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元気ムラの旅シリーズ6 歴史が息づく山里・檜山探訪

 2019年5月18日(土)、森の学校2019「元気ムラの旅シリーズ6 歴史が息づく山里・檜山探訪」が、能代市檜山地域で開催された。参加者は38名。県指定史跡檜山追分旧羽州街道松並木や木造校舎の先駆けとなった前崇徳小学校舎、歴史の古さを象徴する古四王神社の千年杉、県指定文化財浄明寺の山門などについて学び、檜山崇徳館にて昼食。午後から国指定史跡檜山城跡や多賀谷氏の菩提寺多宝院、北限の茶として知られる檜山茶について学んだ。特にのしろ檜山周辺歴史ガイドの会のスペシャリストにガイドをしていただき、知られざる檜山の歴史文化をかなり濃密に学ぶことができた。また、今回のコース沿いには、日本固有種のエゾタンポポなど多様な植物が自生していたので、森の案内人の方々による自然観察も同時に行われた。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン(018-882-5009)
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/檜山地域まちづくり協議会、のしろ檜山周辺歴史ガイドの会
  • 檜山崇徳館・・・1789年、名君として名高い藩主・佐竹義和は、秋田に明徳館を創設し、藩内に7つの支校を建てて、地方の指導者を育成する郷校制度を確立した。その一つが1793年、檜山に建てられた崇徳館で、崇徳小学校の前身である。檜山崇徳館の名前は、これに由来する。市役所檜山出張所と檜山公民館の機能を併せ持ち、檜山ガイドの拠点、檜山茶の精製PR等も行う施設として、平成23年にオープン。本館へ至る階段状の斜面には、北限の檜山茶の苗木が植栽されている。
  • 檜山茶の苗木植栽・・・令和の英訳は「Beautiful Harmony=美しい調和」。その縁起の良い令和元年に50周年を迎えた「能代歩こう会」により、檜山茶の記念植樹が行われた。
  • のしろ檜山周辺ガイドの会・・・「檜山地区の歴史・文化財のことなら何でもおまかせ」というスペシャリストガイドの会。小杉山久義会長のあいさつの後、副会長柴田テツ子さん、原田誠樹さん、吉岡広勝さん、小杉山正志さんのガイド4名により、午前、午後合わせて4時間半にわたって探訪。それでも柴田副会長は、「檜山全体の2/10」しか探訪していないという。確かに、檜山地域は、とても一日では巡れないほど歴史文化の宝庫である。 
  • ガイドの会お問い合わせ・・・檜山ガイドの拠点にもなっている檜山崇徳館 電話0185-58-3101
  • 旧羽州街道松並木(県指定史跡)・・・檜山追分地区に残る松並木は、1681年、佐竹藩によって整備された。樹齢約200年と推定される松並木は、その後捕植されたものと言われている。
  • 羽州街道とは・・・江戸時代の幹線道路の一つで、福島県桑折町で奥州街道と分かれ、山形、秋田を経て、終点青森県油川まで約500km。江戸時代の紀行家・菅江真澄や克明な日本地図を著した伊能忠敬、幕末の思想家・吉田松陰、イギリスの女性旅行作家イザベラ・バードなどが歩き、日記や紀行文、図絵などを残した。
  • 日本奥地紀行」(イザベラ・バード)・・・イギリスの女性旅行作家イザベラ・バードは、明治11年7月下旬、久保田を発ち、羽州街道を北上した記録によれば、秋田の農村は、どこも貧しかったことが記されている。そんな中、檜山の城下町だけは絶賛している。 
  • 「虻川(飯田川町)というみすぼらしい村で一泊・・・屋根裏の部屋で、ノミが多かった。米飯はとても汚くて食べる気がしなかった。宿のおかみさんは・・・ひどい皮膚病にかかっていた。・・・
     村々の家屋はみな木造であったが、虻川村は古ぼけた倒れそうな家ばかりで、家を棒で支え、斜めになった梁は道路に突き出て、うっかりすると歩行者は頭を打つほどであった。・・・豊岡(山本町)では・・・そこの人たちの着ているものは、特にボロボロで汚かった。
