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森の学校 「マタギの歴史と共生の文化に学ぶ」講座

 2018年1月20日(土)、森の学校「マタギの歴史と共生の文化に学ぶ」講座が秋田県森林学習交流館・プラザクリプトンを会場に開催された。参加者は83名。講座では、マタギの山・和賀山塊やマタギの森・白神山地、ブナ林と狩人の会「マタギサミット」、東北・羽越地域のマタギ集落を実際に歩いて撮影した写真、マタギ文化関連の資料館・名所旧跡等で収集した情報をベースに作成したスライド133枚を使って行われた。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/秋田県森の案内人協議会
  • 講師:菅原徳蔵インストラクター   
  • 講座目次
    1. 山釣りとマタギ・・・マタギに興味を持ったキッカケは何か?
    2. マタギとは・・・疑問① 昔からマタギと呼ばれた地域は?
    3. マタギの語源  ①マタハギ説、②アイヌ語説、③又鬼説、④山立説
    4. マタギ言葉・・・疑問② なぜ不可解なマタギ言葉を使ったのか?、 疑問③ マタギはアイヌか?・・・アイヌではない理由
    5. 盤司盤三郎伝説と巻物 ・・・疑問④ 巻物は越境のパスポートになり得たのか?、疑問⑤ マタギはなぜ巻物を創作したのか?
    6. 山の神とオコゼ・・・疑問⑥ 山の神はなぜオコゼを好むのか?
    7. 禁忌・タブー
    8. 薬の行商
    9. 旅マタギ・・・疑問⑦ 阿仁マタギが全国のマタギの本家と言われる根拠は?
    10. 共生の文化~山の神信仰
    11. 里山の荒廃=森の文化の危機
  • 山釣りとマタギ・・・和賀山塊・堀内沢の上流部に位置するマンダノ沢と八滝沢は、イワナが到底上れない滝を幾つも越えた最源流部までイワナは生息している。一体誰が放流したのだろうか。後日、マタギ小屋を管理している戸堀マタギから聞いた話によると、イワナ釣りが大好きだった故秩父孫一マタギ(白岩)は、猟の合間に小屋に置いてあった竿と一斗缶を背負って釣りに出掛け、「今日は○番目の滝まで放流してきた」と、イワナの移植放流を得意げに語っていたという。
  • 秋田県内を流れる沢々に共通する点は、イワナが自力で遡上できない魚止めの滝の上流に、ことごとくイワナが生息していることである。そのほとんどは、山に生きたマタギたちによって移植放流が繰り返された結果、「秋田はイワナの宝庫」と呼ばれるようになったのである。それがマタギに興味を抱く最初のキッカケである。
  • 疑問① 昔からマタギと呼ばれた地域は?・・・ 山形県小国町、新潟県奥三面、長野県秋山郷では、いずれもマタギとは言わず、山人あるいは猟師という。江戸時代から「マタギ」と呼ばれていたのは、青森、秋田、岩手の三県のみである。
  • 戦後、マタギと言う言葉は広く使われるようになり、マタギと山人は同じ文化を持った仲間としてマタギ、あるいはマタギ集落と呼ぶのが慣例となっている。 
  • 疑問② なぜ不可解なマタギ言葉を使ったのか?・・・千葉徳爾「狩猟伝承」によれば、
    1. ネズミにも狩場の名をいったら獣に教えられることを恐れてのこと。
    2. 山中で野生鳥獣の名を呼べば、彼らに警戒されるのを恐れ、里での動物名は禁ずべき言葉に含まれる。つまり、獣に悟られることを嫌ったと考えられる。
    3. 山中で炊事をし、宿泊していることが山の精霊(山の神)に知られると祟りを受けると考えているから、忌み言葉としてマタギ言葉を使ったと推測している。
  • 山寺の寺伝・・・860年、慈覚大師・円仁がこの地にやってきた時、この地で狩猟をしていたのが猟師の開祖・盤司盤三郎である。彼は、この地を譲り山寺の開山に協力したので、「地主の神」として祀られている。 
