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32+thマタギサミットin奥会津

  • 毎年恒例のマタギサミットは、コロナ禍で2年間中止となっていた。2022年6月25~26日、村や猟友会関係の小規模な代表者会議が奥会津只見町で臨時的に開催された。「コロナ禍のマタギサミットを考える」をテーマとした議論では、サミットの継続的な開催を望む声が圧倒的で、来年のマタギサミットは、再び只見町で正式開催されることが決まった。
  • 秋田市から只見町まで約500キロ。その8割強を高速で走っても、7時間半余りかかった。江戸時代後期、阿仁の旅マタギは、晩秋の根雪が乗り始めた時季を狙って尾根から尾根へと移動する裏街道を辿りながら歩いてやってきた。高速交通網が発達した現代人には、想像することすら困難なほど、そのバイタリティの凄さに、ただただ驚くほかない。当時、関所の役割を担っていた長谷部家文書の往来日記には、裏街道ばかり歩いていたと思われた旅マタギの名が実名で記されていたという。西暦1800年代、阿仁の旅マタギが只見町までやってきた物的証拠が見つかったという点で画期的である。阿仁打当の旅マタギが現地で描いた「会津黒谷山の絵図」と併せると、江戸時代後期から活躍していた旅マタギの証拠が揃ったと言える。
  • 特異な雪食地形
     大豪雪地帯の只見町に向かって走ると、集落の背後に迫る山の異様な地形に釘付けとなる。急な斜面と切り立つ尾根、その尾根から山麓に向かって爪で引っ掻いたような岩が筋状に露出している。これは、雪崩が山肌を侵食したためにできたもので、雪食(せっしょく)地形と呼ばれている。そんな雪食地形が延々と続く里山の風景は、初めて見る光景であった。
     どうしてこんな特異な地形ができるのだろうか。その理由は、日本有数の豪雪地帯であること、急峻な山岳地形であること、比較的もろい緑色凝灰岩が広がるという地質的な特徴にあるという。 
  • 32+thマタギサミットin奥会津(ただみの森キャンプ場・古民家「目黒家」)
  • 開会あいさつ・・・マタギサミット主宰幹事田口洋美先生(狩猟文化研究所代表)
  • 歓迎のあいさつ・・・只見町町長 渡部勇夫さん。田口先生からヤマケイ文庫の「新編 越後三面山人記 マタギの自然観に習う」と「クマ問題を考える」の二冊をいただき、読ませてもらったとの話があった。(この二冊は、特に山に関心のある若い人に読んでほしい本である)また雪国只見では、昔からゼンマイ採りが盛んで、小さい頃の想い出を話してくれた。
  • 「只見とっておきの話 ゼンマイオリ」には・・・(写真:ただみの森キャンプ場から只見町を望む) 
     ゼンマイの採取を只見町ではゼンマイオリという。ゼンマイオリが盛んな地域は、塩ノ岐・黒谷入・下福井・田子倉・石伏・叶津・蒲生・塩沢などで、特に盛んなのは田子倉と叶津。ゼンマイオリは、5月10日頃から6月一杯が勝負。田子倉のゼンマイ小屋は、幅2.7m、奥行き5.4mほど。床に草を敷き、その上にムシロを敷き、入り口近くに囲炉裏を設けた。ゼンマイの加工は、天日干しと青干しがあるが、小屋ではもっぱら青干し。ワタをとった後のゼンマイをスノに載せ、囲炉裏で薪を燃やして乾燥した。こうすると煙で燻蒸され、天日干しよりも虫がつかない。皆川喜助さんは、父親と一シーズンで百貫(375kg)先採ったことがあるという。父親は「千両箱とった」というほど、ゼンマイが一番の現金収入源だった。
テーマ1 コロナ禍のマタギサミットを考える。
  • 世代交代の時代。若い人たちの参加を考えると、小じんまりとやるのではなく、大きい方が良い。
  • 楽すること、快適さを求める若者が多いが、若者にもっと山を知ってほしい。
  • サミットは、色々な情報交換ができるし、人のつながりを大切にしていきたい。
  • かつて、地域の伝統的狩猟を語る特集番組などが放送された日の深夜に、突然電話をかけてきて「動物殺し!」などと罵声を浴びせられるなど、保護団体から敵視されていた。
