本文へスキップ

元気ムラの旅シリーズ7 陶源郷(白岩焼) 白岩の郷探訪

 2021年5月15日(土)、森の学校2021「元気ムラの旅シリーズ7 陶源郷(白岩焼) 白岩の郷探訪」が、仙北市角館町白岩地区で開催された。参加者は一般22名、森の案内人等9名、合計31名。コロナ対策として、検温、消毒、マスク着用はもちろんのこと、バス内での密を避けるため、マイクロバスから大型バスに変更し、乗車率を50%に抑えるとともに、森の案内人は自家用車に分散乗車して、白岩に向かった。みずほの里ロード沿いにある直売所「白岩夢畑」や中世の歴史が残る「館山・白岩城址」散策、白岩地区の文化が凝縮された「雲巌寺」、秋田藩初の窯元として誕生した「白岩焼」の歴史、特徴など、知られざる白岩の歴史と文化について濃密に学んだ。さらに館山の多様な植物や、本丸跡に聳えるアカマツの巨樹、雲巌寺参道の樹齢300年を超えるスギやモミの巨樹は圧巻である。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/白岩地区自治会、秋田県森の案内人協議会
  • メインガイド・・・白岩地区自治会区長で、白岩の自然と歴史と文化に詳しい下田三千雄さん。 
  • 白岩焼のガイド・・・白岩焼陶芸塾を立ち上げた故・木元哲良先生の弟子として、白岩の粘土、白岩の釉薬をつくり、白岩焼の復元を成し遂げた千葉邦夫さん。 
  • 直売所「未知の駅 白岩夢畑」・・・仙北市角館の白岩地域から、横手市中心部へと続く「みずほの里ロード」沿いで、中世の山城址「館山」の向かいに小さな直売所「未知の駅 白岩夢畑」がある。日曜日のみの開催で、新鮮な山菜等が全て100円で購入できるとあって、あっという間に完売するという。
  • 春は「山菜まつり」、夏(7月中旬~下旬)は珍しいブナ林のキノコ「トンビマイタケ(上の写真)」まつり、秋は「収穫祭」の期間限定イベントも開催されている。 
  • 白岩城址・・・菅江真澄の「月の出羽路仙北郡」によれば、前九年の役の折に宮藤氏が拠点としたのが白岩城の始まりだという。その後、鎌倉時代に平姓を称した下田(白岩)氏の領するところとなった。1354年、仙北一帯を治めた戸沢氏に攻め落とされ、以降戸沢氏の家臣となり、白岩は戸沢領になっている。なお、隣の十六沢城址は、白岩の支城の役割を果たしたと考えられている。 
  • 1602年、白岩氏は戸沢氏の常州松岡藩への転封に家臣として付き従う。同年、初代藩主・佐竹義宣の弟である多賀谷宣家が白岩氏の平城に駐在。1604年、多賀谷氏の平城が完成している。
  • 1610年、多賀谷氏、檜山城へ移る。佐竹義宣の仲介で大阪夏の陣で討ち死にした真田幸村の娘・お田の方を宣家の側室として迎える。その息子の重隆が由利本荘市の亀田城主になると、宣家も後見役として一緒に亀田に移り、岩城氏を相続している。 (写真:多賀谷氏の菩提寺「多宝院」)
  • 1622年、戸沢氏が新庄へ転封以降も白岩氏は重臣として続いた。
  • 「館山・白岩城址」散策・・・散策道は、落葉広葉樹を中心とした雑木林で、植物の多様性が素晴らしい。ガイドの下田さんから、館山の自然と歴史と文化の講義を聴きながら、ゆっくり本丸に向かう。
  • 散策道沿いに群生していたウマノアシガタ(キンポウゲ)
  • 葉の上に花が咲くハナイカダ・・・葉を川を下る筏(いかだ)に、その上に乗る花や実を筏を操る船頭に見立てて、「花筏」と書く。別名ママコ、ヨメノナミダ、ツツデ、オトコジンなどと呼ばれる。
  • キンラン(金蘭)・・・春爛漫の新緑の中で、金色に輝く花はよく目立つ。花は、半開きのものが多い。 
  • ヒデコ(シオデ)・・・館山には、山菜の女王と呼ばれるヒデコがたくさん自生している。白岩地区では、地元を代表する山菜・ヒデコの栽培も行われている。「ひでこの里・白岩」のガイドによれば、秋田の三大美人は、「小町、おばこ、ひでこ」だという。
  • 群生するホンナ・・・秋田民謡「秋田おばこ」には、「おばこナ 何処さ行く/後ろの小沢さ ホンナコ折りに」に歌われるほど、秋田を代表する山菜である。 
  • ナニワズ(ナツボウズ)・・・早春に黄色い花を咲かせる。夏になると葉を落とすことから、別名ナツボウズと呼ばれている。
