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第34回ブナ林と狩人の会 マタギサミットinただみ

  • 2023年6月24日(土)~25日(日)、「第34回ブナ林と狩人の会 マタギサミットinただみ」が福島県南会津郡只見町で開催された。コロナ禍で2020年~2021年は中止。昨年、臨時的に開催された代表者会議の意見を受けて、4年ぶりに通常開催された。名簿に記載された交流会参加者は131名。サミット会場では、事前に用意された椅子では足りず、急遽追加されるほどの大盛況であった。主催者によると、講演会参加者は200名。
  • 1日目は、講演「旅マタギと只見町:近世の中山間地イノベーション」、パネルディスカッション「ジビエをめぐる現状と未来を語る」、そしてメインの交流会。2日目は、ダムに沈んだ田子倉集落の猟場見学、叶津番所・旧長谷部家住宅では、近世末期に秋田マタギが繰り返し来訪した伝承や秋田マタギの雪崩遭難、秋田マタギの影響を受けた狩猟習俗、「往来日記」に秋田マタギの名前を発見するまでの感動のドラマなど、旅マタギを長年追い続けてきた関係者の熱い思いが伝わるエクスカーション(体験型見学会)であった。
  • 次回の開催地は「秋山記行」(1831年、鈴木牧之)で有名な秋山郷(津南町?)で開催されることが決まった。
  • 主催:第34回『ブナ林と狩人の会:マタギサミットin只見』実行委員会 /共催:只見町 /後援:福島県、大日本猟友会、福島県猟友会 
  • 只見ユネスコエコパークの森の主「ブナ次郎」/田子倉産ニッコウイワナ(只見町ブナセンター)
  • 只見町の木は「ブナ」、町の魚は「イワナ」であった。ちなみにマタギ発祥の地と言われる北秋田市の木も「ブナ」である。マタギが活躍するフィールドは、豪雪地帯&ブナの森が必須要件である。だからマタギサミットの正式名称は、「ブナ林と狩人の会」となっているのであろう。今回は、秋田マタギが歩いた八十里越の古道を歩き、その森の主である「ブナ次郎」にも会うことができたので後述する。
  • 只見町渡部勇夫町長あいさつ・・・只見ふるさと雪まつりで、地元で獲れたクマ肉が出せない。山菜やキノコの一部も、今だに出せないという。福島第一原発の事故後、獲っても食べられないから、狩猟を巡る問題は極めて深刻であることが分かる。これについては、パネルディスカッション「ジビエをめぐる現状と可能性を考える」で議論された。
  • 参考:南会津地区において、野生鳥獣の出荷制限及び県による自家消費を控えるようお願いされている種は、イノシシ、ツキノワグマ、キジ、ヤマドリ、カルガモ、ニホンジカ、ノウザキとなっている。 
  • 講演「旅マタギと只見町:近世の中山間地イノベーション」田口洋美(狩猟文化研究所代表) 
  • 奥羽山脈(秋田駒ケ岳上空から南に向かって空撮)・・・旅マタギが歩いたマタギ道は、山々を尾根から尾根へと移動する尾根道が利用された。近世から明治に鉄道が普及するまでは、阿仁から奥羽山脈の尾根に沿って南下し、中部地方の山岳地帯までやってきた。旅マタギの凄さは、単に国境を越えたというだけでなく、自給自足的な狩猟を近世型市場経済システムへとバージョンアップさせたことである。
  • 秋田マタギの来訪があったとの伝承がある地域には、秋田と類似した重力式罠が存在する。そのいずれも、秋田マタギから学んだとの伝承があり、この種の罠は秋田マタギ由来の技術であることが支持されている。会津には、秋田マタギと三面マタギの罠の両方が存在することから、この両者の影響を受けた地域である。 
  • 阿仁根子・村田佐吉さんの話・・・「マタギになって福島にもいったですよ。会津田島の周辺、会津高田、只見とか田子倉の方へも入ったすな・・・大方マタギがいく山というのは、カモシカがいる山であったすもの。ここの部落からもいったどもしゃ、打当からもいった」・・・カモシカは肉が美味しく、毛皮に最適だから、旅マタギの目的はクマよりもカモシカであった。特に只見にはカモシカが多かったという。(写真:只見町ブナセンター)
