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 2009年11月、秋田県初の地域おこし協力隊員2名が八木沢に来村・・・八木沢番楽の復活、休耕田の再生、高齢者の生活支援、そして2012年、新潟県南部の里山を会場に3年に1度開催される「第5回大地の芸術祭」で初の「飛び地開催地」に選ばれた。かくして、隠れ里のような八木沢の自然とアートを融合させた芸術イベントとして「KAMIKOANIプロジェクト」がスタートした。2012年は51日間で延べ9,114人、2013年は66日間で延べ12,010人が来場した。

 3年目を迎える2014年は、国民文化祭事業として8月9日~10月13日まで開催。今年の会場は、八木沢、沖田面、小沢田集落の3集落。出展作家は28人。八木沢では、旧八木沢分校や棚田、畑に現代アートを展示。プロジェクトの特徴は「ここに在るものを生かす」ことだという。

 子どもの声が途絶えて久しい山間奥地の旧マタギ集落・八木沢・・・そんな隠れ里のような村に、週末ともなれば若者や子供連れの家族がたくさん訪れる・・・200年の歴史が刻まれた旧マタギ集落と現代アートが放つ力は確かに大きい。少子高齢化時代・・・こうした山間奥地の集落が、どんどん消えてゆく時代だけに、尚更希少価値が高い。
八木沢会場散策MAP・・・開催期間 2014年8月9日~10月13日

 散策の起点は、八木沢公民館(旧八木沢分校)。駐車場に車を停めて、公民館の中に入り、MAPを手に入れる。このMAPの矢印のとおり、徒歩でゆっくり鑑賞することをオススメしたい。八木沢集落全体がアートになっているが、それを深く理解するには、八木沢の歴史、文化を知らねばならない
▲八木沢開墾記念碑 ▲萩形部落跡(昭和44年集落移転) 

開墾記念碑


 八木沢の棚田に通じる農道の起点には、今から200年前、文化10(1813)年に開墾した記念碑が立っている。北秋田市阿仁町根子の村田徳助(松五郎)が八木沢で焼畑を17年間営み、その後水田も開発、移住したのが始まりとされている。1830年には、さらに7人が加わり、八木沢村が拓かれた。

 マタギ発祥の地・阿仁根子からの分村だけに、江戸時代から狩猟を生業とするマタギ集落であった。この村より上流にあった最奥のマタギ集落・萩形も、根子から移住した者が拓いたが、昭和44年に集落移転し、村が消えてしまった。現在、八木沢集落は、小阿仁川沿いでは最奥の村に位置している。
豊かな森林資源で栄えた八木沢

 上小阿仁村の93%が森林で、そのうち78%が国有林(昭和35年)であった。だから昭和30年代、天然秋田スギのほとんどは国有林内に蓄積されていた。上小阿仁営林署は、当時、秋田スギの本拠地北秋田・山本郡内でもトップクラスの生産量を誇っていた。

 昭和40年、国有林の伐採が最盛期を迎えた八木沢集落は、戸数が54戸、人口が349名に達し、営林局の分署も置かれたほど、豊かな森林資源で栄えた。当時、八木沢分校には、35名の児童がいた。しかし、林業の衰退とともに人口減少と高齢化が急速に進み、昭和57年には、たったの1名で、閉校となった。現在、9戸、16人に激減している。

 2014年9月13日付けさきがけ新聞には、「上小阿仁村、県内初、高齢化率50%超」・・・住民の2人に1人が高齢者で、1人暮らし高齢世帯が総世帯の1/4を占めるとの深刻な調査結果が掲載されていた。県内初の高齢化率50%超の村にアートで人を呼び込み、活性化につなげようとする試みが「KAMIKOANIプロジェクト」である。
▲作品名「冬山」 阿部乳坊

 納屋の上にマタギと熊が対峙している。このアートは、江戸時代からマタギを生業としてきた村の歴史、文化を象徴しているだけにインパクトが強い。
八木沢マタギ

 菅江真澄が本家の阿仁根子を訪れたのが1805年・・・その頃は、まだ八木沢集落はなく、狩りのための中継地点に過ぎなかった。八木沢マタギを語る会(佐藤良美)の記録によると・・・その8年後の1813年に、「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が移住・定着した。「徳助翁は村田組に所属するマタギ、三之助翁は山田六之丞シカリから分家、七左衛門翁も善兵衛シカリから分家していた」と記されていることから、八木沢集落誕生と同時にマタギ集落としてスタートしたことが分かる。小阿仁川源流部は、奥が深く、昔から野生鳥獣の宝庫であっただけに、当然のことであった。