  • ユキザサも満開
  • クルマムグラ、ウラシマソウ 
  • サンショウ、ミツバウツギ 
  • リスがオニグルミを食べた食痕、タヌキのため糞 
  • 曲輪(くるわ)とは・・・兵の駐屯地となる平坦地のことで、山を削って造成する。近世の城で言う本丸や二の丸のこと。この東屋の柱を見ると・・・
  • ツキノワグマが柱を激しくかじった跡・・・自然が豊かだけに、クマの密度も高いようだ。
  • 東屋のある曲輪から白岩地区を望む。 
  • 本丸跡・・・本丸は近世の呼称。山城の最高位に位置し、平坦な曲輪を「主郭」と呼ぶことが多い。主郭は、5段になっていて、その頂上に「古城神社」が鎮座している。 
  • アカマツの巨樹・・・こんなに大きなアカマツの古木を見るのは初めて。「秋田の巨樹・古木」に掲載されていないのが不思議なくらいデカイ。かつては数本あったが、松くい虫にやられて伐採したという。 
  • 背後に聳える和賀山塊の写真を見せながら解説・・・和賀山塊は、秋田県の中でも最も原始性に富んだ山で、かつてはマタギ以外は足を踏み入れることができない険しい山であった。その主峰・和賀岳に源を発する堀内沢は、沢登りの全国区になるほど奥が深く、難易度の高い名渓で、今でも「秘境」と呼ばれている。
  • 喜左衛門長根から錫杖(シャクジョウ)の森を望む(2007年夏撮影)・・・左の袖川沢と右の掘内・オイの沢を分かつ最低鞍部は、「錫杖の森」と呼ばれている。尾根は両サイドに鋭く切れ落ち、クマも寄り付かない険谷である。錫杖とは山伏が鳴らす楽器のようなもの・・・昔、ここを通った山伏が転落し、背負っていた笈(オイ)が下の沢に転がったことから「笈の沢」と呼ばれるようになったという。 この右下のオイの沢に、仙北マタギが共同で猟をしたマタギ小屋(お助け小屋)がある。
  • 白岩地区はマタギ集落・・・かつて親交があった故戸堀操マタギから「世紀の巻き狩り」と呼ぶ貴重な写真をいただいた。1972年(昭和47)12月、和賀山塊の巻き狩りに参加したのは、中仙豊岡・藤沢佐太治シカリ(統率者)、白岩・草彅伍郎シカリ、角館雲沢・鈴木助四郎シカリが率いる三集団である。このマタギ集団は、いずれも険しい山塊で知られる堀内沢を狩場にしていた。獲物は、身の丈10尺、耳間隔1.5尺の大熊だったという。
  • 雲巌寺参道のスギ並木・・・右列の一番奥のスギが最も大きく、幹周り510cm、樹高39.5m、推定樹齢310年だという。一時数本が伐採されたが、今でも16本の古木が残されている。
  • 雲巌寺のモミ・・・境内左の稲荷堂へあがる石段の左脇に立っているモミは巨大である。幹周り470cm、樹高39m、推定樹齢300年。こうした寺周辺の巨樹・古木を見れば、仙北市で最も古い寺と言われるのも頷ける。
  • 雲巌寺・・・1450年、戸沢氏の家臣・白岩盛基によって雲巌寺が建立される。写真の山門は、秋田県有形文化財に指定されている。
  • 山門の仁王像・・・ドンパン節の作者円満造(えまぞう)の作。2体の像は、1本のモミの大木の上部と下部から切り出されている。山門の正面に向かうとすぐ左手、鎮守稲荷堂の近くには、かつて、モミの古木があったが、落雷で枯れてしまった。それを惜しんだ当時の住職が円満造に依頼して、仁王像の制作が行われることになったという。
  • 「ドンパン節」独特の歌いだし「ドンドンパンパンドンパンパン~」の由来は・・・「ドンドン」は雲巌寺本堂から聞こえる太鼓の音で、「パンパン」は円満造が仁王像を彫る音だと言われている。つまりドンパン節発祥の地は、雲巌寺ということ。
  • 下田氏によれば、秋田藩の庇護のもとで白岩焼が始まったことで、雲巌寺の山門や本堂などが100年かけて増築された。つまり白岩焼なしに雲岩寺は語れないという。
  • 「角館誌第7巻」によれば、1811年、秋田藩主・佐竹義和公の有名な乳頭温泉郷を訪れた時の紀行「千町田の記」には、当時最も栄えていた白岩瀬戸山を訪れたことが明記されている。藩の工芸品生産として、いかに重要視されていたかが分かる。
  • 寺にあった家紋・・・「丸輪に抜き九曜」は、戸沢氏の家紋。戸沢氏が出羽の豪族として定着するのは、家盛の時代に出羽国角館城に移動してから、戦国大名としてのスタートを切ったと考えられている。