  • クマ曳きという習俗・・・クマ曳きは、クマの首と手足に細引きロープを結び、雪の上を曳いて丸ごと里まで運んでいた。何故わざわざそんな難儀なことをするのだろうか?。昔、熊の胆は高価なだけに、偽物が多く出回っていた。だから本物であることを示すために行われたと考えられている。江戸時代の後半になると、豪農、豪商と呼ばれた人たちは、クマを1頭丸ごと買ってくれるようになる。クマが獲れたら、買い手の自宅の庭先までクマを曳いていき、山神様に感謝するケボカイの儀式を済ませてから、本物の熊の胆を取り出した。 (写真:2019年マタギシンポジウム/田口洋美) 
  • クマの巻狩りの違い・・・フラットな地形の阿仁の場合、塞ぐべきクマの移動ルートは増加するため、29人巻きのように大人数による巻き狩りとなる。しかし秋山郷や田子倉のように地形が峻険になれば、クマの移動ルートは限られるので、4~5人といった少人数で巻くことが可能である。こうした巻狩りの違いは、地形に応じて汎用性に富んだ技術として各地に定着したと考えられる。その巻狩りのルーツは、阿仁の旅マタギにあると言われている。(写真:阿仁比立内大深沢巻狩りの図)
  • 秋田マタギの子孫「クマ獲り文五郎」・・・大正三年、小赤沢の鉄砲水で家なども流され無一文になった文五郎は、新潟の前倉から70円(今だと約3千万円)の借金をして家を建てた。その家の借金の返済は、驚くことにクマやバンドリ(ムササビ)などの猟だけで、しかも信じられないほどの短期間で返済している。また人生の大半は山を歩いて、冬は猟師、夏は百姓と川漁をして生活していた。只見のターザン(後述)も同じ。少子高齢化が急速に進む山村の危機を打開するには、そんな過去の歴史に学ぶほかないであろう。(上右写真:秋山郷総合センター「秋山マタギの狩猟文化」) 
  • 北越雪譜(1837年江戸で発行)・・・要約すれば、熊は猟師が山に入って捕まえたがる最高の獲物である。熊一頭で、皮と熊の胆で大体五両(現在の価格85~100万円)以上になるから、猟師の欲しがるのも当然である。その価値の高い熊を捕まえようと、春暖かくなって雪の降り止んだころ、出羽(秋田)あたりの猟師が五人か七人やってくる。彼らの狙いは、この土地の熊である、と記されている。 
  • 旅マタギ(マタギ商売)の発生・・・天明・天保の飢饉で物価高騰していた時代、秋田藩阿仁銅山の記録には、天保10年(1839)10月、阿仁の請負人7人が、連名で炭焼きの請負値段引き上げを願い出ている。その記録には、「従来の値段では、安くて妻子も養えない。だから他国へマタギ商売に赴いたりする者が後を絶たない。その旅マタギに出る者は、特に打当村と中村の山子に多かった。他にも追々マタギ商売に出る者がいたようである。」と記されている。 旅マタギを輩出した阿仁側の状況を裏付ける貴重な記録である。それにしても、ここまで追い詰められると、一家を養うために、誰もやったことのない旅マタギという生業を生み出す知恵、その凄まじいやる気、アイデアが凄い!と言わざるを得ない。
  • 秋田藩では、天明3年(1783)、天保4年(1833)に大凶作になっているので、中間をとれば1800年前後に秋田マタギによる伝統的出稼ぎ狩猟・「旅マタギ(マタギ商売)」が始まったと考えられる。以来、旅マタギは昭和30年(1955)頃まで、約150年間続いた。