  • 「敵こそ味方」・・・仲間には反対もされたが、保護団体にも粘り強く参加を呼びかけ、開催してきた結果、WWFJapan、自然保護協会、緑の地球防衛基金、日本野鳥の会、知床財団、尾瀬財団、自然環境研究センター、自然保護関連のNPO法人など数多くの友人や知人がこの会を支えてくれるようになった(これこそサミットの大きな成果の一つだと思う )
  • 急速に進む少子高齢化時代・・・多くの保護団体から支援されるようになった一方、里山の荒廃・山村の衰退とともに、野生動物問題は深刻な社会問題になっている。にもかかわらず、野生動物との向き合い方をすっかり忘れてしまった現代人は、その劇的な変化についていけず、右往左往するばかり。そんな時代だからこそ、マタギサミットへの期待は、益々高まっているように思う。 
参考:マタギサミットとクマ問題回顧録
  • 2003年・第14回マタギサミット・・・農地の限界まで耕した山間奥地の田畑は、今、猛烈な勢いで耕作放棄され、雑木林化・奥山化している。それは同時にクマやサルなどの野生動物がそのテリトリーを低平地へと拡大してくることを意味している。→耕作放棄=自然からの撤退は、野生動物のテリトリーの拡大を招くと指摘
  • 2004年・第15回マタギサミット・・・100年後の日本列島はどうなるのだろうか。現在の人口1億2千7百万人が7千万人~8千万人に激減、昭和初期の人口に戻るだろう。山村は次々と廃村化し、マタギの技術も喪失、森に吸収されるだろう。一方、都市近郊農村の過疎化が進み、都市へ吸収されるだろう。狩猟人口も激減、狩猟技術もどんどん失われるだろう。そうなれば、森も野生動物も都市近郊に押し寄せてくるだろう。このまま手をうたなければ、動物にやられ放題になるのではないかと警告・・・今から18年前に警告したことが現実に!
  • 2005年・第16回マタギサミット・・・かつてマタギサミットの会場で「今の時代、なぜクマ肉を食べなきゃならないのか」という質問が出たことがあった。その時はびっくらこいたが、今は、それほどの人はいなくなった。→これもサミットの大きな成果。
  • 2006年・第17回マタギサミット・・・①クマが増えた。それでも有害駆除は去年と同じ。それを何回も繰り返しているうちに里クマが増えた/②春クマ狩りをすると、クマは人間が恐ろしいことを学習し、里には下りてこない/③ここ20年ほどの変化は、クマ狩りが奥山ではなく、ほとんど手前で捕れるようになったこと。狩りのラインが里に下りてきている/④日常的に里山に住み、畑に依存したクマ。こうしたクマは人を恐れない→マタギたちがいくらクマが増えたと言っても、クマの生息数はなぜか毎年同じ。人を恐れない里グマ化の進行を指摘。
  • 2007年・第18回マタギサミット・・・近世弘前藩のクマによる人身被害の記録には、ツキノワグマが人を襲い食べていたことが報告された。ヒグマなら分かるが、ツキノワグマが人を喰うことを初めて知った。 →過去の人身被害を調べると、1988年、山形県戸沢村で3件連続した食害事件があった。
  • 2012年・第23回マタギサミット・・・ニホンジカが増え、クマは待ち伏せしてシカを襲い食べている。肉食化したクマが増えていることが指摘された。クマの肉食化がなぜ悪いのか、マタギに聞くと、家畜を襲ったり、人を襲って食べることにつながる→2016年、秋田県で本州最大の惨事が起きた。
  • 2016年5月下旬から6月にかけて、鹿角市十和田大湯で発生したツキノワグマによる獣害事件が発生。タケノコ採りや山菜採りで入山した4人が死亡、4人が重軽傷を負うという本州史上最悪の獣害事件である。また人を襲ったクマが複数存在し、食害したクマも複数存在すると言われている。
  • この事件が発生するまで、秋田県内のクマの生息数は、おおむね千頭前後で推移していた。千頭なんてとんでもない、その何倍もいるのではないかとの声を受けて、2017年度からカメラトラップ法を新たに導入・調査した結果、2020年春の推定生息数は4,400頭と4倍以上に増えた。今年の人身被害も既に6人、うち生活圏内で4人、うち1人が死亡している。
  • 奥山ではなく、生活圏内で悲惨な人身事故が目立つ
    1. 2019年10月31日午後8時頃、秋田市添川の住宅街で、帰宅した男性(46)が自転車を自宅敷地内に止めたところ、突然クマに襲われ、両目を失明したほか、頭の骨を折るなどの重傷を負った。