  • 阿仁根子の伝承・・・山寺を狩場にしていた磐司磐三郎という猟師は、慈覚大師・円仁にこの地を譲り、その後、宮城から大館市十二所(老犬神社)を経て、根子にやってきて、部落の者と一緒に狩りをしたのが、根子マタギのはじまりと言われている。元々古い山の神信仰に密教が結びつき、マタギ文化へと発展したのではないか。 
  • 巻物は偽作?・・・千葉徳爾「狩猟伝承」によれば、「圧倒的に多いのは日光派で、その大半は粗末な一枚紙に筆写したもので、猟師がおぼつかない文字で認め、自分の守りとしたものが大半で、意味もよく分からないまま持ち伝えたものである。」とし、由来記は、自由往来の特権を維持するために、この種の巻物を偽作したと推測している。
  • 木地屋文書・・・木地屋は、元締めとされる小椋村が出したという文書を持っていた。これは、越境のパスポートと言われたマタギの巻物に似ている。それには、国内のどこの山へ行くことも、その山で自由に材料の木を伐ることも許すと書かれている。また、山の七合目以上の木は自由にすることができるという伝承も持っていた。しかし、明治時代になると、偽の文書や伝承で勝手に山に入ることは許されなくなり、山の近くの集落に入れてもらったり、木地屋の仲間の集落をつくったりした。
  • 木地屋文書は、歴史学者によると、後世に作成された典型的な偽文書であると断定されている。(牧野信之助・1927)
  • 疑問⑤ マタギはなぜ巻物を創作したのか?
    1. 仏教は生き物を殺生してはならないという教えがあった。
    2. 神道では肉を食べるとケガレるといって避けていたことが、広く浸透していた・・・こうした教えは、北方系狩猟文化に対する南方系稲作文化の偏見?なのだが
    3. だから神仏を助けることによって「日本中どこの山々でも、鳥獣の殺生を許された」という、狩猟に対する偏見を覆すようなストーリーを巻物にすれば、仲間と共有し、つながることができる。そうすることでマタギを正当化すると同時に、自由往来の特権を維持しようとしたのであろう。こうして、各地に阿仁マタギとほぼ同じ巻物が伝承していったと、私は推測している。
    4. 木地屋文書やマタギの巻物、あるいはこれに似た偽文書は他の色々の職業の間にも見られたが、世の人々はこれに騙される場合も多かったと言われている。
  • 疑問⑥ 山の神はなぜオコゼを好むのか?
    1. 「をこぜ」(御伽草子)・・・物語は山の神がヲコゼを見そめたことに始まり、カワウソのなかだちで、首尾よく山の神と結ばれる。(昔から山と海はつながっているとの認識があった)
    2. 紀州「山神絵詞」・・・山の神がオコゼ姫に恋をし、自分の妻とする物語。紀州では、山の神はオオカミの姿で醜いゆえに、醜いオコゼを妻に迎えるという伝承がある。
    3. 「いざなぎ流神道祭文」(高知県香美かみ市物部町)・・・山の神がオコゼの仲介で、竜宮の姫と契ったという物語がある。
    4. 千葉徳爾「狩猟伝承」によれば、「いざなぎ流神道祭文」を引用し、山の神はオコゼを見たがるという伝承に転訛し、出猟に際してオコゼを持参する風習が全国へ広がったと推測している。
    5. 「オコゼ」は、山の神」と「海の神」をつなぐキーワードになっている。
  • マタギの世界では、なぜ禁忌・タブーが多いのか?・・・神を信仰する神道系は、特にケガレを嫌う。神社は神域であるから、ケガレを嫌う。山も山の神様の領域だから、ケガレを嫌う。さらにケガレは伝染する。ケガレた人は共同体の秩序を乱し災いをもたらすとされている。だから、マタギの世界でも、様々な禁忌やタブーがある。
