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マタギシンポジウム~伝統狩猟の世界、その可能性と未来~

  • 2019年6月21日、マタギ文化の歴史や継承について考える「マタギシンポジウム」が、北秋田市文化会館で開催された。「阿仁マタギ」の文化を「日本遺産」(文化庁)に登録することを目指す北秋田市日本遺産事業推進協議会の主催で、参加者は400名ほどと大盛況であった。東北芸術工科大学田口洋美教授(民俗学)の講演や宮城県利府高等学校村上一馬先生との質疑応答・対論、狩猟免許をもつ女性4人のパネラーによるパネルディスカッションが行われた。日本の狩猟民を代表する阿仁(旅)マタギの凄さや、その伝統を継承する課題と戦術などについて意見交換が行われた。
  • 歓迎のあいさつ・・・北秋田市日本遺産事業推進協議会会長 津谷永光北秋田市長
  • 記念講演「阿仁(旅)マタギの真価」 講師:東北芸術工科大学 田口洋美教授(民俗学)
  • 奥羽山脈(空撮)・・・電波塔も登山道もない原生的な奥羽山脈。旅マタギが歩いたマタギ道は、山々を尾根から尾根へと移動する尾根道が利用された。近世から明治に鉄道が普及するまでは、阿仁から奥羽山脈の尾根に沿って南下し、中部地方の山岳地帯までやってきた。
  • 旅マタギの凄さは、単に国境を越えたというだけでなく、狩猟を大きく変えたこと。すなわち自給自足的な狩猟を近世型市場経済システムへとバージョンアップさせたことである。 
  • 三面マタギ・・・旅マタギについて初めて耳にしたのは、羽越地方を代表するマタギ集落・新潟県三面での記録調査を行っている時であった。彼らから狩猟にまつわる伝承の数々を教えられたが、その際、度々秋田マタギの名が登場した。三面の伝承では、狩りの始祖は山崎伊豆守と伝えられているが、一説によれば秋田からきた狩人であったという。
  • 「山に生かされた日々」(新潟県朝日村三面の生活誌)・・・万治万三郎という人は足がかなり達者であったもんだそうで、平場に下りないで山の尾根から尾根と歩いて、一日に何十里って歩いたそうですけど。この人が秋田からこの朝日連峰へ来て、小国の金目という部落に最初来たそうです。この金目という部落は、三面と同じように狩猟で生活をしてきた部落で・・・その金目の狩りのやり方が三面とほとんど同じなんだそうです。万治万三郎という人は、その金目という部落から末沢を越えて、三面に来たんだっていうんです。(注:「万治万三郎という人」は、恐らく秋田の旅マタギを指しているのであろう)
  • 旅マタギを検証する・・・研究者として旅マタギの実態を明らかにするには、これまで語られてきた伝承からの検証に加えて、文献史料からの検証、狩猟習俗からの検証、狩猟技術からの検証、猟場環境からの検証を行ってきた。 
  • 伝承からの検証
    1. 近世末期:阿仁根子の旅マタギ・長吉と長松兄弟は、新潟県湯沢町周辺の村々に猟の方法を伝えたという伝承が残っている。
    2. 近世末期:秋山郷に阿仁打当の二人の旅マタギが婿養子として定着。新潟・長野両秋山郷に彼らの子孫が婚姻等によって広がり、明治から大正にかけて狩りの組織がつくられていった。
    3. 明治~昭和:阿仁比立内の松橋和三朗、勝治親子は岩手県花巻市幕館集落に定着。和三朗は宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」のモデルになったと言われている。
  1. 大正~昭和:阿仁の松橋富松は、当初売薬行商をしていたが、昭和初期に山形県朝日村田麦俣周辺に定着。新潟県山北町山熊田や山形県八久和、本郷、大鳥などの猟師組の土台を築いた。小説家の熊谷達也さんは、この話を田口先生から聞いたことがキッカケで、直木賞を受賞した名作「邂逅の森」が誕生した。
  • 福島県熱塩加納村の日中ダムと会津磐梯山・・・この地域は、近世末期に秋田マタギが猟場を拓いたと伝承されている。また古文書等に「羽州荒瀬村の猟師云々・・・」という記載が見られる。 
