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 2014年10月18日~19日、「地歌舞伎の祭典」が三種町森岳の山本体育館を主会場に行われた。初日は、オープニングを飾った森岳子ども歌舞伎や鮭川歌舞伎(山形県鮭川村)、山五十川歌舞伎(同鶴岡市)、最後は農村歌舞伎会館に会場を移し、森岳歌舞伎保存会が「絵本太閤記九段目 組打ちの場」を上演。一騎打ちの場面では、松の木の枝をへし折り、その松を武器に迫力ある演技を披露し、観客から大きな歓声が上がった。
▲京都・四条大橋の袂に建つ出雲の阿国(おくに)像

 歌舞伎の元祖・出雲の阿国(おくに)像には、「都に来たりてその踊りを披露し都人を酔わせる」と碑文に記されている。これは斜め向かいに建つ「南座」が歌舞伎発祥の地であることを意味している。つまり出雲の阿国は、四条河原の大スターであった。

歌舞伎の歴史

 歌舞伎の始まりは、慶長年間(1596-1614)、京都の四条河原で出雲大社の巫女であった阿国(おくに)が行った風流踊りといわれている。これが大変な人気を得て、まもなく舞踏劇風なものになり、女歌舞伎ができあがった。

 ところが寛永6年(1629)、女歌舞伎は風俗を乱すとの理由で禁止された。承応2年(1653)年頃になると、今日の歌舞伎である野郎歌舞伎が成立。女形も生まれて、筋立ても複雑で劇的な芸能へと発展していった。

 元禄年間(1688-1703)になると町人の財力を背景に、歌舞伎は大きな発展をとげ、地方回りの一座も出てくる。文化・文政(1804-29)の頃になると、歌舞伎も全国に浸透する。一座を呼んで演じてもらうだけでなく、地芝居あるいは習い芝居といって、自ら演じるようになった。
▲歌舞伎の殿堂・南座(京都市)

 江戸時代の初め頃には、四条河原にさまざまな見世物が催され、芝居小屋が7軒もあったという。そのうち唯一残ったのが南座である。1年で最も活気づくのは12月の顔見世興行。玄関正面に出演者の名前を書いた「まねき」があがる。東西の歌舞伎俳優が顔をそろえる南座は、歌舞伎の殿堂とも言われている。
地歌舞伎とは(写真:山形県鶴岡市・山五十川歌舞伎)

 プロが演じる歌舞伎を「大歌舞伎(おおかぶき)」というのに対して、地元の素人役者たちによって演じられ、かつ地方に根付いた歌舞伎を「地歌舞伎(じかぶき)」と呼んでいる。農村歌舞伎、地芝居、村芝居とも呼ばれている。プロの歌舞伎をお手本に始まった地歌舞伎は、300年余りも前から人々の間に受け継がれた郷土芸能で、今でも全国200ヵ所で演じられている。

 江戸時代は、芝居にうつつを抜かすと勤労の妨げになるとの理由で幕府は禁止のお触れを度々出したが、神様へ豊作を祈願し、収穫に感謝して奉納する歌舞伎は黙認される所も少なくなかったという。特に明治から昭和の初めまでは農山村の最大の娯楽であった。

 歌舞伎は、「傾く(かぶく)」が語源とされ、「派手な身なりで、異様な世界へ入っていく」という意味があるという。昔は、百姓が地歌舞伎を演ずることで、殿様やお姫様に変身する願望を達成できたし、現代では、農林漁業者や会社員が「義経」に変身するといった快感を味わうことができる。だから、地歌舞伎の魅力は今も昔も変わらないといわれている。
森岳歌舞伎

 三種町森岳地区には、信仰の山・房住山がある。この山は、天台宗・山岳仏教の開山に始まり、後に修験道寺院の山として栄えた。金山林道登山口コースの途中にある寺屋敷跡は、房住山信仰の中心になった場所で僧房の数も多かったといわれている。

 同地区に伝わる森岳歌舞伎の発祥は、言い伝えによると江戸時代中期・260年以上前といわれる。その昔、旅の修験者・山伏が森岳で病に倒れた際、看病してくれた村人に感謝し伝えた歌舞伎が始まりといわれている。山伏が伝えたということは、番楽同様、山の信仰から生まれた芸能と言えそうである。

