山、滋賀県伊吹山、同比叡山、兵庫県六甲山、神奈川県大山などの山頂から縄文土器が出土している。

 縄文人は、聖なる山を仰ぎ見るだけでなく、実際に山に登っている。その発意は、神奈川県大山山頂出土の注口土器の存在から、少なくとも縄文後期には始まっていたことが分かる。その心は、弥生時代にも受け継がれている。大湯ストーンサークルの東に位置する黒又山の頂から、縄目模様のついた弥生土器が発見されている。

 古代の遺物出土例は、二荒山、大山、大峰山その他がある。これらは、その後の中世の山岳宗教関係の根拠地へと連続している。これは、縄文時代以来の伝統として、山の霊力への観念が根強く生き続けていることを物語る。
▲信仰の山・森吉山と戸鳥内棚田

山の神から田の神へ(「縄文の思考」小林達雄、要約)

 山は、縄文人によって発見された精霊の宿る特別な山であった。民間信仰に見られる田の神は、春に山から降りてきて、田の神になり、秋になると山に帰って山の神になると信じられている。これは、縄文時代以来の山の神が弥生時代以降農耕とともに田の神に分派したとみるべきと考える。本地垂迹の関係と相似する。山の神が本地とすれば、田の神は垂迹に当たる、というわけである。
桜月流・神谷美保子・・・ある石が私を呼んだ

 この環状列石には、三年前の夏至の日に来た。その時、サークルの中心石と日時計石とを結ぶその先に沈むという夕日は、言葉では言い表せぬ感動であった。その日の夜、3時間ぐらい、普通は入れないエリアの遺跡内のエリアで夜を過ごした。

 すると、ある石が私を呼ぶ気がして、その石の方へ行った。その石に座ると、何と、お尻がピタッとはまったのです!
縄文造形家・猪風来(いふうらい)・・・縄文人と交信できる

 1986年からは北海道に移住し、原野に竪穴式住居を建てアトリエとした。以後20年間自給自足の縄文暮らしを続け、大自然の息吹から縄文の造形精神を体得する。その中で縄文野焼きの作品群である「生命のシリーズ」「情念のシリーズ」「森羅万象シリーズ」「土夢華シリーズ」を制作し発表。

 自然と共生し、生と死と再生への畏怖と祈りの世界観を表現する縄文野焼き技法の第一人者・猪風来さんは、4000年前の縄文人と交信できると語った。それには、大地の肉(土)を自らいただく必要がある。そして、土器を焼いてつくれば、誰でも縄文人と交信できると、熱く語った。
秋田アフリカンサークル・ベルベル人・・・ジャンベの演奏と踊り

 西アフリカの楽器・ジェンべ、ドゥンドゥン、バラフォンで奏でる大地のリズムとパワフルなダンスは、なぜか大湯環状列石の舞台にフィットして、実に絵になる光景であった。それは、大湯環状列石が、「祭りや儀礼を行う劇場空間」だからであろう。
伊勢堂岱遺跡(北秋田市)、平成28年度オープンをめざして工事中

 同遺跡は冬期間を除き一般公開をしていたが、見学環境整備のため、平成24年6月から休止している。平成24年度には環状列石の保存処理と盛土工事、25年度は環状列石の保存処理とともに保護盛土と芝張り、園路整備や柵の設置を実施。26年度と27年度には展示や体験スペース、トイレなどを備えたガイダンス施設の建設、駐車場等外構工事等を行い、28年度のオープンを目指している。
伊勢堂岱遺跡特別公開

 北秋田市の伊勢堂岱遺跡は、約4千年~3千年前につくられた大規模な環状列石である。一つの遺跡に環状列石が4つあるのは、他に例がないという。配石遺構や掘立柱建物跡、土坑墓、長さ100mを超す溝状の遺構も見つかっている。こうした大規模な環状列石は、北緯40度以北の県北から北海道南部と同じ文化圏でのみ発見されている。

 伊勢堂岱遺跡の環状列石の一部には、青森市小牧野遺跡と同じはじご状に組んだ石組みがあり、両者間で交流があったと考えられている。また、石の周りから祭りの道具が多く出土していることから、環状列石の内側では、歌や踊りを主とした祭りの場だった可能性があるという。不思議なのは、少し南側にずらせば広い土地が広がっていたのに、わざわざ地形を改変して4つの環状列石をつくっている。

 そのこだわりは何なのか。その謎を解く鍵は、背後に連なる白神山地の山々との位置関係や、夏至、冬至の時の日の出、日の入りの方向などと関係があるのかもしれない。その謎の解明が進むことを期待したい。
▲天然アスファルトで眼を飾った土偶(大館市塚ノ下遺跡) ▲通せんぼをする土偶(秋田市坂ノ上F遺跡) ▲大きなデベソ、宇宙人のような不思議な土偶(湯沢市東福寺村上遺跡)
参 考 文 献
「縄文人の心」(小林達雄、ちくま新書)
「芸術新潮2012年11月号 大特集 縄文の歩き方」(新潮社)
「ブナ帯文化」(梅原猛外、新思索社)
「縄文の魅力 伊勢堂岱遺跡」(秋田さきがけ新聞2014年10月12日)