 大正12年、八木沢に教員として赴任した大沢要蔵先生の思い出(八木沢分校廃校記念誌)には・・・「部落の人達は実に裕福な生活水準をもっていた。猟の収入など一日に二十円、三十円、五十円と・・・・・当時の教員の月手当てが二十円で、生活水準の高さに驚いた。住人のほとんどは冬期間の狩猟従事者、その為か生活文化の水準は中流以上」と記している。

 この記録は貴重である。平場の農村が凶作で苦しんでいた時代に、山間奥地の萩形・八木沢は、マタギの生業で潤い、「生活文化の水準は中流以上」であったという事実である。ところが、村史ですら、萩形・八木沢の両部落については、「辺地」「僻地」「奥地なるがゆえに経済的、文化的に恵まれない部落」などといった記述が目立つ。こうした誤解は、「山間の集落は、平地に暮らす大半の人からはおよそ認識の外にあるといって過言ではない」(「知られざる日本」白水智)からであろう。

 最後の八木沢マタギ・佐藤良蔵さんは、42歳の時、「山の主」と呼ばれた200キロ超の大グマを仕留めたことがあった。その際、村の中心部で解体したクマ肉は、各家に均等に配分したという。このように、撃ち取った鳥獣たちは、山の神様からの授かりものであるから、仕留めた肉は、集落の人々に平等に分けあうのが八木沢マタギの風習であった。

 お互いに山の恵みを分け合い、支え合って生きてきた山間奥地のマタギ集落だからこそ、都会の人たちがとうの昔に失った住民同士のつながり、絆が強い所以であろう。
八木沢特別教育所の思い出(「上小阿仁村史」より要約)

 八木沢に巡回授業所が開設されたのは、明治18年である。明治27年には、特別教育所と改称。昭和3年に、八木沢分校が開校している。思い出の記録によると、八木沢特別教育所には、ストーブがなく、大囲炉裏があるだけ。暖をとるために三尺の薪を生徒が一日一本持参・・・まるで薪小屋のような学校であった。先生は、80歳という高齢のため、十分に教えることができず、先輩の生徒から習ったと記されている。

 その先生は、明治37年から八木沢に勤め、大正9年に老衰で亡くなるまで、この教育所の先生であった。当時、先生の宿舎は、全戸交替で分担する習慣であったという。だから、亡くなった時、戸板を担架代わりにして次の家に移したという。教育内容は?だが、八木沢の人々と教師の関係は、今では考えられないほど親密であったことが伺える。
 八木沢分校は、昭和57年に廃校になったが、住民が集う公民館として再活用されている。さらに、KAMIKOANIプロジェクト八木沢会場の中核施設としての役割も担っている。土日、祭日はカフェをオープン(9時~17時)している。
▲八木沢公民館内に展示されている番楽の面

八木沢番楽

 八木沢番楽は、1800年代に阿仁の根子から八木沢に移住した時に同時に伝えられたといわれている。だから、国の重要無形民俗文化財「根子番楽」の流れを汲んでいる。1989年頃、後継者難で途絶えたが、地域おこし協力隊の協力を得て、2010年に小中学校の学校祭で披露する形で復活した。

 裏表がある12演目・計24演目あったが、現在、「露はらい」「鞍馬」「曽我兄弟」「鐘巻」「鳥舞」の5つの舞が継承されている。
「carnivore-the falsified」 田村一(八木沢公民館内)

 解説には・・・かつてクマは、神からの恵みを「肉」として、里の人にもたらした。肉を受け取った人たちは、骨だけのクマの身体を美しく飾り付けて神々に向けて感謝する。

 この作品は、アイヌのイヨマンテを連想させる。アイヌの人たちは、クマは毛皮と肉を土産に人間の世界にやってきたと考える。だから再びお土産をたくさん持って訪れることを願って、クマを飾り付け、酒宴でもてなし、お土産をもたせてカムイモシリへ送り返すのである。
「衣羽バルーン」 山本太郎(八木沢公民館内)