  • 山の神は女神ゆえに、女性は神聖な山をけがすとされ、女人禁制。妻が妊娠、出産すれば、獣の生命力も豊かになって、弾丸が命中しても倒せない。身内に死者がでると、不慮の災難に遭う。そうした穢れた人は、集団狩猟への参加が禁じられた。ただし、無関係な葬式に出会うのは喜ぶという。それは相手が死ぬことになるからである。
  • 薬の行商・・・昭和7年、阿仁根子・戸数84戸のうち76名が毛皮、熊の胆の行商をしていた。収入は、「年額8千円~1万円」と高収入で、当時の校長先生の月給の3倍以上稼ぐのは、わけなかったと言われている。だから、文化程度も高かった。
  • 行商の目玉は熊の胆・・・その効能は、慢性の胃腸病、食中毒、疲労回復、二日酔いなど、万病に効く薬として、昔から漢方薬の中では、最高級品であった。熊の胆は絶対量が少なく高価なために、牛や豚、三陸沿岸でとれるマボウザメの胆など、古くから偽物の胆が出回っていた。
  • 熊の胆は、細い糸できっちり結び、囲炉裏の火棚に吊るして乾燥させる。半乾きになったら、板にはさんで形を整え、さらに室内で乾燥させて仕上げる。完成まで一ヶ月余りを要する。
  • 上の写真は、阿仁根子の山田博康さん所有の熊の胆で、最大級のもの。左の生の状態で291gもある。乾燥後は78.5gで約1/4になる。
  • 行商先・・・秋田県立博物館で開催された「秋田くすり今昔物語」によれば、宮城、福島、岩手、秋田、北海道がベスト5で、以下山形、新潟、栃木、群馬、岐阜・・・。遠くは、愛知、愛媛、樺太といった遠くまで行商していた。また、旅をする人の話はオモシロイということで、民泊すると大変喜ばれたという。 
  • マタギ宿とは・・・獲物の肉や熊の胆と交換に米や味噌を調達したり、勢子の世話をしてもらったり、草鞋を編んだり、郷里との手紙のやりとりなど便宜を図ってくれる民家のこと。
  • 旅マタギ・・・マタギには故郷を離れない里マタギと、故郷を離れて出稼ぎ猟をする旅マタギに分けられる。阿仁マタギの最大の特徴は旅マタギ。その旅マタギを調査した労作が、田口洋美先生の「マタギ 森と狩人の記録」と、「マタギを追う旅」の二冊である。 
  • 「秋山記行」・・・越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山記行」を書き上げる。この記行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田の旅マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。
  • 秋山記行をまとめ・・・旅マタギは、2~3人の小集団で行われ、人跡稀な源流部に小屋を幾つも掛け、狩猟と川漁を展開していた。狩猟は圧死させる構造の罠猟が主体であった。岩魚や毛皮は、沢を詰め峰越えルートで消費地・草津温泉の湯治場へ売っていた。
  • イワナを釣って温泉宿に卸すというスタイルは、後のイワナ職漁師たちに継承されている。だから、阿仁の旅マタギは、川漁の世界にも多大な影響を与えている。山釣りのバイブル「山漁」(鈴野藤夫、農文協)にも、その詳細が記されている。だから山釣りの世界でも、阿仁マタギに強い関心を抱く人が多い。 
  • 何故、阿仁は狩猟先進地域になったのか?・・・阿仁銅山は、18世紀初め、年間の出銅額が、コメに換算すると約70万石、日本一の銅山になっている。阿仁は、全国から鉱夫が集まる大都会であったから、肉や毛皮、熊の胆、川魚、薬草の需要が発生し、狩猟・川漁先進地域へと発展したと考えられる。 
  • 1846年、長野県秋山郷の「島田汎家(シマダヒロシケ)文書」・・・「37、8年前から羽州佐竹様の御領分の産まれという狩人4、5人が秋山の村や山際の村にとどまり、春夏秋冬の分かちなく一年中殺生している。・・・5人7人巣守に出て注意しても、かえって彼らにケガをさせられることもある」。かつての形に戻してほしいと、巣守の総代が代官所に願い出ていたことが記されている。秋田の旅マタギが秋山郷までやって来て「一年中殺生」していたことを裏付ける貴重な記録である。 