  • 福島県南会津郡只見町、田子倉ダム・・・正面は浅草岳(1585m)。近世末期に秋田マタギが繰り返し来訪したという伝承がある。鈴木松治氏の先祖が、旅マタギで歩いて書いた地図も同じ地域である。
  • 国境を越えたマタギの証・・・阿仁打当の鈴木松治さんの先祖・鈴木松三郎が、旅マタギで書いた会津黒谷山の地図。松三郎は、江戸末期から明治初期の人。まだ鉄道がない時代、徒歩で山の尾根を歩き、県外各地へ旅マタギをしていたことを裏付ける貴重な資料。
  • 文献からの検証1:北越雪譜(1837年江戸で発行)・・・「そもそも、熊は猟師が山に入って捕まえたがる最高の獲物である。熊一頭で、大きさで差はあるが、皮と熊の胆で大体五両(現在の価格50~80万円)以上になるから、猟師の欲しがるのも当然である。・・・その価値の高い熊を捕まえようと、春暖かくなって雪の降り止んだころ、出羽(秋田)あたりの猟師が五人か七人・・・彼らの狙いは、この土地の熊である。」
  • この記録から、熊一頭が5両にもなること。秋田の猟師が国境を越えて旅マタギをしていたことが分かる。
  • 文献からの検証2:「秋山記行」(1828年新暦10月16日からの記録)・・・1828年、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山記行」を書き上げる。この記行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。その際、彼を案内したのが湯本の湯守の主人・嶋田彦八・・・実は、彼も秋田マタギだった。嶋田は彦八を婿養子に迎え、湯本の湯治場の湯守として定着したという。
  • この記録は、秋山郷に定着した忠太郎・松之助親子の年代と余り変わらないことから、「秋山記行」の秋田マタギとは、忠太郎本人あるいは彼の仲間であろう。 
  • 伝承と文献からの検証:大赤沢・藤ノ木家系図・・・初代忠太郎は、北秋田市阿仁上打当から来たマタギで、同じく大赤沢の石沢家に婿入りした松之助の父親といわれる。没年、明治15年8月18日、92歳であった。妻は、石沢家本家の娘であった。1826年、当時17歳であった松之助が父親の忠太郎を訪ねて大赤沢の小屋を訪れた。妻は、そのような人は知らないと答えたという。
  • 長男長衛門は、甥や親せきの若い者と犬を連れ、富山県の立山、石川県白山方面にもカモシカ狩りの旅に出ていた。明治期に秋山郷を訪ねた文人長塚節が、この長衛門家を訪ねて話を聞き、その様子などを詩人の伊藤佐知夫の元へ葉書で書き送っている。 
  • 大赤沢・石沢家系図・・・1809年生まれの松之助は、父の忠太郎を追って秋田から大赤沢を訪ねてきた。彼も石沢家の婿となった。子ども五人の男子は、皆猟師になった。石沢家を継いだ長松の三男文五郎は、小赤沢山田家の婿養子に。彼は「クマ獲り文五郎」と呼ばれ、猟のことなら神様のような人で、秋山郷の猟師組の土台を築いた人物であった。  
  • 狩猟習俗からの検証:マタギ宿・・・旅の途上でウサギやキジ、ヤマドリなどを獲り、それを手土産に米や味噌、塩などを調達した農家をマタギ宿という。そのマタギ宿については、戸川幸夫氏が宮城県七ヶ宿町の秋田屋を、太田雄治氏が岩手県雫石田茂木野の屋号佐五七というマタギ宿を実際に訪ねている。 
  • クマ曳きという習俗・・・クマ曳きは、クマの首と手足に細引きロープを結び、雪の上を曳く。なぜそんなことをするのだろうか。熊の胆は高価なだけに昔から偽物が多く出回っていた。だから本物であることを示すために行われたと考えられる。江戸時代の後半になると、豪農、豪商と呼ばれた人たちは、クマを1頭丸ごと買ってくれるようになる。クマが獲れたら、買い手の自宅の庭先までクマを曳いていき、山神様に感謝するケボカイの儀式を済ませてから、本物の熊の胆を取り出した。
  • 全く同じクマ曳き・・・田口先生は、阿仁のクマ曳きを初めて見た時、こう記している。「僕は秋山郷のクマ曳きとまるで同じ姿を目の当たりにして、正直驚いた。秋山郷と阿仁は直線距離でも約500キロも離れているのだ。」  