 昔話に出てくる羽衣伝説や、能の演目「羽衣」をベースに、天女が住む桃源郷のような八木沢をイメージして制作したという。カラフルな風船が舞う空間は、子どもたちが喜ぶ桃源郷のような不思議な空間を創出している。
「村の丸太でつくったサウナ」 守村 大

 上小阿仁村産のスギでつくった丸太のサウナ。材料は、村に有り余るほどあるスギ材だから、いくらでも量産可能である。アートではなく実用品だが、漫画家がつくった所がオモシロイ。釘は一本も使っていないので、バラしてどこへでも発送できる。上小阿仁村がサウナの村になればかっこいいな・・・という願いが込められているという。
▲小阿仁川上流部の森林軌道跡  ▲八木沢マタギのナタ目
森林軌道

 大正11年、南沢~八木沢間の10kmに森林軌道が布設された。以来昭和30年代まで、上小阿仁営林署の管理する森林軌道は、この地域の人々の重要な交通手段でもあった。村内奥地から終点の七座営林署管内の天神貯木場まで45kmが幹線で、特に奥地の萩形・八木沢の人々の重要な交通手段であった。しかし、昭和37年に萩形ダム工事用道路が着工、翌年道路の完成によって森林軌道は姿を消した。
「風花」 空気ひとし

 棚田や畑に小さな風車が白い花のように点在している。風が吹くと白い花の風車が回転する・・・その自然の力をうまく利用した演出に心が和む。
「緑の家」 別府充貴

 廃屋を緑の家に塗り替えた作品。うっかりすると、見過ごしてしまうほど周囲の緑に同化している不思議な作品である。
▲作品「マッシュハウス」 ▲冬の八木沢集落

「マッシュハウス」 阿部乳坊

 蔵の屋根に被せたビニールを膨らませ、豪雪地帯の積雪を表現している。遠くから見ると、キノコの傘にも見えることから「マッシュハウス」と名付けたという。屋根の積雪は、実際とほぼ同じ2mほど。この作品は、雪は厄介者だが、見方を変えれば美しい風景を演出してくれることを教えてくれる。

参考:昭和59年豪雪

 記録的な昭和49年豪雪から10年後の昭和59年にも豪雪に見舞われた。上小阿仁村では、昭和59年2月10日に豪雪対策本部を設置。大林地区の積雪は1.7m、八木沢地区は2.5mを記録した。村史には、「八木沢地区の人々は日常生活の上で、中心集落から離れ、医療や通学、買い物などの不便さばかりでなく、雪の季節には身の危険さえ大きかった」と記され、村議会では補助対象の集落移転が話題になっている。
「microcosmos」 森 香織
「八木沢2012」 長沢桂一

 「ここ八木沢の自然そのものを作品にしたい」との思いから、「はさがけ」の杭を使って、カラフルな92枚のフレーム織と、山や緑の木々などの自然を交互に配置し、ゆっくり時を刻み変化する八木沢を表現しているという。
▲山神社

 山神のことを打当、比立内のマタギは「ヤマノカミ」、根子のマタギは「サンジンサマ」と呼ぶ。八木沢は、根子の分家だから「サンジンサマ」と呼ぶ。
▲阿仁根子の山神社 ▲森吉山山腹のアオモリトドマツ林

本家・阿仁根子との交流と森吉山登山

 昭和30 年頃は、根子の山神社の祭りは4月8日に行われ、この日は八木沢や萩形の人達も根子に来て、皆で祭りを楽しんだ。番楽だけでなく、相撲なども余興で行われ、土産などもふるまわれたという。昭和35年頃までは、八木沢から根烈岳の稜線を越えて阿仁根子まで徒歩で移動していたという。

 また、6月15 日には、マタギも含めて山仕事をしている人々は皆森吉山に登り、モロビ(アオモリトドマツ)を持って帰った。この森吉山登山は、根子の分村である八木沢、萩形の人々も、この日は森吉山に登った。だから阿仁マタギと同じく、モロビの香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられていた。八木沢では、モロビの枝を切ってそれを山神様に供えた。もちろん、「マタギ」に出掛ける時は、そのモロビの葉を燻した煙で体を清めてから狩りにでかけたのである。
「変容-はさがけ-」 芝山昌也