     士族村である檜山(能代市)は例外であった。そこは美しい傾斜地にあった。家は一軒建てで、美しい庭園があり、深い屋根の門がつき、庭先には石段になっていて草木が植えてあった。洗練されて静かな暮らしを楽しんでいるように見えた」と、歴史が息づく檜山を絶賛している。
  • 菅江真澄「かすむ月星」(1806年2月23日)・・・「早朝の雨あがり、晴れたので、善城山浄明寺を出立した・・・蟹沢という田の面にイチョウの大木が立っていた。ここが国清寺(こくせいじ・国指定史跡)の跡で、開祖在天禅師の昔をしのんだ。乳の乏しい女が来て、願い事しているのが見られた。なお深く分け入ると・・・矢堀という柵のような跡があった。これは安東愛季(ちかすえ)がしばらく城を構えた所だとも言われ、また蝦夷が毒を煉り、矢をつくった館柵の跡で、今も毒気の水が流れ出るなどともいう。」 
  • 安東氏とは・・・安東氏は、蝦夷の系譜につながる在地豪族・阿部貞任(さだとう)の子孫とも言われている。1062年、前九年の合戦で安倍貞任は、清原軍1万人と源頼義軍3000人で猛攻を受け、厨川柵(くりやがわのさく)で戦死。当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が乳母と共に津軽へと落ちのび、後に安東氏を起こした始祖と言われている。やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」を率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていく。早くから男鹿半島や土崎湊、能代湊にも盛んに出入りしていた。
  • 1991年~93年十三湊遺跡の学術調査結果・・・12世紀、奥州藤原氏の時代には遺構が確実に存在し、その後鎌倉時代の13世紀後半には計画的な都市建設が行われ、14世紀末には町屋などが一気に拡大したことが判明した。しかし、その繁栄は長く続かなかった。1432年、北の世界の富と利権をめぐって南部氏の攻撃により陥落、北海道松前に逃れた。
  • 安東氏全盛の礎を築いた愛季(ちかすえ)・・・1495年、忠季が北海道から秋田の檜山にきて檜山城を構え、安東家の祖となった。当時秋田では、既に土崎湊に安東氏の一族が城を構えていた。これを湊安東氏と呼ぶ。戦国時代に入って、檜山のキヨスエが湊安東氏の娘婿となり、生まれたのが愛季(ちかすえ)である。湊家では父子が相次いで死んだので、愛季は両家を併せて継ぐことになった。これから檜山と湊の両城を本拠にして、愛季は近隣に勢威をふるい、安東氏全盛の基礎を築いた。
  • 湊安東氏・・・南部氏に滅ぼされる前の14世紀末、安東鹿季(かのすえ)は、秋田市土崎に城を築き、湊安東氏の基礎をつくった。ということは、湊安東氏は分家で、檜山安東氏が本家筋ということになるのであろうか。
  • 前崇徳小学校舎・・・平成7年3月に完成。木都能代の中でも木造校舎の先駆け。秋田杉をふんだんに使用した木造校舎で、武家屋敷をイメージして作られている。 廊下は雁行という並びになっていて、ジグザグの作りになっている。また、玄関の前の広場は、山城の檜山城跡の防御施設を模して馬蹄形広場になっている。
  • 崇徳とは・・・閉校式で齊藤市長は「学校の名前にも使われている『崇徳』は相手を思いやり、よい行いを積み重ねていくことです」と述べている。 
  • 佐竹義和(よしまさ)筆・・9代藩主佐竹義和は、1789年に藩校明徳館、1793年に崇徳館を創設。平成最後の平成31年3月31日閉校、226年の歴史に幕を閉じた。
  • 名君と言われた佐竹義和・・・学問だけでなく、身分の低い者でも能力のあるものは重要な役につかせ、思い切り腕をふるわせた。新田開発では、後に「開拓の父」と言われる能代市檜山新屋敷の渡部斧松(右上写真)を登用している。林政改革では、後に「砂防林の神様」と言われる栗田定之丞と「秋田スギの父」賀藤景林を登用している。
  • さらに、江戸時代の紀行家菅江真澄に直接会って出羽6郡の地誌編纂を依頼している。それが縁で真澄は日記類を明徳館に献納。それがために死後も散逸することなく、大切に保存され、今日では「秋田の宝」になっている。