  • 寺の玄関に巻き付いていたミツバアケビ
  • 山椒すりこぎ・・・寺の玄関には、太いサンショウの木で作ったすりこぎがぶら下がっていた。サンショウのすりこぎ棒は堅くて香気があり、するたびに木が微量に削られるので、サンショウの香りが料理を引き立てるとともに、解毒作用もあるとされている。木の表面に凹凸があるので、握りやすい特徴もある。
  • 美しい庭園・・・美しい山だけでなく、こうした美しい山水を模した庭園に身をおいて瞑想すれば、心を澄ます行になることは素人でも何となく分かる。
  • 下田氏によれば、藩政時代から白岩焼の特産品は、どぶろくを入れる陶器だった。明治33年に白岩焼が消えた決定打は、明治29年の陸羽地震によって窯がつぶれてしまったからではなく、どぶろく禁止令によって、どぶろくを入れる陶器の需要がなくなったからだという。 
  • 座禅堂・・・事前予約で座禅体験もできる。
  • 千体仏・・・今から170年前、未曽有の凶作に見舞われ、多くの子どもたちが命を落とした。亡くなった子どもたちの供養のため、数百体のお地蔵様を奉納することを発願。それを作ったのが当時の白岩焼窯元の人たちであった。現在は、子どもたちの健やかな成長を願ったり、日常の小さな幸せを祈るなどへと変化している。
  • 雲巌寺境内で奉納される「白岩ささら」
    1. 400年の伝統をもつ郷土芸能で、秋田県の無形民俗文化財に指定されている。神仏混交の名残からお盆に白岩神明社や雲厳寺などで奉納される。3頭の獅子とザッザカと呼ばれる道化役がリズミカルな舞を披露する。
    2. 伝承によれば、慶長7(1602年)に佐竹氏が国替えによって秋田に遷るときの行列で、先頭に立って悪疫退散のためとして木製の楽器・編々木(ささら)を振りながら歩いた、ということに由来する。
  • 白岩焼窯跡・瀬戸山(県指定史跡)
  • 白岩焼の歴史
     今から250年ほど前、秋田藩で初めての窯元として生まれた。当時、日常の道具のほとんどが木器だった秋田藩では、なんとしても窯をもちたいと願っていた。そんな矢先、土を探している職人が藩内にいるとの情報がもたらされた。その職人は、仙北町土川に窯を作っていた松本運七という相馬焼のロクロ師であった。1771年、藩から丁重に角館城へ招かれた運七は、この近くに瀬戸焼の窯を作ることを約束し、早速陶土探しを始めた。ほどなく奥羽山脈の麓に位置する白岩で良質の粘土を見つけた。運七と弟子の山手儀三郎、千葉伝九郎、多郎助、菅原助左衛門の5人が生産者として窯焼きが始まった。その年の暮れには最初の窯開けが行われ、翌年の正月には藩の重臣である年寄たちに製品を見せられるまでになった。
  • 三年目の1774年、運七は取立役と中違いになり、白岩を飛び出して横手に隠居同然で住みついたが、病気のためその年の4月27日に亡くなった。その後、窯主となったのが白岩瀬戸の完成者と言われる山手儀三郎であった。当時の藩主佐竹義和は、盛んに茶器の注文を出している。儀三郎は、その期待に応えるために、1786年、京都で京焼の楽焼や金彩の技術、釉薬の処方などを三年修行している。そのお陰で、初めて色絵の技法を取り入れ、日用の雑器から茶器や花器などの鑑賞に耐える上手物への道が広がった。幕末期、花瓶などに精巧な細工を施した製品や火鉢、水差しのような普段使いではないものに装飾を施したものがみられる。
  • 最盛期の白岩瀬戸山は、年間8回ぐらいの窯上げが行われ、職人数20人、一窯の働く人は年間千人、六窯で6千人という盛況であった。販路は藩外に及び、運搬や販売に関わる人の数を加えると、年間1万人は下らなかったという。明治33年(1900)、廃業になるまで150年間燃え続けた火は、白岩瀬戸山から消えた。
  • 江戸時代、秋田の文化に最も影響を与えた巨人・余所者