    2. 2020年10月7日正午ごろ、藤里町中心部の町道でクリ拾いをしていた80代女性がクマに襲われ、死亡。
    3. 2022年5月25日午後3時10分頃、北秋田市坊沢の水田で、男性(78)が農作業中にクマに襲われ、死亡している。
  • これまでマタギたちが繰り返し指摘してきたことが、恐ろしいほど的中している。一般の人たちにとって、こうした野生動物の増減や行動の変化などは分からない。被害を防ぐあるいは軽減するためにも、マタギサミット開催を望む声が高まるのは当然のことだと思う。
テーマ2 秋田マタギと奥会津
  • 左・右上写真:只見町ブナセンター/右下写真:奥会津と秋田マタギについて語ってくれた渡部民夫さん
  • 「只見とっておきの話 只見町の狩猟習俗」によれば・・・
     只見町の狩猟習俗の特徴は、秋田の阿仁マタギの影響を受けている点である。江戸時代、阿仁マタギは、遠く只見までやってきた。そうした阿仁マタギの来訪を伝える話として、「塩ノ岐の目黒俊衛家の先祖は秋田の猟師であった」、黒谷入の倉谷は、狩猟の盛んな集落であったが「熊捕りは秋田が元だ」「黒谷川の上流には『秋田衆小屋場』と呼ぶ場所がある」などがよく知られている。
  • 田子倉の皆川政一郎氏所蔵のマタギ文書「山立根元巻」は、秋田マタギが所持していたものを手本に多少書き加えたものと考えられている。その他、阿仁マタギがもたらしたものは、狩場を神聖な場所として里と区別する風習・山の神信仰から山言葉、シカリ(指揮者)を中心とした狩猟方法などがある。
  • 秋田マタギが奥会津にやってきた証①「奥会津黒谷山絵図」
     阿仁打当の鈴木松治さんの先祖・鈴木松三郎が、旅マタギで書いた会津黒谷山の地図。松三郎は、江戸末期から明治初期の人。まだ鉄道がない時代、徒歩で山の尾根を歩き、県外各地へ旅マタギをしていたことを裏付ける貴重な資料である。絵図は、南会津郡只見町黒谷地区を北端に、南北、東西とも約12キロ四方を横約40cm、縦約30cmの和紙に描かれている。只見川支流黒谷川流域には、会津朝日岳(1624m)、大幽山(1401m)、高倉山(1576m)などがそそり立っている。実際に足で歩いて書いたもので、川や沢、林、岩場、険しい高山などが入念に描かれている。
  • 阿仁打当・鈴木松治さんの話・・・「会津の地図な。あれはオラの親父だの孫爺さんらが使ったもんだべしゃ。会津方面に旅マタギさ出る時持って行ったもんだと思うすな。あの地図は会津の只見あたりの山だけども、やっぱり他所の山というのはわからねぇがらな、あーいう図面持って歩いたんだな」
  • 「旅マタギは面白半分でやったんでねぇ、旅先で雪崩に遭い命を落とした人も数えきれないほどいる。生活のため、生きるためだ」
  • 秋田マタギが奥会津にやってきた証②「秋田マタギ衆の遭難」
     黒谷川上流域には、地元の猟師ばかりでなく、秋田マタギがカモシカ猟に来ていた。黒谷川の支流継滝沢(つんだきざわ)と大幽沢(おおゆうさわ)西沢の枝沢道木沢(みちぎざわ)に「秋田衆小屋場」と称する岩窟がある。
     安政年間(1854~1860年)以前のことだが、秋田マタギ衆が小幽沢の樋ノ口沢にも小屋をかけ、十数人が寝泊まりして猟をしたおりに、この場所には滅多に出ない表層雪崩が会津朝日岳から崩れ落ちて小屋を襲った。黒谷集落の上に「転び石」と称する岩石があって、その側に犠牲者たちの遺体を葬ったと伝えられている。 
  • 上写真:旧長谷部家住宅(県重要文化財)/右下:八十里越・古道入口(浅草岳入叶津登山口)
  • 秋田マタギが奥会津にやってきた証③
     叶津村の名主をつとめていた長谷部家は、江戸時代、会津と越後を結ぶ八十里越の関所の役割をもつ番所でもあった。その長谷部家文書の一つ「往来日記」には、誰がどんな目的でどこへ行くのかを書き留めている。その中に、秋田マタギが記されていたという。 
  • 嘉永4(1851)年「往来日記」・・・「羽州秋田荒瀬村猟師 万太郎組三人 熊皮一枚」「羽州秋田猟師五人組三九郎組」が新暦5月頃に帰郷したことが記されていた。文政~弘化(1804~1830年)にかけて秋田からの猟師を差し止めるよう触れを出しているが、嘉永になると堂々と番所を通過している。その変化の理由は不明。