  • 1846年、長野県秋山郷の「島田汎家(シマダヒロシケ)文書」・・・秋田マタギが進出した地域の多くが、狩猟禁止区域の旧天領、特に巣鷹、鷹巣などの鷹狩り用の幼鳥を生け捕りにして、領主権力に献上した地域である。その最たる地域が秋山郷であった。文書には、「37、8年前から羽州佐竹様の御領分の産まれという狩人4、5人が秋山の村や山際の村にとどまり、春夏秋冬の分かちなく一年中殺生している。・・・5人7人巣守に出て注意しても、かえって彼らにケガをさせられることもある」。巣守の総代が、かつての形に戻してほしいと、代官所に願い出ていたことが記されている。秋田の旅マタギが秋山郷までやって来て「一年中殺生」していたことを裏付ける貴重な記録である。
  • 福島県南会津郡只見町、田子倉ダム・・・近世末期に秋田マタギが繰り返し来訪したという伝承がある。阿仁打当の鈴木松治氏の先祖が、旅マタギで歩いて書いた地図も同じ地域である。 
  • 国境を越えたマタギの証「奥会津黒谷山絵図」・・・鈴木松治氏の先祖・鈴木松三郎が、旅マタギで書いた会津黒谷山の地図。松三郎は、江戸末期から明治初期の人。まだ鉄道がない時代、徒歩で山の尾根を歩き、県外各地へ旅マタギをしていたことを裏付ける貴重な資料である。絵図は、南会津郡只見町黒谷地区を北端に、南北、東西とも約12キロ四方を横約40cm、縦約30cmの和紙に描かれている。実際に足で歩いて書いたもので、川や沢、林、岩場、険しい高山などが入念に描かれている。 (上下写真:黒谷川流域図/只見町ブナセンター)
  • 1792年、八戸藩の記録・・・葛巻村の百姓から申し出があり、秋田領から猟師二人が越境してきており、シカやイノシシが多いので、村方で申し合わせて狩りができるようにとの申し出があった。表向きは返事ができかねるが、内々に御代官が承知し秋田領の猟師に指示している。
  • 同じく同年の八戸藩の史料には・・・秋田領の猟師からクマを討ち獲る技術としてタテ(槍)で獲る技術を学んだ八戸の農民は、鉄砲を使わず槍で獲るから猟師の鑑札を出してほしいと願い出て、これが許されたとある。
  • 19世紀前半になると、密猟は問題視されるようになるが、秋田猟師に入国許可をした長谷部大作家文書なども残っている。これらの史料から、旅マタギは、深刻な鳥獣対策に諸藩が追われていた幕末に動き出していることが分かる。このように国境を越えて他藩に入る旅マタギの記録は、秋田だけである。
  • 嘉永4(1851)年、長谷部家文書「往来日記」には、「羽州秋田荒瀬村猟師 万太郎組三人 熊皮一枚」「羽州秋田猟師五人組三九郎組」が新暦5月頃に帰郷したことが記されていた。
  • 旅マタギは、裏街道ばかり歩いていたと思われていたので、番所の往来日記に記録されているはずはないと思うのが常識である。ところが、その常識を覆すかのように旅マタギの名が実名で記されていた。文政~弘化(1804~1830年)にかけて秋田からの猟師を差し止めるよう触れを出しているが、嘉永になると堂々と番所を通過している。その変化の理由は不明。
  • 「往来日記」に記された「万太郎、三九郎」の家は、今も現存する。上の写真は、北秋田市阿仁打当集落に現存する三九郎家である。 
  • パネルディスカッション「ジビエをめぐる現状と可能性を考える」
  • 進行:田口洋美(狩猟文化研究所代表)/コーデネーター:高橋満彦(富山大学教育学部教授)
  • 遠藤春男(山形県小国町)「春熊猟の意義、熊祭りと出荷制限解除」
    佐 藤 繁(長 野 県)「 『 信州ジビエ 』 ブランド開発 」
    小山抄子(福島県南会津町)「出荷制限と鹿革細工、鹿フェス開催」
  • 東日本大震災による原発事故以来、野生動物は出荷制限を受けている。クマとシカについては、何も出ていないのに焼却処分するほかない。
  • 山形では、春グマ猟を40年以上続けている。残雪で黒いクマが良く見えるから生息調査を兼ねて春グマ猟を行っている。もちろん子連れのクマは獲らない。何頭目撃して、そのうち何頭捕獲したかを報告している。