  • 山神様に感謝する儀式も同じ・・・獲物は山の神様からの授かり物。その大切な神事が、阿仁ではケボカイ、小国ではカワキセと言う。名称は異なるが、どちらも腹を裂く前に、シカリがはぎ取った皮を持ち、その霊を山の神様のもとへ丁重に送る儀式は同じである。
  • 「マタギたちはアイヌの人々のように大きな祭りとしてのクマ送りはしない。彼らのクマ送りは・・・捕獲に携わった仲間だけでこじんまりとおこなう。そして、ケボカイのとき唱えられるのは、獲物を授けてもらえたことへの礼儀正しい感謝と、どうかもっと獲物を授けてほしい、もっと豊かにして欲しいという自然を支配する神に対しての願いである。
     ケボカイの儀式によって魂がクマの肉体を離れる。変容をとげたクマの亡骸は、そこから抜け出た魂を二度と元の自分の体の中に受け入れることができない。そして行き場を失った魂は神のもとへ帰っていくのである。」(「マタギ-森と狩人の記録」田口洋美)
  • 吊り天上式重力罠の分布と伝承・・・小物用と大物用の二つがある。ケモノ道に架ける。エサは使用しない待ち伏せ罠である。道具はナタ一丁だけ、材料は全て現地調達である。東北地方の大型重獣用吊り天上式重力罠の技術は、ツキノワグマが生息する豪雪山岳地帯に広く分布している。
  • 過去における様々な罠の復元・・・新潟県三面のオソ、阿仁のヒラオトシ・ウッチョウ、山形県小国のオオモノビラ、宮城県川崎のシャーなど。
  • 阿仁のヒラオトシと小国町のオオモノビラ・・・罠全体の木組は、共に相似構造にあり、部材はほとんど変わらない。仕掛けの前にクロスしている棒・「前仕掛け」も同じである。
  • 罠は秋田マタギ由来の技術・・・秋田マタギの来訪があったとの伝承がある羽越地域や岩手県雫石町、沢内村、宮城県七ケ宿町、青森県西目屋村などに、秋田と類似した重力式罠が存在する。だからといってそれが、秋田の旅マタギによってもたらされた技術と断定することはできない。けれども、そのいずれも、秋田マタギから学んだとの伝承があり、この種の罠は秋田マタギ由来の技術であることが支持されている。
  • 秋山記行によれば・・・旅マタギは、2~3人の小集団で行われ、人跡稀な源流部に小屋を幾つも掛け、狩猟と川漁を展開していた。狩猟は圧死させる構造の罠猟が主体。イワナや毛皮は、沢を詰め峰越えルートで消費地・草津温泉の湯治場へ売っていた。
  • イワナを釣って温泉宿に卸すというスタイルは、後のイワナ職漁師たちに継承されている。だから、阿仁の旅マタギは、川漁の世界にも多大な影響を与えている。山釣りのバイブル「山漁」(鈴野藤夫、農文協)にも、その詳細が記されている。 
  • 近世型市場経済システムへとバージョンアップ・・・マタギ家業の換金資源(17世紀後半から20世紀前半)は、旅先の山小屋でつくった熊の胆、腸を乾燥させたオビ、毛皮類、肉類、カモシカの角、熊脂、川魚などである。その市場となったのは、主に湯治客で賑わう温泉旅館街であった。近代になるとこうした市場が拡大し、旅マタギは専業化されていった。こうして阿仁の旅マタギは、狩猟技術を近世の市場化プロセスに乗せることに成功した。だから狩猟者だけでなく、後にイワナ釣りを生業とする職漁師たちも含めて、皆真似をするようになった。 
  • 技術的受容性(先適応性)・・・狩猟技術の中で、特に罠猟に関しては、阿仁マタギによる伝播が圧倒的であり、大型獣狩猟に関してもタテ(槍)を使用した厳冬期から春先カモシカ猟、ツキノワグマの穴見猟、巻き狩り等の技術がセットとして伝わっている。
  • 狩猟技術の地域適応進化・・・伝播された技術が秋田マタギ自身の柔軟な技術適応か、地域の人々による技術改変かは不明であるが、伝播した技術が多様な山岳地帯に柔軟に適応し、進化したものと判断できる。
  • 技術の社会文化的環境適応・・・近世末、市場化が進み、熊の胆、毛皮、その他漢方の資源としての大型獣は、換金資源としての需要が高まっていた。
