本文へスキップ

いぶりがっこ発祥の地探訪(横手市山内三又)

 2018年11月10日(土)、森の学校2018「元気ムラの旅シリーズ5 いぶりがっこ発祥の地探訪」が、横手市山内三又地区で開催された。参加者は28名。休耕田を活用した山菜の産地づくりや三又ブランド「いぶりがっこ」作業現場視察、三又コミセンにて三又地区の歴史、農聖・石川理紀之助の教えなどについて学び、道の駅さんない及びwoodyさんないで昼食・買い物をした後、樹齢千年「筏の大杉」にまつわる歴史文化について学んだ。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン(018-882-5009)
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/横手市山内三又地区
  • 三又集落・・・横手市山内地域で最も山間奥地に位置し、冬の積雪深は3mにも達する豪雪地帯。にもかかわらず、85世帯、人口211人と、意外に大きく元気なムラに驚かされる。
  • 本日のガイドは・・・三又集落自治会長の石沢達雄さん(右)、高橋幸村さん(左)
  • 三又製材所向かいから三又集落を望む 
  • 山内南共助連合会・・・耕作放棄地を活用した山菜栽培に取り組む山内の支え合い組織。山内南部地域にある三又、南郷、筏の3地区の住民組織で構成。活動は「トヨタ財団」の助成を受けて2年目。
  • 定植活動は、地元高校生を招き世代間で交流しながら実施するなど、山菜の産地づくりを進めている。植栽しているのは、コシアブラ、ネマガリダケ、ワラビ、ゼンマイ、タラノメ、ウルイ、ウドなど。昨秋植えたコシアブラやネマガリダケは、一部が収穫も可能な状態だという。
  • 三又親水公園・・・横手川源流に位置する清流に整備された三又親水公園。毎年、お盆には、帰省してきた子供たちにふるさとの楽しい思い出をつくってもらおうとイワナのつかみ捕りなどのイベントを開催しているという。
  • 三又ブランド「いぶりがっこ」作業現場視察
  • 三又地区の大根畑
  • 「いぶりがっこ」はなぜ生まれたのか?・・・秋田市「仁井田大根」のように、収穫後、外で干してから漬け込むのが一般的である。しかし、山間奥地に位置する三又地域は、風が弱く、みぞれや雪の日が多く、収穫した大根を外で干すのが難しいため、囲炉裏の上に大根を吊るして、干したのがはじまりと言われている。
  • いぶり小屋・・・現在は、囲炉裏のある茅葺き民家に代わって、大根を燻煙する専用の「いぶり小屋」で行われている。編み込んだ大根を、いぶし小屋に運んで、吊り下げ、5日ほど昼夜火の勢いに気を配りながらいぶし続ける。
  • 燻煙材・・・ミズナラ、サクラ、リンゴ。特にサクラを使用すると香りが良いという。 
  • いぶし終わった大根・・・きれいな飴色に変わり、しっかりと香りがついている。 
  • 漬け込み・・・ザラメ、塩、炊いた玄米、米糠、ウコン粉や紅花粉などをあらかじめ調合しておき、大きな漬け樽に、隙間なく大根や山内にんじんを並べ1段ごとに振りかけていく。漬け込んでから50日ほど経つと味がしみ込み、色艶が出て美味しい「いぶりがっこ」が出来上がる。ただし、その詳細なレシピーは、家の数ほどあるのが手づくり「いぶりがっこ」の特徴である。
  • いぶりんピック・・・横手市山内地域の特産品「いぶりがっこ」の出来栄えを競う「「いぶりんピック」は、平成19年から開催。無添加いぶりがっこ部門の初代チャンピオンは、三又地区の高橋篤子さんである。 
  • 三又コミュニティセンター(旧三又小学校)
  • 三又の歴史・・・地元では、奥州藤原氏の滅亡後、ヤゴロウ、タスケ、サンゴロウと名乗る3人の落ち武者が流れ着いたのが始まりだと語り継がれてきた。1825年、三又を訪れた菅江真澄は、桂沢、兜沢、松沢の三つの沢が落ち合うことから「三又」になったと記している。
  • 大山祇神社・・・標柱によると、「この神社の創建は1532年で、金山の隆盛期・寛文(1661~73)年間に、三又神楽が初めて奉納されている」
  • 神楽と番楽・・・一般的に岩手では「神楽」、秋田では「番楽」と呼ばれているが、「三又神楽」という名称は、岩手の影響を感じさせる。 平泉・黄金の道「秀衡街道」にも近いことから、その落人説も含めて共通の歴史文化をもっているのであろう。
  • 三又地区は、耕地面積が少ない豪雪地帯だけに、米以外の生業に日々の糧の多くを依存するしかなかった。中でも換金作物として重要な養蚕が盛んに行われた。1階は居住空間として、2階からは養蚕、つまり絹をとるカイコの飼育場として活用した。だから昔は、世界遺産「白川郷」(上の写真)のような茅葺き屋根が連なっていたという。
  • 古くから「葉タバコ」栽培も盛んであった。現在は、山内名物「いぶりがっこ」の加工販売、伝統野菜「山内にんじん」の復活生産、観光ワラビ園、高齢者でも取り組める山菜の産地づくりなどを進めている。
  • 三又コミセンの中の床の間には、農聖・石川理紀之助翁直筆の掛軸が飾られている。さらに上には、石川翁の写真も飾られていた。