  • 2006年、クマの大量出没が起こった。この年のツキノワグマの捕獲頭数は、社会問題となった2004年の倍近い4,732頭に達した。長野県が693頭と最も多く、次いで山形県は676頭と多かった。翌年、東北ではほとんど春グマ猟が禁止される中、山形県だけが実施。その際、クマの目撃頭数は2006年と同様であった。その理由は、里に出没したクマが大量に捕獲されたが、奥山のクマには変化がなかったということ。
  • 山形県のクマ肉は、国の基準値を超える放射性物質が検出されたため、2012年9月に出荷が制限された。以来、小国町小玉川熊まつりの名物であったクマ汁の提供ができなくなった。その後、署名活動を展開するなど様々なアプローチが功を奏して、2016年から全頭検査を条件に制限が解除された。
  • 長野では、狩猟者のモチベーションとして、ニホンジカをジビエとして捕獲している。ただし野生鳥獣肉の衛生管理に関するガイドライン、マニュアルがなければ、保健所の許可がでない。捕獲した獲物を、現場で解体するのは×。処理加工施設まで運んでから解体しなければならないので、大変な手間とコストがかかる。だからジビエは儲からないが、地域のためにやっている。
  • 大手スーパーでは、ジビエを扱うには、安定供給と品質管理ができないと×と言われている。クマはもちろんのこと、野生鳥獣は、安定供給が難しい。
  • 近年、尾瀬では鹿による食害が深刻化し、有害獣として殺される鹿も増加。さらに放射線量の関係で出荷制限が出ている。だからニホンジカをただ駆除・利用されずに廃棄されていたが、これに疑問をもった。おぜしかプロジェクトは、素人でゼロからスタートして9年目になる。北海道で駆除されるエゾシカとも連携して、毛皮の加工、肉はペットフードに加工して、ほぼ100%利用している。
  • 北海道では、エゾシカを牧草地で撃てる。会津では、捕獲したシカを1頭丸々険しい山から下ろすのは無理。
  • 長野県では、第5期ツキノワグマ保護管理計画を策定・・・捕獲檻による捕獲がほとんどで、銃などで追い立てられる経験をしたクマが著しく少なく、人を恐れないクマが多く存在している。だから、学習能力の高いクマに対して人の怖さを教えることができる春グマ猟を積極的にやりなさいという方向に転換している。
  • 放射能の検査体制についてまだまだ課題はあるが、どうにかクリヤーしていきたい。未だに野生鳥獣の出荷制限が続いている福島の皆さんは、決して孤独ではない。ジビエ出荷制限の解除に向けて、署名でも何でも、東北で連携して協力するので、諦めずに頑張りましょう!
  • 夜の部 交流会
  • エクスカーション①「六十里越峠開道記念碑」からダムに沈んだ田子倉集落の猟場見学 
  • 只見のターザン(テンカラ名人・瀬畑雄三翁「渓語り」より抜粋)
     その名は大塚方(ただし)さん。明治28年、只見に生まれる。この大塚さんを指して、土地の人たちは親しみと敬意を込めて「ターザン」と呼んだ。それは、褌一枚で山渓を渡渉する雄姿に加え、何よりも猟において発揮される動物的ともいえる勘の鋭さや敏捷さが、人々に畏敬の念を与えたからである。
     この只見のターザンには、もう一つ、人並み優れた意外な特技があった。何を隠そう、「浪花節」の語りである。頼まれて自慢の喉を披露に及ぶと、その都度、決まって帰りには幾許かのこころづけや出演料をもらうまでになった。これに味を占めたターザンは、銀山平へ浪花節の巡業へと向かった。飯場の軒の下にあったリンゴ箱を無断で拝借し、急場しのぎの演壇をしつらえ、やおら「野狐三次」を大声で唸り始めた。その見事な浪花節に、やんやの喝采を浴びるだけでなく、懐を重くするほどのご祝儀をもらった。ターザンは、家族の待つ只見に降りる道すがら、「また来なくちゃなんねェなァ」と心底つぶやいた。