  • 1800年代初頭、阿仁打当から来た忠太郎は、秋山郷大赤沢の藤ノ木家の分家養子に入る。
  • 1809年生まれの松之助は、父の忠太郎を追って阿仁から大赤沢へ来て、同じく石沢家の婿に入っている。その子ども五人の男子は、皆猟師になってる。石沢家を継いだ長松の三男「文五郎」は、小赤沢山田家の婿養子に入るが、彼は「クマ獲り文五郎」と呼ばれ、秋山郷の猟師組の土台を築いた人物である。
  • 秋山郷総合センターには、「秋山マタギの狩猟文化」コーナーがある。そこに掲示されている猟師の写真は、秋山郷の猟師組の土台を築いた「クマ獲り文五郎」という人で、阿仁マタギの子孫にあたる。鈴木牧之を案内した湯守の彦八も秋田マタギで、同時期に3名の秋田マタギが秋山郷に定着している。やがて彼らの子孫が婚姻等により広がり、猟師組へと発展したことから、秋山マタギにとって、阿仁は「本家」に当たる。  
  • 山形県小国町で復元したオオモノビラ・・・クマがこの罠に入ると上から重い物が落ちて圧死させる構造で、写真のとおり仕掛けの前にクロスしている棒は「前仕掛け」とも呼ばれている。昔のクマ猟は、この罠猟が主体だった。プロのマタギは、この複雑な罠を現場で即席に作った。小国のオオモノビラは、阿仁のヒラオトシとほとんど同じであることが立証されている。
  • 秋田マタギの来訪があったとの伝承がある羽越地域や岩手県雫石町、沢内村、宮城県七ケ宿町、青森県西目屋村などに、秋田と類似した重力式罠が存在する。そのいずれも、秋田マタギから学んだとの伝承があり、この種の罠は秋田マタギ由来の技術であることが支持されている
  • 動画「マタギの技゛ヒラ掛け゛復元」(山形県小国町小玉川)
  • 根子から移住開墾してできたマタギ集落・・・左の写真は、上小阿仁村八木沢の開墾記念碑で、この村は、1813年、根子から移住したマタギ集落である。右の写真は、萩形集落跡に昭和44年に離村した記念碑で、この村も同時代に根子から移住開墾したマタギ集落である。 
  • 本家である根子には源平落人伝説がある。平家落人の伝承によれば、壇ノ浦合戦に敗れた一族は、越後の三面、下野日光、羽後の根子に分かれたという。とすれば、根子と三面は同じ一族ということになる。
  • 新潟県三面は、羽越国境のマタギ集落として有名だが、ここにも平家伝説がある。その伝説とは別に、三面の伝承では、狩りの始祖は秋田から来た狩人との説もある。だから、「やっぱり秋田っていうと本家っていうがな、本場だっていう気持ちがあるな。・・・やっぱり秋田に対しては尊敬してる気持ちが大きいでねぇかな。」と、語っている。
  • 三面と秋山郷の猟師から、本家の阿仁も含めて一度皆が会う機会をとの要望を受けて、1990年(H2)、マタギサミットがスタートした。第1回目は、新潟県三面集落の公民館を会場に、三面集落、長野県秋山郷、秋田県阿仁町から36名が参加して行われた。
  • 山の神・・・打当、比立内のマタギは「ヤマノカミ」、根子のマタギは「サンジンサマ」と呼ぶ。同じ阿仁でも読み方が違うということは、山の神の多様性、地域性を示唆しているように思う。 
  • 四国の猟師「ニタマチ伝説」・・・ニタとは獣が多く集まる湿地帯のことで、そこでニタマチしていると、まずミミズがでてくる。そこにカエルがやってきてミミズを食べる。今度は、蛇がやってきてカエルを丸呑みにする。今度は蛇が好物なイノシシがやってくる。猟師は、イノシシを撃とうとするが、はたと気付く。このイノシシを撃てば、今度は俺が食われる番ではないかと。
  • 「猟師、よい思案をしたな。次は貴様の番だぞよ」と、山の神の声が聞こえて撃つのをためらう。元々狩猟者の心理は、人間も「食物連鎖」の輪の中にいる不安、恐怖をもっている。