  • 能代市檜山新屋敷の「渡部斧松翁生誕の地」碑・・・1793年、檜山新屋敷に足軽の子として生まれた。男鹿市滝の頭から水を引き、原野を開墾して渡部村を誕生させた。その功績が評価され、藩から開発を取り締まる役に登用され、河辺・仙北・平鹿・雄勝・山本・秋田の六郡各地の水利、開拓、河川事業など、秋田藩一の土木事業家として活躍し、後に「開拓の父」と呼ばれた偉人である。
  • 檜山神社・・・檜山神社は、明治時代、古四王神社や愛宕堂などの周辺諸社が合祀されて出来た神社である。古四王神社の千年杉は、その檜山神社の境内にある。
  • 古四王神社の千年杉(市指定天然記念物)・・・千年杉は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に手植えしたものと語り伝えられている。史実では、坂上田村麻呂は秋田に来ていないが、県北地域も、古い時代から大和政権の影響を強く受けていたことが伺える。幹の周囲6.5m、高さ約15m、樹齢は千年前後と推定されている。檜山地域の神木として崇められ、根元には注連縄が張られている。
  • 千年杉の根元から湧き出る清水は「亀井の水」と言われ、眼病に効くとされている。
  • ムラサキケマン
  • ホウチャクソウ
  • エンレイソウ
  • タチカメバソウ
  • 浄明寺山門(県指定文化財)・・・永正年間(1504~1521)に創建された古寺で、檜山安東氏にゆかりのある寺院。この寺の山門は、檜山城から払い下げられた「城下がりの門」といわれてきたが、平成7年の保存修理の際、1634年3月17日に建立されたことが明らかになった。薬医門としては、東北でも二番目に古く、桃山様式を残す貴重な建築物。 
  • 安東氏家紋・・・山門を横から見上げると、安東氏の家紋が入っている。檜木の薄い片を重ねて作った貴族用の扇の中央に、鷹の羽二枚を交差させている。
  • 薬医門とは・・・本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、後に医家の門として用いられたのが名の由来。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方に位置する。扉が雨に濡れるのを防ぐため、屋根を前にずらして正面側の軒を長くするように造られている。
  • モミの木の巨樹・・・浄明寺の歴史を物語るように境内中央に鎮座している。檜山母体のモミ林は、檜山川の支流、湯の沢付近に約70本が生育。暖かい地方に生育するモミは、日本海側では富山以北で極めて稀で、学術上貴重として県指定天然記念物に指定されている。
  • 首塚・・・浄明寺には、安東愛季(ちかすえ)によって謀殺された浅利勝頼の首を葬ったとされる首塚がある。勝頼は、兄浅利則祐と対立して安東愛季と内応して1562年に兄を扇田長岡城において自害に追い込み、比内郡地方の領主となった。しかし、愛季に信頼されず、1583年に愛季に檜山城に招かれたところを松前慶広に殺害されたという。 
  • 参考:比内郡浅利氏・・・源頼朝の奥州征伐は1189年8月に始まり、22日には、平泉陥落。この時、甲斐源氏の一族である浅利氏も同行している。藤原泰衡は、一戦を交えることもなく、北へ逃亡。北海道へ向かう途中、大館に寄ったが、大館の領主であった河田次郎に裏切られ殺されてしまう。その泰衡の首は、頼朝へ届けられたが、河田次郎は、逆に、主君を裏切った罪で打ち首、領地を没収される。その比内郡に浅利氏が入った。その最初の拠点が大館市比内町の独鈷城である。
  • シャガ・・・浄明寺の裏の斜面には、シャガの花が満開。シャガは、葉が滑りやすく、音も立てるので、城の守りとして城内によく植えられたという。
  • シャク 
  • コンロンソウ 
  • オオデマリ 
  • ヤエヤマブキ 
  • 崇徳館で販売された檜山納豆、檜山茶入り茶ようかん等・・・飛ぶように売れていた。