     二度、三度と所望されて通ううち・・・銀山平に向かう道中で釣ったイワナを銀山平の鉱山で売りさばいた。ターザンが釣ってくるイワナは、次の次の日にも刺身で食える、という評判に、イワナ釣りもまた格別な商いになった。やがて遠く館岩の湯ノ花温泉、また桧枝岐と近隣近在の在所めぐりが、ターザンにとって辻浪曲とイワナ漁の、休猟期における二足ワラジの生業となった。
     ターザンのイワナ釣りは、釣り竿片手に褌ひとつ、その豪傑振りが「ターザン」の異名の所以だったのであると・・・そして著書の「あとがき」にこう記している。思えば、私の渓流人生は・・・只見の郷や、みちのくの山にマタギと称する山棲み人を好んで訪ね、彼らが訥々と語る「山語り」「渓語り」を糧に歩んできたのであった。 
  • 田子倉集落最後の山人 皆川喜助猟師の記録・「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)の要約・・・会津きっての狩猟集落-只見町田子倉は、昭和34年にダムの底に沈んだ。喜助猟師は、大正3年生まれで、半生をふるさとで過ごし、ダム建築着工に伴って、黒谷集落へ一家を挙げて移住した。田子倉での生活は、4月下旬から5月上旬にかけてのクマ狩りに始まる。5月に入るとゼンマイ・ワラビ・フキ・ウドなどの山菜。夏は川漁に励んだ。喜助猟師は、とりわけ川漁が好きで毎夏奥山に雨露をしのぐだけの小屋を構えて4、5日泊まり込み、昼間はイワナを釣り、夜は燻製加工を行った。干しゼンマイと燻製イワナは値が良く、大いに家計を潤した。田子倉の猟師も、狩猟だけでなく、四季折々山の恵みを得ることを生業にしていたことが分かる。 
  • 昭和初期の田子倉には、本流組と白戸組の狩猟集団があった。当時の田子倉は、45戸のうち25人ほどが猟師という狩猟集落で、槍や村田銃を用いてクマに立ち向かっていた。伝統的な狩猟習俗も生きていて、猟場の生活は謹厳を極めた。本流組は、集落から16キロほど上流の宿の沢に猟小屋を構えていた。(写真:只見町ブナセンター)
  • 猟小屋の手前にあるイクサギと呼ばれる樹木まで来ると、雪で顔を洗い、手ですすいで身を浄め、親方の山入り作法に則って山の神を拝む。それより先は、日常の里言葉に代えて山言葉を用いる。巻狩りには少なくとも5人の猟師を要する。本流組は、父喜平次を頭にその舎弟二人と彼の四人のほかに数人の猟師を誘うのが常だった。猟に出かける際は、小屋の前にある山神の祭り木を拝礼。狩場へ到達すると、向かいの山に目を凝らしてクマを探し出し、頃合いを見て巻狩りを行った。
  • 「只見とっておきの話」に記された狩猟習俗を要約すれば、上記に記された皆川喜助さんの話のとおり、阿仁マタギがもたらしたものは、狩場を神聖な所として里と区別する風習や山言葉、指揮者を中心とした組織的な巻狩りなどがある。狩りは沢単位に行い、見通しの良い所に指揮者が位置し、獲物を追う役と獲物を射止める役とに分かれる。
  • エクスカーション②秋田阿仁マタギの通行日誌が残る叶津番所・旧長谷部家住宅 
  • 叶津村の名主をつとめていた長谷部家は、江戸時代、会津と越後を結ぶ八十里越の関所の役割をもつ番所でもあった。その長谷部家文書の一つ「往来日記」には、誰がどんな目的でどこへ行くのかを書き留めている。その中に、秋田マタギが記されていた。
  • 秋田の旅マタギと只見町関係者5名・・・左から長年旅マタギを追い続けている田口洋美先生、長谷部家当主の子孫、只見と秋田マタギについて伝承する地元の猟師・渡部民夫さん、阿仁打当の旅マタギの子孫・鈴木英雄さん、長谷部家の古文書を解読・旅マタギの実名を発見した村上一馬さん。
  • 世紀の大発見・・・5年程前のこと。田口先生に新しい古文書が出てきたとの情報が入った。たまたま村上一馬さんから電話があったのでその旨伝達。村上さんは、当初ほとんど期待することなく古文書を読んでいたという。ところが常識を覆すような記録・・・何と旅マタギの名前が実名で記されている箇所を発見!・・・世紀の発見だが、余りにマニアックなだけに、それを飛び上がって喜んだのは、田口先生と村上さんの二人だけだったという。