  • 女神が多い理由・・・山は、野生鳥獣、薪炭材、木の実・山菜・きのこ、鉱物、命の水の源など、多くの恵みを生み出す「母なる山」というイメージがある。それは、「山地母源力」とも呼ばれていることから、女神が圧倒的に多いのであろう。
  • 千葉徳爾の「狩猟伝承」によれば、山の神を女とみるのは奥羽地方と南九州に多く、男と見るのは、滋賀、鳥取、長崎、男女両神とみるのは、近畿地方、特に鈴鹿山地に多い。
  • 杣子の山の神祭り・・・山での仕事は常に危険がつきまとう。木の伐採は、山の神が支配する領域で行うので、山の神に伐採の許可を得るとともに、作業の安全を祈願するために山の神を祀るわけである。その場所は、小屋の上流、山の神が宿る古木や岩に信仰の場を定めている。山の神を祀る場所には、上の写真のように鳥居を建てる。
  • 山の神は、村と山の境にまつられている。神社には、産土型と勧請型がある。
  • 産土型神社・・・産土神とは、生まれた土地の守り神で、その土地以外の人は参拝しない神社。山村では、「山の神」を祀る神社、祠が圧倒的に多い。
  • 勧請型神社・・・本社から全国に「分霊」している神社で、八幡神社、稲荷神社、菅原神社、熊野神社等有名な神社を言う。
  • マタギ「山の神伝説」・・・12月12日の晩、身重の美しい女が7人の小玉流マタギの狩り小屋を訪れ、泊めてくれと頼んだが「女は泊められない」と断る。一方、6人の重野流マタギの小屋を訪ねると、「女は泊められないが、私らが明朝山を降りれば、山神様もお怒りにならないから」と泊めた。女はそこで12人の子を出産した。この女は、実は山神様で、断った小玉流マタギは7匹のネズミに姿を変えられ、小玉流はすたれたというもの。
  • 阿仁マタギは重野流で、狩りでは7人の数字を嫌う。山の神は一年に12人の子を産むとされ、非常に生殖能力の強い女神であることが分かる。またこの伝説にちなんで、山神様の祭りは12月12日で、12という数字は、マタギにとって縁起の良い数字と言われている。
  • マタギが信仰している山の神は、山の全てを支配している。だから、その怒りを受けないように細心の注意を払う。山の神は、マタギに獲物を授けるだけでなく、遭難を未然に防ぎ、難儀している時は救ってくれる。だからマタギは、山の神に守られていると信じ、山の神を心の拠り所としている。
  • 獲物は山の神様からの授かり物。その大切な神事が、阿仁ではケボカイ、小国ではカワキセと言う。シカリがはぎ取った皮を持つと、その魂は肉体を離れ、二度と元の体に戻ることができずに、山の神様のもとへ帰っていく。こうした山の神に対する「畏敬と感謝」が、自然と共生する精神の核心部だと思う。
  • マタギ勘定・・・授かった獲物は、猟に参加した人全員に平等に分配するという風習。これは今でも行われている。マタギのクマ狩りに同行した田口洋美先生は、マタギ勘定と呼ばれる分配法が実に細かいことに驚いている。さらに驚いたのは余所者の田口先生にも分配されたことであった。その時、シカリの鈴木松治さんは次のように言ったという。
     「マタギはすなっ、一緒に山さ入った者は皆平等なんだ。山神様はあんたを別け隔てはしねぇすがらな」・・・この徹底した平等主義こそ、縄文・蝦夷を基層とする狩猟文化らしいところである。
  • 熊鷹文学碑と縄文的感覚・・・羽後町五輪坂には、最後の鷹匠・武田宇一郎さんをモデルにした小説「熊鷹・青空の美しき狩人」の一文が刻まれた熊鷹文学碑が建立されている。
     「草も木も鳥も魚も/人もけものも虫けらも/もとは一つなり/みな地球の子」(藤原審爾)
  • この碑文は、鷹匠という生業を通して「人間と動植物を全く区別しない同じものと考える世界観」を高らかに歌っている。この世界観は、狩猟民共通の世界観で、そのルーツは当然のことながら縄文文化である。