  • 旅マタギは、江戸時代後期から昭和30年頃まで続いた。
  • 旅マタギに習って、ある程度山を使いながら、山を元気にできればと考えている。 
  • 南会津の春グマ猟は、4月3日から3週間。土日ハンターが多い。
  • シカ、イノシシもいるので、加工施設がほしい。
  • 春に巻き狩りをやりたくても、人がいない。後継者を育てないといけない。それは我々の責任。
  • マタギサミットをもっと大きくして、若い人たちにも直接言葉で伝えていければと思う。
  • 伝統的な春の巻き狩りは、クマに対して集団で人の怖さ教えることができる。だから巻き狩りは、クマと棲み分けする方法の一つ。巻き狩りは、2人でも3人でもできるので、ぜひ実践してほしい。
  • 何の対価もなく、若者を山に連れて行って技術を伝承するのは難しい。
  • ナラ枯れがひどく、ドングリが落ちていない。今後、クマの棲む場所がどうなるのか。クマの生態の変化を心配している。
  • 大丈夫、クマはちゃんと冬眠している。後10年もすれば、ドングリが実るようになるから心配無用。
  • シカの繁殖力が凄い。エサの取り合いをしている。
  • イノシシの出産は、通常1年に春1回だが、2回に増えている。人間の捕獲圧が高くなってウリ坊を失うと、イノシシの妊娠率が上がる。
  • 冬眠しないクマがいる→子グマが親を失い、冬眠の経験がないと穴の入り方が分からない。 
  • 奥会津・金山マタギ 猪俣昭夫さん
     ネット検索で、「奥会津 マタギ」と検索すれば、奥会津最後のマタギ・猪俣昭夫さんの情報が一杯出てきた。「福島大学 新入生学外研修 マタギ猪俣昭夫さん講話-YouTube」によれば、大正の初めころ、十和田湖からヒメマスの発眼卵をもってきて養殖が始まったという。マタギだけでなく、ヒメマスの養殖についても秋田と関係があることを知り、沼沢湖(上の写真)に寄ってみた。湖は意外に大きく、底まで見える透明度の高さに驚いた。
  • 猪俣さんの話によれば、ヒメマスは毎年15万匹放流しているという。この風光明媚な金山町だが、高齢化率は何と60%を超え、福島県でワーストワン。そんな町の最後のマタギ・猪俣さんの生き方に惚れて、4人の若者が町に移住したという。猪俣さんの人柄と山と向き合って生きる考え方が素晴らしいだけに、その門下生となった余所者・若者が村を変え、活性化させてくれることを期待したい。     
  • エクスカーション/只見町只見沢浅草岳登山口・・・6月26日は、浅草岳の山開きで、登山口には車が満車状態であった。
  • クマの食性の変化・・・クマは、アクの強さで有名なトチの実は食べない説と食べる説があったが、近頃のクマは食べているという。 ナラ枯れでドングリがなければ、トチの実を食べるようになるのも頷ける。地域によってナラ枯れの度合いや木の実の豊凶が異なるので、クマの食性が異なるのも当然のことだろう。
  • 秋田マタギとカモシカ・・・この只見の山で捕ったカモシカは、どうやって保存・運搬したのだろうか?。田口先生によれば、寒中、捕獲したカモシカの肉は、雪穴と雪トンネルを組み合わせた手づくりの雪燻製器で燻して保存。運ぶ時は、炭俵の中に燻製肉を毛皮でくるんで隠し運んだという。(写真:雪崩が頻発する雪食地形)
  • ブナの実「豊作」・・・ブナの実は4~8年に1回しか豊作にならない。只見町のブナは、上の写真のとおりたくさんの実をつけているので、珍しく豊作とのこと。秋田のブナも久々にたくさんの実をつけている。予想通り豊作ともなれば、来年はクマのベビーラッシュで、危険な親子グマに遭遇する確率が高くなるだろう。
  • 登山口周辺で撮影した昆虫・・・サカハチチョウ、スカシバガ、ツバメシジミの♂と♀
  • 只見町で採集された昆虫の標本(只見町ブナセンター)・・・只見町ブナセンターには、多種多様な昆虫の標本が展示されている。さらに「只見のブナ林の昆虫」(500円)の小冊子も編集・発行している。「ただみ・ブナと川のミュージアム」を拝見すれば、只見の生物多様性の豊かさが分かる。秋田マタギや源流志向のイワナ釣り師たちが、奥会津の山と渓谷の魅力にとりつかれるのも納得!