  • 「只見おもしろ学ガイドブック」によれば、「伝統的な狩猟をおこなう集団を秋田県ではマタギと呼んでいますが、只見ではクマ撃ちまたは鉄砲撃ちといいます」・・・昔からマタギと呼ぶのは、北東北三県(北東北縄文遺跡群)だけ。戦後、マタギと言う言葉は広く使われるようになり、マタギと山人、伝統的な猟師、クマ撃ちなどは同じ文化を持った仲間としてマタギ、あるいはマタギ集落と呼ぶのが慣例になっている。
  • 黒谷川流域の狩場・・・明治中期から昭和初期にかけて倉谷・白沢両集落に狩猟組があった。上福井集落の留蔵組・竹千代組も黒谷川の西を並行して流れる楢戸沢を遡り、会津朝日岳や大幽山において猟をした。竹千代組は倉谷組に加わって猟をすることが多かった。
  • 秋田衆小屋場・・・黒谷川上流域には、地元の猟師ばかりでなく、秋田マタギがカモシカ猟に来ていた。黒谷川の支流継滝沢(つんだきざわ)と大幽沢(おおゆうさわ)西沢の枝沢道木沢(みちぎざわ)に「秋田衆小屋場」と称する岩窟がある。
  • 秋田マタギ衆の遭難・・・安政年間(1854~60)以前の昔、秋田マタギ衆が小幽沢の樋ノ口沢にも小屋をかけ、十数人が寝泊まりして猟をしていた。この場所には滅多に出ない表層雪崩が会津朝日岳から崩れ落ちて小屋を襲った。黒谷集落の上に「転び石」と称する岩石があって、その石を墓石代わりにして犠牲者たちの遺体を葬ったと伝えられている。 
  • かつてのカモシカ狩り(村田佐吉さんの話)・・・「昔、オラの親父の時代はカモシカはコダタキ(コナギ・ヘラ・マタギベラ)で叩いて獲ったという話だすな。撲殺したんすな・・・沢の方へ追い落として・・・雪深くなると足細いがら雪の中に埋まってぬかってしまって、それで疲れでしまうがら・・・結局穴に落ちて身動きとれなぐなるんすな。それをコダタキで叩いて獲ったらしいすな」(写真:北秋田阿仁打当マタギ資料館)
  • 獲物は山の神様からの授かり物・・・その大切な神事が、阿仁ではケボカイ、只見をはじめ奥会津ではサカサッカワという。クマの皮を剥ぎ取ると、それを逆さにクマに着せ掛け、古猟師が獲物の頭の方に立って皮を三回煽りつつ、何やら呪文を唱えて慰霊を行った。名称は異なるが、どちらも腹を裂く前に、シカリがはぎ取った皮を持ち、その霊を山の神様のもとへ丁重に送る儀式は同じである。こうした儀式は、秋田マタギの影響を伺わせる。(写真:小国町「マタギの館」/2019年マタギシンポジウム・田口洋美) 
  • 旅マタギと巻物・・・国境を越えて猟をするには、自分が何者かを証明する物が必要だ。つまり、越境のパスポートとして必ず携帯した。ただし巻物の最後に印がなければ信用してもらえなかったという。 (写真:北秋田阿仁打当マタギ資料館)
  • 田子倉の皆川政一郎氏所蔵のマタギ文書「山立根元巻」は、秋田マタギが所持していたものを手本に多少書き加えたものと考えられている。  
  • エクスカーションで観察した昆虫・・・キアゲハ、ツバメシジミ♂
  • ミドリヒョウモン、ヒメヒラタアブ
  • ヒメシジミ♂、♀
  • イチモンジチョウ、オオマルハナバチ
  • カワトンボ、ヒメウラナミジャノメ 
  • 参考:只見の絶滅危惧種・ヒメサユリ(写真:高清水自然公園/南会津町)・・・ヒメサユリは、福島、新潟、山形三県の県境付近にのみ自生する貴重なユリ科植物。かつては山道や沢近くの湿った場所に自生していたが、今では崖の上の手の届かない場所に寂しく咲いているという。前日雨が降ったおかげで、雨露にしっとり濡れたヒメサユリは一際美しく輝いて見えた。
  • 記念撮影(季の郷 湯ら里) 
参考:只見ユネスコエコパークを代表するブナ林探訪