  • 農聖・石川理紀之助翁とは・・・明治時代の農村指導者で、生涯を貧農救済に捧げた人物(1845~1915年)。「老農」あるいは「農聖」と敬称されている。彼を抜きにして秋田県農業の歴史は語れないと言われるほどの偉人で、「秋田県農業の神様」とも言われている。その遺志は、戦争の中でも一度も休むことなく開催された「種苗交換」に如実に受け継がれている。今や「先人に学び農業の未来を開く」と題した種苗交換会は、全国でも最大の農業祭に発展し、秋田県農業・農村の発展に計り知れない効果をもたらしている。
  • 「寝ていて人を起こすことなかれ」・・・理紀之助が残した名言である。
  • 農聖・石川理紀之助翁直筆の掛軸(明治31年4月)・・・現代人には難解だが、豊かな実りに恵まれても、飢饉のときの心構えを忘れるな、という意味。三又を訪れたのは明治31年5月だが、贈った書の日付は4月になっている。三又では、訪問前にあらかじめ石川翁に書を頼んでいたという。
  • 「救荒巡回」・・・明治30(1897)年の県内凶作と日清戦争後の物価高騰のため、餓死者が心配されたので、翌年、県農会として救荒本部を設置し県内各地を巡回している。上の写真の矢印の人が石川理紀之助である。その救荒巡回で驚かされるのは、経費は全て自費であること、荷車に自炊道具を積み、寺社・学校に寝泊りしていること、講演後は山林に入って薪を集め自炊をしていることである。相手に迷惑を一切かけずに、58ヶ所、延べ6,600人に指導・教育を行っている。
  • 「救荒巡回」と三又・・・「救荒巡回」の最重要地区である横手市山内地区は、5月5日~9日の5日間実施。特に山間奥地の三又には、5月8日~9日の2日間を費やして凶作を生き抜く策を教えたという。 今でも、農聖・石川理紀之助翁の写真と翁から贈られた書を掛軸にして大切に飾っている。
  • 旧三又小学校のサクラの古木に止まったアオゲラ・・・日本固有種の大形キツツキ。旧三又小学校の近くには神社もあり、その鎮守の森の古木にも止まっていた。恐らく半枯れの幹の間から昆虫やその幼虫を取り出して食べているのであろう。
  • 道の駅さんない・・・三又地域に住む農家の婦人たちによる組織「三又旬菜グループ」で生産したものが販売されている。
  • woodyさんない・・・間伐材、木工製品展示販売 
  • 筏の大杉のガイドは・・・横手市山内前郷出身の森の案内人・中野哲夫さん。
  • 中野さんによると、筏の大杉には「筏の番神様」という神様がいて、向かいの山には「筏の仙人様」という神様がいるという。
  • 筏の大杉・・・樹高43m、幹根周囲12m、樹齢1000年以上、秋田県一の巨木で昭和63年3月15日に秋田県指定天然記念物に指定されている。地上約5.5mのところで主幹が東西の支幹に分岐している。地元では「番神(ばんじん)の大スギ」とも呼び、樹木の一部に乳房の形をしたコブがあることから、古来より授乳のご利益がある神木として祀られている。平成2年には「新日本名木100選」に選定されている。
  • 菅江真澄と筏の大杉・・・1825年、この地を訪れた菅江真澄は、絵図「筏の大杉」(秋田県立博物館蔵写本)を描いている。筏の大杉がある比叡山神社の起源は、1575年の昔話「筏の番神さま」とする説と、大同3(808)年とするものの2説があるが、大杉の樹齢から察するに古い方であろうとしている。それほど古い歴史をもつことは、筏の大杉を見れば誰しも納得するであろう。
  • 筏集落一帯は、かつて疫病のために死に絶えたことがあった。それ以降、筏では、12月28日から1月2日まで集落ぐるみで精進を行い、1月2日の朝、神前に供えたクルミ餅を食べて精進を終え、初めて嫁は集落へ出入りできるとされた。
  • 筏の大杉で行われていた神事(菅江真澄記)・・・筏村の三十番神社の前の雪の上で、除夜更けて五穀豊穣を占う大松明の式がある。夜が明けると、去年この村に来た初婿が集まり、神社の神前で雪を踏みならして相撲が行われる。これも筏の上と下にわかれて争い、一年の良し悪しをを占うのである。神官が神前で油餅に火をつけて燃やし、これを村の家ごとに分け配るのは、疫病を避ける呪いであるという。
  • なぜここに千年もの大杉があるのか、その歴史を調べると・・・
  • 世界文化遺産「平泉」の黄金の道「秀衡街道」・・・平安時代末期、平泉藤原三代秀衡(1122年~1187年)と黄金文化を支えた「秀衡街道」は、西和賀町巣郷から県境を抜けて横手市山内黒沢~南郷~筏~大鳥井柵、金沢柵に至る陸奥・出羽両国交流の主要路であった。
  • 秀衡街道には、鷲之巣金山や畝倉山・明戸山の金山跡、秀衡堀場、金売吉次の隠し金山の伝承が残され、黄金を運ぶ道でもあった。(写真:「金色堂」えさし藤原の郷)
  • 1151年、この道の難所・和賀の仙人峠に、秀衡が先祖の霊を仙人権現として祀った。その西の里宮が「筏の仙人様」と呼ばれる筏隊山神社である。その横手川向かいにある「樹齢千年・筏の大杉」は、この道のシンボルとなっている。
  • 筏隊山神社は、昔、仙人権現社と称し、菅江真澄の「雪の出羽路」にも「仙人峠に鎮まる神霊を遷し奉った」と記されている。つまり「秀衡街道」の「西の守護神」の役割を担ったことから、この仙人権現社に中尊寺ハスが株分けされることになったという。
  • 三又、南郷、筏集落は、黄金の道「秀衡街道」の主要路線沿いに位置していたことから、少なくとも集落の起源は、850年以前であろう。その歴史の深さにも驚かされた。        
参 考 文 献