 古くから八木沢に立っている「はさがけ」は、稲を干す道具だが、実にユニークな形をしている。この道具は、その用途を超えて、ここで暮らしてきた人々の生活の碑のようにも映る。その「はさがけ」に鏡面の台座をつけて、威厳を持たせたという。
「Over the rainbow」 森 香織

 こちら側とあちら側、現在と未来、人と人・・・様々なものをつなぐ橋をイメージしている。この橋は、それぞれ見る人が行きたい場所につながっているという。
西山下地区の棚田

 小阿仁川左岸に広がる棚田は、小さな田んぼが323枚、面積が約6haである。かつては、浮内沢から峰越しに水を引いていた。しかし、20年ほど前から水路の維持管理が困難となり、ほとんどが遊休農地になっていた。2012年、大地の芸術祭の飛び地開催を契機に、山村の原風景を取り込んだアート作品の展示や棚田舞台が開設された。
▲クルマユリ ▲湧水
「循環の林」 芝山昌也

 八木沢集落内のスギのほとんどは、民家や水田の跡に植えられたものだという。新しいスギ林は、昔の暮らしの痕跡を消しながら、集落を森へと戻していく。このスギが植えられる前に、ここにあった小屋の痕跡をイメージして制作したという。
「源流-新天地へ-」 皆川嘉博

 遥か太古の昔、新天地を求めて辿り着いた民族をイメージして制作した彫刻作品。来場者は、横に張られたヒモに様々な色のリボンを結んでいく。そのリボンは、希望のエネルギーであり、彫刻は、そのエネルギーで未来へ突き進むことを期待して制作したという。
「転生―還る処―」 福永竜也

 クマの巣穴の入口は、棚田に掘った長さ10mほどの溝。その狭い溝を辿ると、高い円柱状の空間になっている。その巣穴の空間に入って、冬眠中のクマを想像すると、確かにクマに生まれ変わったような不思議な気持ちになる。人間はクマに生まれ変わる。そして巣穴から出ると、再び人間に生まれ変わる。まさに輪廻転生をイメージしているようである。
「夢見る犬」 関口恒男

 大きな犬のドームの中に水を入れ、その水の中に鏡をたくさん配置している。その鏡は、太陽光の反射でプリズムのように、強烈な虹色の光があちこちに反射する。それが「夢見る犬」のタイトルどおり、とても幻想的な作品になっている。
「八木沢2014」 長沢桂一

 時を刻むスピードは、どこでも一緒だが、人は場所や環境によってその感じ方が違う。都会と、ここ八木沢を比較すれば明らか。八木沢会場を2kmほどゆっくり散策すれば、ここには、ゆったりとした心地良い時間の流れがあることに気付かされる。それは、自然のリズムで時を刻む「循環する時間」を感じ取ることができるからである。

参考:循環する時間・・・「森にかよう道」(内山節)

 現代の人間にとって時間とは、時計の秒針のように同じ速度で動き、しかも時の矢のごとく直線運動をして、一度過ぎ去った時間は二度とかえってこないものと、とらえられている。・・・ところが・・・時間は直線的に過ぎ去っていくのではなく、円を描くように回転して、また元のところに戻ってくる。それは一年を経てまた春がかえってきたというような時間の世界である。時間は永遠の回転運動をしている。だから春がかえり、夏も、秋も、冬もかえってくる。

 この時間感覚は、農民や自然とともに暮らした人々のものであった。なぜなら自然とともに暮らした人々にとっては、今年も一年が過ぎてしまったという感覚より、今年も春がかえってきたという感覚の方が、自然だからである。
コアニチドリ(「道の駅かみこあに」)

 1919(大正8)年に木下友三郎によって小阿仁川で最初に発見され、牧野富太郎博士によって命名された。花が極めて小さく、蝶が飛んでいるような形をしているのが特徴。かつては群生地があったが、今では見ることができなくなったという。他に大平山の山頂付近にも自生している。絶滅危惧種Ⅱ類。「道の駅かみこあに」では、山野草愛好家が育てたコアニチドリが販売されている。
参 考 文 献
「上小阿仁村史 通史編」(上小阿仁村) 
「知られざる日本 山村の語る歴史世界」(白水智、NHKブックス)
「森にかよう道」(内山節、新潮選書)
ブログ「八木沢マタギを語る会」(佐藤良美)