 昭和63年、後継者不足からしばらく公演が途絶えてしまったが、平成3年、森岳歌舞伎保存会(代表 石塚善信)を発足させ、その後、毎年秋の八幡神社の例大祭に歌舞伎が奉納されている。特徴としては、江戸でも浪花でもなく、「人間浄瑠璃」の流れをくむものではないかといわれている。浄瑠璃人形の動きを意識して、足首や肘など関節の動きをカクカクと小刻みに見せる振り付けが特徴といわれている。
▲森岳歌舞伎が奉納される八幡神社 ▲農村歌舞伎会館

 毎年9月の第3日曜日(敬老の日の前日)に、同地区の総鎮守八幡神社の例大祭に合わせ、境内にある農村歌舞伎会館で披露している。同会館は、平成18年、古くなった歌舞伎小屋を改修したものである。
森岳子ども歌舞伎

 森岳小学校の4年生16人が、地歌舞伎の祭典のトップバッターで登場。お江戸を揺るがす盗賊五人衆が、初めてお互いに顔を合わせる華やかな一幕・・・この晴れの大舞台で「白浪五人男」を堂々と演じきった。やはり、森岳歌舞伎が今日まで継承されているのは、次の世代を担う子どもたちから「格好いい」と思われているからであろう。

 子ども歌舞伎は、小学生が、いきなりお江戸を揺るがす盗賊五人衆に変身できるんだから、その快感は一生忘れないであろう。こうした大舞台での経験は、大きな自信と誇りにつながる。だから例え一時歌舞伎から離れたとしても、いつか再び関わるキッカケになるに違いない。大いに期待したい。
▲長信田太鼓 ▲じゅんさい音頭
鮭川歌舞伎(山形県鮭川村)

 鮭川村には、人気アニメ「となりのトトロ」のキャラクターにそっくりな木・・・樹齢千年以上と言われる「トトロの木」が有名である。また鮭川の名のとおり、縄文人が川に遡上する鮭の豊漁を祈って立てた「鮭石」の史跡がある。この地に伝わる鮭川歌舞伎の始まりは、安永2年頃、江戸の歌舞伎役者により伝承されたもので、川口・上大淵・京塚・石名坂の各地域に伝わってきたといわれる。

 昭和46年10月24日、その4座が合併し鮭川歌舞伎保存会を結成。同年11月、衣装をもっていない農村歌舞伎が東京新聞に「郷土の歌舞伎を守れ」と掲載された。その記事が東京の市川千升歌舞伎劇団の市川千升家元座長の目に止まり、使用していた一座の衣裳、かつら、小道具など三百点以上の寄贈の申し出を受け、見事に復興することができたという。

 パンフレットの配役を見ると、大人の芸名が全て「市川」という名字になっているのは、恩師・市川千升氏にちなんでいるのであろう。
▲「假名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら) 三段目」
 殿中松の廊下刃傷の場・道行旅路の花婿(でんちゅうまつのまにんじょうのば みちゆきたびじのはなむこ)
山五十川(やまいらがわ)歌舞伎(山形県鶴岡市)

 山形県鶴岡市温海地域の山五十川集落は、清流五十川に沿うように約600人の村人が寄り添う山間の村である。村には、ご神木として崇めている樹齢1,500年余りといわれる国の天然記念物「玉杉」という大杉がある。その歴史の古さを物語るように、「山戸能」と「山五十川歌舞伎」と称する二つの古典芸能を守り伝えている。一つの集落で「能」と「歌舞伎」の二つの民俗芸能を伝承する例は全国的にも珍しいと言われている。

 記録によれば、寛政4年(1792)、疫病を祓い村を救った湯殿山鉄門海上人へのお礼として実俣村の若者たちが芝居を演じたのが公演の初出とされる。現在、役者・指導者・裏方など20歳代から70歳代の約30名で構成し、毎年5月3日、11月23日の地元河内神社祭典時の奉納公演を中心に活動している。
▲義経千本桜 伏見稲荷鳥居前の場  
 公演の途中で、秋田音頭を歌舞伎風にアレンジした創作踊りも披露され、観客から手拍子と大きな拍手が沸き上がった。
農村歌舞伎会館で行われた森岳歌舞伎
▲舞台清め