  • 瀬畑雄三翁と旧長谷部家住宅(写真:仙北マタギにテンカラを指導した瀬畑翁)
     山に泊まって全国を釣り歩いた山釣りの大御所・瀬畑翁が旧長谷部家住宅によく逗留し、釣り三昧の暮らしをしていたことを耳にした。そういえば、和賀山塊のマタギ小屋で、「只見のターザン」の話を聞いたことがあった。旧長谷部家住宅のオーナーであった坂本知忠さんと懇意だった関係でよく利用していたという。坂本知忠さんは、白神山地のブナ原生林地帯に入り、1987年、「白神山地 本州最後の秘境」を出版。その頃は、私も白神山地をホームグランドに釣り歩いていたころである。もちろん瀬畑翁も白神山地の源流部に何度も足を運んでいた。秋田・青森にまたがる白神山地や和賀山塊、奥会津は、共に「ブナ帯の森」=「マタギの森」という点で共通している。その森の豊かさが秋田マタギを惹きつけ、奥会津を愛してやまない坂本さんや瀬畑翁を惹きつけたものであろう。
  • 江戸時代後期、旅マタギはどのようにして遠方の只見までやってきたのか?、どんな狩りをしていたのか?
     「マタギを追う旅」(田口洋美)を参考にすれば、旅マタギは10月下旬頃、阿仁を出発。いくらマタギでも、雪のない時期にヤブだらけの尾根を歩くことはできない。だから晩秋の根雪の乗った時季を狙って、奥羽山脈の尾根の上を移動しながらウサギなどを獲り、途中、米塩を調達するために里にあるマタギ宿に立ち寄り体を休め、再び山中へ入ることを繰り返し、秋田から500キロも離れた大豪雪地帯・奥会津只見までやってきた。
     雪は一見邪魔者に見えるが、旅マタギの移動と狩りにとって、なくてはならないものであった。だが、本格的な降雪期になると、ラッセルもしなければならず、遠距離の移動はできなくなる。だから旅マタギは、本格的な降雪が始まる前に只見の猟場へ到着しなければならなかった。
     狩りは、晩秋から寒にかけてヒラオトシなどの罠をかけたり、ウサギやムササビを獲り、寒に入るとサルやカモシカ猟、寒が明けて三月頃から穴グマ猟、春4月から5月初旬にかけて穴から出たクマを巻き狩りし、「往来日記」に記されている通り、5月には帰郷していた。
  •  こうした旅マタギの移動と厳冬の山岳地帯で半年にも及ぶ狩りをするためには、計り知れないエネルギーを要する。その旅のエネルギーは、ただ「生きる」ためという単純な目的だけでは到底生まれ得ないように思う。原生的な奥会津の山々に彼らにしか分からない山の絶景、感動、あるいは人生を賭けるだけの何らかの価値を見出したからに違いない。
  •  例えば、鈴木牧之著「秋山記行」に記された旅マタギは、「大滝というのがあります。高さは20mもあろうという滝です。その素晴らしい光景は、旦那さんに一目でもいいから、ぜひともお見せ申したいものです」とか、岩菅山を越えた所に「燕滝という大滝があります。この滝の見事なことは、言葉にも話にも、とてもその一端も言い表せそうにもありません。とにかく大変な滝です。大きな岩の真ん中から、ごうごうと音を立てて落ちる滝壺は、きれいな藍色です。おそらく底無しと思われます、その両岸も計り知れない高さで覆いかかり、その岩には山ツバメが巣を作っています。その風景はとても口で説明尽くせません」と、深山幽谷に懸かる滝の絶景を語っている。
  •  旅マタギがやったことは、今でいう未踏の縦走登山や沢登り、山釣り、サバイバル登山、国境を越えた未知への旅といった趣味や冒険的な分野にも相通じるものがある。当時は、全くの未開拓分野だけに、旅マタギはアウトドア全般のパイオニア的な存在とも言える。その現代の継承者が、 奥会津を愛してやまない坂本さんや瀬畑翁のような人たちであろう。
参 考 文 献
  • 「只見ユネスコエコパークの自然と暮らし」(只見町ブナセンター)
  • 「おもしろ只見学ガイドブック改訂版」(只見町)
  • 「只見とっておきの話」(只見町)
  • 「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)
  • 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
  • 「マタギを追う旅-ブナ林の狩りと生活」(田口洋美、慶友社)
  • 「人狩り熊」(米田一彦、つり人社)
  • 鈴木牧之著「秋山記行 現代口語訳 信濃古典読み物叢書8」(信州大学教育学部附属長野中学校編)