  • 狩猟技術の地域環境適応:(写真:阿仁比立内大深沢巻狩りの図)
    1. フラットな地形の場合、塞ぐべき獲物の移動ルートは増加する。故に阿仁の29人巻きのように大人数による巻き狩りとなる。
    2. 地形が複雑で峻険になれば、移動ルートは限られ、秋山郷の5,6人巻きのように少人数で巻くことが可能となる。
    3. 現実には、両者の特質が入り混じっており、地形の上にどのような植生が卓越しているかで、動物の動きも変化してゆくことになるため、多様で汎用性に富んだ技術を有することが安定的な猟果を生むことになる。
  • 地域の社会文化的受容性と環境適応
    1. 秋田マタギが進出した地域の多くが、狩猟禁止区域の旧天領、特に巣鷹、鷹巣などの鷹狩り用の幼鳥を生け捕りにして、領主権力に献上した地域である。
    2. 狩猟技術の先進地域から外れた地域で、かつ農耕化が進んだ地域における害獣駆除及び換金資源開発を求めた集落及び地域等にマタギが入り込むニッチが生じた。江戸時代、阿仁の旅マタギは、そのニッチに完全にはまった。
    3. 旅マタギが訪れた地域の人々は、彼らからケボカイの儀式に代表されるように、動物の命の扱い方や手続きについて学んだ。そうした狩猟習俗は、今、各地に残っている。
  • 質疑応答・対論 村上一馬(宮城県利府高等学校)
    各地に入り込む秋田猟師-八戸、弘前、会津の近世史料から-
  • 各藩の支配体制が弱体化した幕末とは言え、他領の猟師が越境して猟をすることは許されなかった時代・・・八戸藩はイノシシ・シカ被害に苦しんでいただけに秋田マタギは歓迎されていたという
  • 1792年、八戸藩の記録・・・葛巻村の百姓から申し出があり、秋田領から猟師二人が越境してきており、シカやイノシシが多いので、村方で申し合わせて狩りができるようにとの申し出があった。表向きは返事ができかねるが、内々に御代官が承知し秋田領の猟師に指示している。
  • 参考:猪飢渇(イノシシケガジ)・・・18世紀半ば、八戸藩では俗に「猪飢渇(イノシシケガジ)」と呼ばれる飢饉によって、約3千人の餓死者を出した。「猪飢渇」とは、冷害に加えて、イノシシの大量発生により畑作物が食い荒らされたことによって引き起こされた飢饉のことである。
  • 同じく同年の八戸藩の史料には・・・秋田領の猟師からクマを討ち獲る技術としてタテ(槍)で獲る技術を学んだ八戸の農民は、鉄砲を使わず槍で獲るから猟師の鑑札を出してほしいと願い出て、これが許されたとある。
  • 19世紀前半になると、密猟は問題視されるようになるが、秋田猟師に入国許可をした長谷部大作家文書なども残っている。これらの史料から、旅マタギは、深刻な鳥獣対策に諸藩が追われていた幕末に動き出していることが分かる。このように国境を越えて他藩に入る旅マタギの記録は、秋田だけである。
  • なぜ旅マタギに興味をもったのか
    1. 秋山郷で秋田マタギの子孫という山田長治さんから、自分たちの先祖が出た阿仁打当の家を探してほしいと頼まれた。それで阿仁にやってきたが、偶然、根子の村田佐吉さんの娘さんに出会った。村田佐吉さんは、大正5年頃から昭和30年代前半まで旅マタギをした最後の人であった。
    2. 打当のシカリを務めた鈴木松治さんには、立山・黒部の山中に「荒瀬村大字打当 鈴木松三郎」というナタ目が入っているのを見た人がいると。その松三郎は、オラどごの先祖だ。オレで五代目になるんだ。そんな先祖の旅マタギについては、話はあるが、それを証明してくれる人がいない。旅マタギは面白半分でやったんでねぇ、旅先で雪崩に遭い命を落とした人も数えきれないほどいる。生活のため、生きるためだ。あんた、何とか証明してくれねえか、と頼まれたのがキッカケである。 
  • 巻物と旅マタギについて・・・国境を越えて猟をするには、自分が何者かを証明する物が必要だ。つまり、越境のパスポートとして必ず携帯した。ただし巻物の最後に印がなければ信用してもらえなかった。