  • 檜山納豆(わらづと)・・・檜山城主秋田安東氏時代(1452年~1602年)に下級武士の家計の一助に製造したのが始まりと伝えられる。江戸時代初期に作詞された民謡「秋田音頭」にも唄われているだけに、知名度は抜群であっという間に完売した。
  • 民謡「秋田音頭」・・・「♪秋田名物 八森はたはた 男鹿で男鹿ブリコ 能代春慶 檜山納豆 大館曲げワッパ♪」と、唄われている。直接わらに包んで納豆菌で発酵させる昔ながらの作り方で、香ばしい大豆の風味と濃厚な味わいが特徴。醤油ではなく「塩」で食べるのがオススメ。
  • 檜山城跡(国指定史跡)・・・檜山城は、中世に県北部一帯で勢力を張り、後に戦国大名に発展し北羽に名を馳せた檜山安東氏の居城。1495年、安東忠季によって完成。標高145mの山頂から谷を囲む馬の蹄のようなU字状の尾根筋を利用した山城で、蝦夷館式馬蹄形山城と呼ばれている。この山城は、比内郡の浅利氏との勢力争いや湊安東氏との内紛の舞台となった。
  • 山城とは・・・険阻な山の地形を最大限利用し、少ない兵力で高い防御を発揮する城の一種。麓からの高さはおよそ100m以上。
  • 檜山城跡から能代市、日本海を望む・・・敵が攻めて来ないか見張るには絶好のポイント。この右手には、残雪の白神山地も一望できる。
  • 堀切とは・・・人工的に尾根を断ち切り、敵兵の侵入を妨げる。堀切は山城防御の基本で、二重、三重に設けられた。平時は、堀切の上に橋が架けられた。
  • 檜山城の堅固さを物語る「湊合戦」・・・檜山安東氏は、秋田市の土崎湊に拠点を構えた「湊安東氏」と主導権争いを繰り広げてきた。安東愛季の代に両家は統合されるが、実季の代になった1589年、湊合戦が勃発。檜山城は攻め込まれた。実季は檜山城に150日間籠城し、わずか300挺の鉄砲で10倍の数の湊安東軍に防戦し勝利したという。檜山城の南を流れる「むちりき川」が血で染まったとも言い伝えられ、湊合戦の激しさを物語っている。
  • 上の写真は、本丸跡・・・本丸は近世の呼称。山城の最高位に位置し、平坦な曲輪を「主郭」と呼ぶことが多い。
  • 曲輪(くるわ)とは・・・兵の駐屯地となる平坦地のことで、山を削って造成する。近世の城で言う本丸や二の丸のこと。
  • 腰曲輪・・・山の斜面に階段状に曲輪を広げたもの。緩斜面の尾根に築かれることが多い。
  • 檜山城跡周辺は植生も豊か。以下に主なものを掲載する。
  • ヤマツツジ
  • コナラ
  • マルバアオダモ
  • ハウチワカエデ
  • ヤマモミジ
  • ウワミズザクラ
  • オニグルミ
  • トウグミ
  • ドウダンツツジ
  • 八重のサクラ
  • ツルアジサイ
  • イチョウ
  • ナナカマド
  • ホオノキ
  • ガマズミ
  • ミズキ
  • フジ
  • コブだらけのケヤキ
  • アカマツ・・・先端が雌花、その下に雄花
  • ツタウルシ 
  • ナルコユリ 
  • ラショウモンカズラ 
▲在来種・エゾタンポポ ▲外来種・セイヨウタンポポ
  • 希少種・エゾタンポポ・・・見分け方は、総苞と呼ぶ花の首の部分。外来種のセイヨウタンポポは、総苞が反り返るが、在来種のエゾタンポポは、赤ちゃんがオシメをした時のように総苞が丸まっている。
  • カキドオシ
  • ユキザサ
  • マイヅルソウ
  • チゴユリ
  • 多宝院入口の杉の巨木・・・よく参道にある杉と同じく、数百年の樹齢をもつ杉が両サイドに聳え立っている。左の急な坂を上ると「檜山安東氏城館跡」、杉の巨樹が連なる右手に真っすぐ進むと多宝院である。
  • サクラの古木にやってきたオオアカゲラ・・・歴史が深いだけに古木も多い。古木の多い里山には、アオゲラ、アカゲラ、コゲラなとのキツツキ類が多い。
  • シダレザクラの名所・多宝院(県指定文化財)・・・佐竹家臣の多賀谷氏の菩提寺。多賀谷氏の転封とともに1610年、現茨城県下妻市から現在地に移った。本堂は、1771年に再建され、東北では珍しいウグイス張りの廊下や、本尊として例の少ない観音菩薩像がある。地域の観光スポットになっているシダレザクラは3本あり、能代市と旧檜山町などの合併を記念し、1955年に植えられたもの。