  • 少子高齢化時代を迎え、特に秋田県は高齢化率全国一で、里地里山の荒廃が著しく、クマの異常出没をはじめ、ニホンジカやイノシシの目撃も年々増加している。こうした野生動物問題は、森の文化の危機に対する警鐘と受け止めるべきであろう。
  • 県自然保護課では、狩猟者の確保対策として2014年から「狩猟の魅力まるわかりフォーラム」を開催している。当初は、ニホンジカ・イノシシ対策として始めたものだが、2016年以降、クマ問題が深刻化し、狩猟者の確保はさらに急務になっている。
  • 「クマ問題を考える」(田口洋美、ヤマケイ新書)・・・「現在、東北地方にマタギは3千人程度存在するが、この中で高度な現場判断ができる猟師は500人程度に減少している。そのほとんどが65歳以上の人たち。だから、その伝統的な技術と知識を継承するにはギリギリの時代である。この人たちが元気な内に、若い新人ハンターが付いて学んでいけば10年ぐらいの経験で相当の知識と技術をものにすることも可能だ。ただし、現場を指揮するには、さらに10年を要する」
  • 秋田は全国マタギの本家。まずは農林業に携わる人自ら狩猟免許を取得し、自分たちの農地、里山、村を守ってもらいたい。その際、単なるハンターではなく、秋田の誇り「自然と共生してきたマタギ文化」も継承していただきたい。
参 考 文 献
  • 「マタギ-森と狩人の記録-」(田口洋美、慶友社)
  • 「マタギを追う旅-ブナ林の狩りと生活」(田口洋美、慶友社)
  • 「狩猟伝承」(千葉徳爾、法政大学出版局)
  • 「秋山記行 現代口語訳 信濃古典読み物叢書8」(鈴木牧之)
  • 「北越雪譜」(鈴木牧之、諏訪邦夫訳)
  • 「小国マタギ 共生の民俗知」(佐藤宏之、田口洋美ほか共著、農文協)
  • 「新潟県朝日村奥三面の生活誌 山に生かされた日々」
  • 「縄文人の心」(小林達雄、ちくま新書)
  • 「クマ問題を考える」(田口洋美著、ヤマケイ新書)
  • 「阿仁マタギ習俗の概要」(調査委員 湊正俊、丸谷仁美)
  • 「最後の狩人たち」(長田雅彦著、無明舎出版)
  • 「東北学VOL3 総特集 狩猟文化の系譜」(東北文化研究センター、作品社)
  • 「東北学VOL10 山の神はだれか」(東北文化研究センター、作品社)
  • 「東北学2016No08 森人のくに-猟場開拓のダイナミズム」(東北文化研究センター)
  • 「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫、農文協)
  • 「菅江真澄遊覧記」(内田武志、宮本常一編訳、平凡社)
  • 「山に生きる人びと」(宮本常一)
  • 「ブナ帯文化」(梅原猛ほか、新思索社)
  • 「会津の狩りの民俗」(石川純一郎、歴史春秋社)
  • 「近世猟師の越境と熊の奪い合い-「弘前藩庁御国日記」から」(村上一馬、東北芸工大東北文化研究センター「研究紀要」9)
  • 「白神山地ブナ帯地域における基層文化の生態史的研究」(研究代表者・掛屋誠・弘前大学人文学部教授、平成2年3月)
  • ちくま日本文学全集「柳田国男(遠野物語、山の人生ほか)」(筑摩書房)
  • 「縄文・蝦夷文化を探る 日本の深層」(梅原猛、集英社文庫)
  • 「東北日本の食-遠野物語と雑穀・飢饉-」(遠野物語研究所)
  • 「水木しげるの遠野物語」(小学館)
  • 「辺境を歩いた人々」(宮本常一、河出書房新社)
  • 「東北学/忘れられた東北」(赤坂憲雄、講談社学術文庫)
  • 「神社と日本人」(宝島社)
  • 「山の宗教」(五来重、角川ソフィア文庫)
  • 「日本の神々と仏」(青春出版社)
  • 「写真ものがたり 昭和の暮らし2 山村」(須藤功、農文協)
  • 「秋田くすり今昔物語」(秋田県立博物館)