     その筆頭が漂泊の旅人・菅江真澄であり、次いで奇人変人の元祖とも呼ばれる平賀源内であろう。源内は、秋田へ鉱山コンサルタントとしてやってきた。その際、角館支藩の小田野直武に西洋画法を伝授したことがキッカケで、日本初の本格的な洋風画「秋田蘭画」が誕生したのである。さらに西木村のどんと焼きを見るなり「紙風船上げ」を伝授したり、秋田藩初の白岩焼の指導や、阿仁鉱山初の水無焼が誕生している。平賀源内はエレキテルに象徴されるように100年先、200年先を走り続けていただけに、花のお江戸でもなかなか理解されず、「ペテン師」「古今の大山師」などと有り難くないレッテルをたくさん張られている。しかし、秋田藩にとっては、知的衝撃と異文化への開眼を促したスーパースターであった。
  • 白岩焼と平賀源内
    1. 平賀源内記念館によれば、源内の陶法指導は讃岐(源内焼)にとどまらず、秋田県の阿仁焼、白岩焼、山形県の倉嶋焼にも足跡が残っている、と記されている。
    2. 「平賀源内」(芳賀徹、朝日選書)によれば、「(1773年7月、角館)滞在中に源内は近在の白岩で藩営の陶器製造が行われていることを知り、その地の土堀取立役をしている小高宗決を招いて事情を聴いたり」している。
    3. 「角館誌第7巻」によれば、「鬼才平賀源内が藩の招請によって江戸表より阿仁鉱山へゆく途中角館に泊り、取立人の請いをいれて瀬戸山を訪問、主に釉薬などについて指導したらしく、またロクロ師を伴って阿仁へ赴いている
    4. 北秋田市観光協会の阿仁「水無焼」によれば、平賀源内は鉱山の精錬用のルツボを作るため、角館の職人を呼び寄せ、阿仁の良質の粘土で「水無焼」と呼ばれる焼き物作りも指導している。水無焼は、仙北市の白岩焼の流れを汲んでいると言われている。
    5. 1773年9月2日、源内は理兵衛と別れて、久保田に出て役所にあいさつした後、大館比内方面に向かった。大館の北の沼館村で亜鉛鉱の山を見立てた。ここでも精錬に使用するルツボを作るため、一緒に同行していた小田野直武に手紙を託した「精錬のために必要だから、焼物師にろくろその他の道具を持たせて至急沼館によこしてくれ」と書かれていた。そこで白岩瀬戸山の松本運七、山手儀三郎を呼び寄せるが、運七は病中なので招きに応じられなかったという。ということは、山手儀三郎だけが平賀源内の招きに応じたのであろう。
    6. 白岩焼を完成させた人物と言われる山手儀三郎は、当時、陶芸の最先端技術・情報を持つ源内と濃厚に接触していることから、彼の影響を強く受けたことは間違いないであろう。だからこそ、1786年、焼き物の本場・京都で修業する決心をして、3年間修業を積んでいる。その結果、日常使う雑器から茶器や花器など観賞に耐える工芸品まで広げたことによって、真の意味で「白岩焼」が誕生したのでああろう。
  • 上ノ台堤・・・上ノ台と呼ばれる場所は、「白岩焼」の材料となる良質な陶土が豊富であった。職人たちが土を採取し続けるうちに、大きなため池になっていった。現在、周囲300mほどのため池「上ノ台堤」へと姿を変えた。
  • 復活した白岩焼の陶土は、この上ノ台堤周辺から採取している。春には桜、秋には紅葉と、風光明媚な場所でもある。
  • 復活した白岩焼・・・昭和49年、人間国宝の陶芸家浜田庄司氏、その次男の浜田晋作氏らの助力を得て、復興の意欲に燃える陶工たちの手により再興されたもの。現在、和兵衛窯、久衛門窯、与吉窯、陶芸教室も開催している「陶芸塾」で白岩焼の伝統を継承している。それぞれ独特のなまこ釉を基調とした作品を生み出している。
  • 白岩特産「くるみの味噌漬け」・・・まだ青い状態のオニグルミをまるごと味噌に漬け込んで作るという。まさかあの硬い殻も一緒に漬け込むとは驚くほかない。確かに殻ごと食べられ、独特のコクがある。
  • サワグルミの皮を使った工芸品
  • 白岩城址燈火祭・・・2月の第1土曜日に開催。
     白岩氏の山城だった「館山(たてやま)」には聖獣「麒麟」をかたどった500個のかがり火が焚かれ、メイン会場の「平城跡」には200個のかがり火を使用したミニかまくらで彩られる。会場では地元の女性や白岩若者会が出店した多数の屋台が立ち並び、冷えた身体を温める甘酒や料理が振る舞われ、国際教養大の学生は、会場設営などを手伝いながら、住民との交流を通じて絆を深めあっている。火振りかまくらや、綱引き、花火も打ち上げられ、地域全体がおおいに盛り上がるという。
  • 白岩城址主郭、アカマツの巨樹と記念撮影 
参 考 文 献