 まず最初に「舞台清め」の儀式が行われた。これは地歌舞伎が、単なる農山村の娯楽ではないことを示している。歴史的に地歌舞伎を調べると、村の生活と密着した民俗の中に取り込まれ、雨乞い、五穀豊穣、無病息災、祖先の供養など、祭礼その他の行事に結び付けて、祈願・奉納の目的で行われてきた。これは、農村歌舞伎会館が、八幡神社の境内に建てられていることでも容易に理解できる。
▲子どもが舞う「三番叟」

 大人顔負けの可愛らしい舞を奉納。番楽では、黒い翁面をかぶって舞うが、森岳歌舞伎では、子どもが烏帽子をかぶり、歌舞伎役者と同じく白い化粧をして舞う。一般に三番叟は、五穀豊穣を寿(ことほ)ぐ、めでたい舞といわれている。ここにも祈願・奉納のために地歌舞伎が伝承されてきたことが分かる。
▲上演の前に、子どもたちの華やかな着物と華麗な「秋田音頭(通り音頭・組音頭)」が披露された。
絵本太閤記九段目 組打ちの場

 幕引きでは、正面に久吉(秀吉)、向かって右側に家来の加藤正清(清正)、片桐、福島の三人が並んでいる。幕が開くと、その本格的な歌舞伎に近い舞台に、観客から一斉に歓声が上がった。百姓兵は、陣中見舞いも終わり帰ろうとするが、久吉は光秀の命令で自分を狙ってきた四天王但馬守であると見破る。見破られた四天王は、久吉軍を相手に戦う。
 公演の中盤で、本来のストーリーとは全く関係のない一団・・・ほおかぶりをした子どもを先頭に、道化役と大根役5人が音楽に合わせて踊りながら登場。子どもと道化役が大根の種まきから大根掘りまでを、秋田弁で面白おかしく演じた。

 大根を育てる場面では、大根に扮した農民が寝そべって並び、道化役が「伸びれよ-」と声を掛け水をやると、大根に見立てた両足を上げたり広げたりして育つ様子を滑稽に演ずる。会場は笑いの渦に包まれ、大いに盛り上がった。
 四天王と正清が一騎打ちする場面では、本物の松の木をへし折り、その木を武器にして戦う迫力ある演技に観客から大きな歓声が上がった。こうい場面では、祝儀を投げ入れ、「日本一!」「もう一遍やれ~!」と威勢のいい掛け声が掛かるのであろう。
地歌舞伎の特徴、楽しさ・・・「村芝居座長日記」(小栗克介)より

 村芝居の楽しさというものは、やる者も、観る者も本職じゃないが、それぞれみんなファンをもっている。固定したファンをもっているわけなんです。親類、縁者、そして近隣といった人たちです。だから、役者が上手だろうが下手だろうが、ポンポーンと゛見え゛をきるとバラバラと手拭いがが飛んでくる、みかんが飛んでくる、そして袋に入った祝儀が飛んでくる。まことに景気のいいものなんです。
 「よかったぞ!」「日本一!」というような声が気軽に掛かる。しかし、芝居を全部見ているわけではないんですよ。あさってのほうを向いて、酒を飲んでいる者もいるわけなんです。・・・いいところへくると「ようよう」と声を掛ける。別にそれをとがめる者もいないんです。・・・

 所作のいいところがあると、「いいぞ、もう一遍やれ」という声が掛かる。そうすると、もう一遍やってしまうんです。・・・本当に舞台と観客席というものが交流している。息がつながっている。そしてワッとくる。それが冷やかしでもなければ、ばかにしたものでも、ほめでもない。なんというか楽しいなぁ、という喚声なんです。「もう一遍やれ」と言うと、「よっしゃ」と言って、もう一遍やる。まぁ、そういうところが村芝居の特徴じゃないでしょうか。そして楽しみじゃないでしょうか。
参 考 文 献
パンフレット「地歌舞伎の祭典」(三種町)
「日本地芝居写真紀行」(山口清文、河出書房新社)
「美濃の地歌舞伎」(小栗克介編、岐阜新聞社)
「山本町史(続編)」(三種町)