  • 盤司盤三郎伝説がある日光や山形より阿仁に巻物がある理由は・・・越境して旅マタギをするためには、巻物が必須だったからであろう。 
  • パネルディスカッション「伝統の承継~課題と戦術~」
  • コーディネーター・・・田口洋美(東北芸術工科大学教授)、小松武志(北秋田市)
  • パネラー
    1. 児玉千秋(福井県)・・・高浜町議会議員。マタギに憧れて25歳の時に地元にUターンし猟師になる。第1種狩猟免許、わな猟。
    2. 原 薫(長野県)・・・(株)柳沢林業代表取締役。神奈川県生まれ。1997年静岡市で林業をしていた時に鉄砲所持許可取得。1999年長野県移住、現在に至る。
    3. 蛯原紘子(山形県)・・・熊本県生まれ、小国町役場職員。小国町五味沢地区のマタギに指導を受けながら、マタギの心と山の付き合い方の継承をめざしている。
    4. 鈴木奈津子(東京都)・・・長野県生まれ、週末ハンターの父の影響でジビエ大好きに育ち、狩猟にも興味をもつ。小国町金目班のマタギと出会い、マタギの世界に感銘を受ける。
  • 秋田も10年後には、イノシシ、シカ問題がかなりシビアな状況になるであろう。そのシビアな現実に追い付いていないので、まずは共有できれば。
  • ここに来て、畑の周りに電気柵がないのに驚いた。
  • 獣の害が多く、ただ楽しむだけではダメ。
  • クマは単独猟を嫌う。共同猟が基本。
  • 仏教国のせいか、女の子は殺生してはいけないと、よく言われる。
  • 肉の販売は、今、やっている。シカ肉だが、食を通して命の大切さを伝える、体験が重要。
  • 肉で販売しても食べ方が分からない人が多いので、調理して販売している。
  • シカやイノシシは多く捕獲できるが、クマは変動が大きいので、一律にはいかない。
  • 伝統の承継と経済システム・・・価格を安くする必要はない。日本を代表する狩猟民・阿仁マタギの文化を日本遺産にしようと推進しているのだから、ここでしか食べられない付加価値をつけて、むしろ高くていいのでは。その希少性をジビエに活かしたらどうか。
  • ゼンマイは、干しゼンマイにすれば、キロ当たり1万円もする。それを知らない人が意外に多い。
  • マタギのネームバリュウを活かすには、獲物は山の神様からの授かり物として畏敬と感謝の儀式を行う山神認証を条件にする必要がある。
  • ジビエ料理(熊汁など)を「熊まつり」(動画:小玉川熊まつり)などで行えば、宣伝効果は大きい。
  • マタギは、単にクマを獲るだけでなく、森のエキスパートだ。
  • 小国町金目班のマタギの言葉・・・俺たちは家族以上の仲間。だから共に命をかけられる、との言葉に感銘を受けた。
  • マタギの凄さは、木一本伐るか、伐るまいかで悩む。山の神様を思うことが重要。合理主義社会は、そうした経験が軽んじられている。共に生きる仲間、共に生きる命・・・マタギ文化は、後世に伝えるに値する文化だ。
  • 参考:「東北学2016No08 森人のくに-猟場開拓のダイナミズム」(田口洋美)・・・「私たちの祖先たちは、近世250年の間、野生鳥獣との緊迫した軋轢関係のなかを生きていた。しかしながら人為が圧倒し、野生鳥獣を山奥へと追いやった近代以降100年余り静寂期を生きるうちに、彼らとの向き合い方を忘れてしまった。
     だからこそ今、脈々と引き継がれてきた自然とともに生きる技術や思考を発展的に継承し、野生鳥獣と対峙してゆく術を、かつてこの東北の山を席巻した旅マタギたちのダイナミックな生き方から我々は学ぶ必要があるように思う」
参 考 文 献
  • 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
  • 「マタギを追う旅-ブナ林の狩りと生活」(田口洋美、慶友社)
  • 「東北学2016No08 森人のくに-猟場開拓のダイナミズム」(東北文化研究センター)
  • 「山に生かされた日々」(新潟県朝日村三面の生活誌、昭和59年12月5日発行)
  • マタギシンポジウム配布資料、マタギ資料館(北秋田市)