  • 只見ユネスコエコパークを代表するブナ林はどこかと、地元の方に聞くと・・・浅草岳入叶津登山口(上写真)から登り、山神杉のある尾根から沼ノ平方向に下ると、ブナの天然林とその森の主・ブナ次郎の巨樹に会うことができるという。しかもそのルートは、秋田の旅マタギが歩いた八十里越でもあったことから、是が非でも歩いてみたい衝動に駆られた。たまたまサミット二日目は、好天に恵まれた。これは、山の神様のお告げ・「ブナ次郎に会いに行け!」とのサインだと勝手に解釈し、急遽サミット終了後、チャレンジしてみた。
  • 白神山地や奥羽山系は、ブナ~チシマザサ群落が多いが、古道沿いの林床には常緑のユキツバキがやたら目立つ印象を受けた。花の最盛期は、新緑に映えてさぞ美しいことだろう。 なお北限のユキツバキは、秋田県田沢湖周辺と言われているので、阿仁マタギの森吉山や白神山地などにはユキツバキが自生していない。
  • 越後に通じる主要道「八十里越」・・・只見町叶津から新潟県魚沼市~三条市を結ぶ峠道である。浅草岳入叶津登山口から沼ノ平までの登山道は、この古道を利用している。天保14年(1843)、幕府によって大改修が行われた道を「古道」と呼び、その一部を浅草岳登山道として利用している。
  • トチノキの巨樹/ブナの巨樹
  • エゾアジサイ、ヤマツツジ
  • オニグルミの実、ヤマグワの実
  • 山神杉の分岐点・・・左の尾根沿いに進むと浅草岳、正面・沼の平へ下る道が八十里越で広大なブナの天然林が広がる。
  • 右手の尾根沿いを歩くと、マイタケが生えそうなミズナラの巨樹が尾根から急峻な斜面にかけて林立していた。パンフレットによると、この道は登山、歴史の道に加えて、地元集落の人たちが利用する生活の道でもあると記載されていた。これで納得。
  • ブナの天然林・・・どこか白神山地のブナ林に似た穏やかな風景に一変。太いブナから細いブナ、その間隔もランダムなところが天然林の特徴だ。静寂の中、ブナの朽木に止まり、鋭いドラミングの音が森の中に響き渡った。アカゲラあるいはオオアカゲラだろうか。キツツキの仲間がいるのも天然林の特徴だ。
  • 古道沿いのブナの幹に刻まれたナタ目・・・判読不能なナタ目も多く、それだけ歴史の古さを感じさせてくれる。昔は地図やGPSなどはなかったから、道の分岐点やクマの通り道、越冬穴、沢へ降りる地点、マイタケの生える木周辺などに目印としてナタ目を刻んだはずだ。只見の広い山中のどこかに、旅マタギのナタ目もきっとあるに違いない。しかし、それを探し当てるのは、古文書探しより難しいであろう。 
  • 八十里越ブナの森の主「ブナ次郎」
     沢へ下る右手に仁王立ちした巨樹が目に止まった。一際デカイ!・・・マタギが信仰する神様は女性だから、「母なる木」と呼ぶにふさわしい巨樹である。一般にブナの寿命は300年と言われているが、400年は生きているであろう。いずれにしても、この巨樹は、秋田の旅マタギが繰り返し、この古道を歩く様子を確実に見ている。このブナと菌糸ネットワークでつながっている林床のキノコは、ブナと会話ができるらしい。キノコになって、今から200年前、この古道を歩いた人たちの人生を聞いてみたいものだと思った。最後に、只見の山の神様が宿るブナ次郎に感謝の拝礼をして山を下った。     
参 考 文 献
  • 「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)
  • 「只見とっておきの話」(只見町)
  • 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
  • 「マタギを追う旅-ブナ林の狩りと生活」(田口洋美、慶友社)
  • 「渓語り」(瀬畑雄三、冬樹社)
  • 「福島県只見町 登山&トレッキングBOOK」(只見町インフォメーションセンター)
  • 「只見ユネスコエコパークの自然と暮らし」(只見町ブナセンター)
  • 「おもしろ只見学ガイドブック改訂版」(只見町)
  • マタギサミット配布資料