  • 立派な山門・・・1818年に再建された。二階は禅宗様高欄に花頭窓がつき、一階の四隅に獅子の木鼻をつけている。
  • 多賀谷宣家(のぶいえ)・・・佐竹義宣が国替えで常陸から秋田に入部した際、義宣の弟で多賀谷氏の養子になった多賀谷宣家(のぶいえ)も秋田に入り、県内各地の城主を務めた。始め仙北市の白岩城主、次に能代市の檜山城主となった。息子の重隆が由利本荘市の亀田城主となったため、宣家も後見役として一緒に亀田に移り、岩城氏を相続した。
  • 真田幸村の娘・お田の方・・・佐竹義宣の仲介で大阪夏の陣で討ち死にした真田幸村の娘・お田の方を宣家の側室として迎える。後に亀田藩三代藩主となる岩城重隆は、お田の方の息子で檜山で生まれている。
  • 宣家が亀田に移った後の多賀谷氏は、佐竹家一門の戸村隆経が相続し、以後、幕末まで約400年にわたり、多賀谷氏が檜山地域を統治した。
  • 多宝院伽藍配置図・・・寺院の建物の総称を伽藍と呼ぶ。その配置図には、僧侶が居住する庫裏(くり)、禅を修行する禅堂、長く折れ曲がった回廊が描かれているが、今はなくなっている。けれども曹洞宗寺院としては、規模が大きく、伽藍がよく残されていて貴重なことから、1990年に県指定文化財に指定されている。
  • ウグイス張りの廊下・・・踏むと床板をとめたカスガイがきしり、ウグイスの声に似た音を出す。その名のとおり、美しい音色がする。多賀谷氏が本堂にいる際、敵の侵入者を知らせる危険探知のために設けられた。敵が侵入すると、多賀谷氏は裏手から逃げる工夫も凝らされていたという。
  • 八方睨みの龍・・・天井には、迫力満点の龍が描かれている。どの位置から見上げても龍と目が合うように描かれている。
  • 龍は仏教を守護する「龍神」とされ、禅寺の本山の多くでは法堂(はっとう)の天井に龍が描かれている。法堂は、僧侶が仏法を大衆に説く場所であるが、天井の龍が仏教の教えの雨を降らすといわれいる。また、龍神は、水を司ることから「火災から守る」という意味も込められている。
  • 北限の茶 檜山茶園・・・多賀谷氏は、幕末になると3千石に減石されたため、家臣の生活は苦しく、檜山茶の栽培や内職などで生計をたてた。その檜山茶は1730年に始まるが、天保の飢饉でさらに生活は苦しくなったことから、多賀谷家の家老石川官太夫が宇治から種と製法を導入し、家臣の内職として奨めた結果、栽培が広がった。最盛期には、200戸、10haにも達したという。「北限の茶」として有名で、「手摘み」「手揉み」による伝統的製法が特徴。
  • 上の写真は、野生化した茶の若葉を摘み、香りを確認する参加者。
  • 檜山茶保存会・・・6月中旬、檜山崇徳館で「檜山茶フェスティバル(主催:檜山茶保存会)」を開催しているほか、冬期間に3回「お茶手揉み体験」も開催し、一般の方にお茶に親しんでもらうイベントを開催している。また、地域内で長年、和菓子づくりを行ってきた「茶誠堂」では、檜山茶を使った「茶ようかん」や「檜山納豆ようかん」も販売している。
  • 檜山茶最大の特徴・・・本場の京都宇治では、現代人が飲みやすいように幾度も品種改良され、かつての原種は残っていないという。檜山では、種から増やすのではなく、挿し木によって増やしている。つまり、宇治の在来種として残っているのは、檜山茶だけというのが最大の特徴である。200年ほど前、菅江真澄が秋田を旅していた当時のお茶の味を楽しめるというわけである。
  • 母体地区の炭焼き体験・・・檜山地域まちづくり協議会の阿部隆昭会長は、母体八幡神社の神主さん。母体地区は、檜山城北東の角に当たることから、安東愛季が武運長久を願って神社を再建したといわれている。安部会長は、その母体地区の炭焼きプロジェクトにも関わっている。母体地区では、県内の大学生でつくる「ARCグループ」メンバーなどと、「環境保全プロジェクト」の一環で炭焼き体験を実施している。
  • ARCグループは、元気ムラ応援団にも登録。檜山のほか、上新城(秋田市)、安全寺(男鹿市)、白岩(仙北市)、藤里町などでも地域貢献のための活動を行っているという。その元気ムラ応援団の輪が広がることを期待したい。
参 考 文 献