「遠野物語」を歩く
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- 北上山地の最高峰・早池峰山を眺めて思い出すのは・・・2010年、誕生から百周年を迎えた「遠野物語」である(取材日:2012年6月30日~7月1日)。民俗学の創始者・柳田国男の「遠野物語」・・・その挑発的な序文には、
「思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるらん。
・・・国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」
- 写真:花巻市うすゆき山荘前から信仰の山・早池峰山(1,914m)を望む
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- 1908年(明治41年)、当時33歳の柳田国男は、二つの大きな体験をした。
- 一つは、宮崎県椎葉村での体験。椎葉村には、山地での農業や焼畑農業に興味を持ち訪ねたのだが、中瀬村長から聞かされた狩猟の方法や狩りに関する言葉、作法等に興味を抱き、明治42年、「後狩詞記」を自費出版した。
- 同年11月、22歳の若者・佐々木喜善に出会い、岩手県遠野地方の不思議な話に強く魅せられた。感動した柳田は、手帳に「その話をそのままかきとめて遠野物語をつくる」と記した。翌年8月、自ら遠野を訪れるほどの熱の入れようだった。柳田は、ここでも山人の存在に注目している。
- 遠野物語に登場する山人は、「古き純日本の思想を有する人民」ととらえ、大陸から新たにやってきた稲作民=平地人によって山間部へと追いやられた日本先住民の末裔であると考えた。大正6年「山人考」、大正15年「山の人生」といった山人研究へと進むきっかけとなった。
- 石井正巳著「遠野物語」(NHK出版出版)によれば、遠野物語の根底には、アイヌがあり、蝦夷があり、そして縄文人があって・・・文化の多重性への視点が明らかにあったと述べている。
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- 1910年(明治43年)、「遠野物語」を自費出版
- 「要するにこの書は現在の事実なり、単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず」と述べているとおり、過去の話ではなく現在の事実=「民俗の発見」を世間に発表したのである。
- 初版は350部限定の自費出版だったが、その評価はあまり良くなかった。そうした中で高く評価したのは、後に小説「河童」などを書く、当時18歳の芥川龍之介であった。泉鏡花は、柳田の筆力を大層褒めながらも、女性の叫び声などは山中ばかりでなく、都会でも聞こえると批判したという。
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| 遠野物語序文 |
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- 遠野紀行(写真:高清水展望台から遠野を望む)
花巻より十里余りの道のりには、町場が三ヶ所あるだけである。その他はただ青々とした山と原野ばかり。人の住む気配が少ないことは、北海道の石狩平野よりも甚だしいほどであった・・・遠野の城下町は、賑やかな町である。私は宿屋の主人に馬を借りて、一人で郊外の村々を巡った。
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- 石碑の群れ
猿ヶ石川の渓谷は土地が肥えてよく開墾されている。道端に石塔が多いことは、他の国でも類を見ないほどである。
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- 早池峰山(写真:早池峰山小田越登山口)
附馬牛の谷へ越えると、早池峰の山は淡く霞み、山の形は菅笠のようで、また片仮名の「へ」の字にも似ていた。この谷は稲が熟すのがさらに遅く、見渡す限り一面の青さである。
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- 菅原神社(附馬牛町)の獅子踊り
天神の山(上左写真:菅原神社参道)では祭りがあり、獅子踊(上右写真)が行われていた。ここだけは軽く土埃が立ち、赤い物が少しひらめいて、村全体の緑に映えていた。獅子踊というのは、鹿の舞のことである。鹿の角をつけた面を被り、子供たちが五、六人、刀を抜いてこれと共に舞うのである。笛の調子は高く、歌声は低くて、側にいても聞き取りにくいものであった。
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- 雨風祭りの藁人形
道の辻の草むらの中には、雨風祭りの藁人形があった。あたかも疲れ果てた人のように、仰向けに寝ていました。
百九話、お盆の頃には、「雨風祭」といって、藁で人間よりも大きな人形を作り、村境の道の分かれ道まで送りに行って立てる行事がある。人形には、紙で顔を描き、瓜で陰陽の形(男女の性器)を作って添えたりする。
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| 冷害飢饉と遠野物語 |
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- 宝暦・天明の飢饉と五百羅漢
- 高冷地の遠野は、宝暦5~6(1755~1756)年、天明2(1782)年などの大飢饉時に多くの餓死者が出た。遠野古事記によると、宝暦6(1756)年、領内の餓死者2千5百人、逃げ出して行方をくらます出奔者494人、死馬2千匹と記されている。
- 岩手県遠野市にある「五百羅漢」(上写真)は、苔生す山中の自然石に、500体もの羅漢像が線彫りで刻まれている。一帯を歩いていると、凶作で餓死した者の喘ぎ、苦しみ、叫び声が聞こえてくるような錯覚に陥る。大慈寺の義山和尚は、その魂を鎮めるために、500もの羅漢像を彫り、餓死者の霊を追悼、供養した。
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- 冷害の筆頭・岩手県北上盆地
- 凶作・飢饉常習地帯と言われた北東北の中でも、冷たい北東風「ヤマセ」によって冷害になる筆頭が岩手県北上盆地であった。その過酷な風土は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも記されている。
「日照りの時は 涙を流し
寒さの夏は オロオロ歩き」
- 平成5年の大凶作の年の作況指数は、青森「28」、岩手「30」、遠野「8」、宮城「37」、秋田「83」である。東北の太平洋側が著しく低い。特に遠野は壊滅的な低さである。
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- 遠野物語誕生百周年と東日本大震災
2010年、「遠野物語」が誕生して百周年を迎えた。しかし、その翌年の3月11日、東日本大震災が発生した。「遠野物語」は、この世とあの世の境界がはっきりしない。むしろ交錯しているような不思議な物語ばかりである。それはヤマセによる冷害飢饉常習地帯に加えて、大地震という過酷な風土から生まれた物語だからであろう。
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| 遠野物語 |
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- 遠野三山と三人姉妹の女神(第2話)
- 四方の山々の中で最も優れている山を早池峰(1,914m)という。・・・東の方には六角牛山(1,294m)がそびえている。石神山(1,038m)は附馬牛と達曽部との間にある。
- 大昔、女神は三人の娘を連れてこの高原にやって来た・・・末の妹が最も美しい早池峰の山を手に入れ、姉たちは六角牛と石神を手に入れることになった。若い三人の女神は、それぞれ三つの山に住み、今もそこを支配している。そのため、遠野の女たちは女神の嫉妬を恐れて、今もこの山には遊びに行かないという。
- 山の神様は女神で、その嫉妬を恐れて、女人禁制というのは、秋田マタギの信仰と同じである。
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- 遠野の語り部・新田乙蔵(第12話/写真:佐々木喜善の生家・土淵村山口集落を望む)
- 土淵村の山口という所に、新田乙蔵という老人がいる。村の人たちは乙爺と呼んでいる。今はもう九十歳近くになり、病気にかかって今にも死にそうな状態である。彼は長年、遠野郷の昔話をよく知っていて、死ぬ前に誰かに話して聞かせておきたいと口癖のように言っているが、あまりにも体臭がひどいため、近寄って話を聞こうとする人は誰もいません。
あちこちの屋敷の主人の伝記や、それぞれの家の盛衰、昔からこの里で歌われてきた歌の数々をはじめとして、深山の伝説や、さらにその奥に住む人々の物語などを、この老人は誰よりもよく知っているのである。
- 注:遠野物語は、岩手県遠野地方出身の佐々木喜善から聞いた地元の伝承や怪談を、柳田が筆記・編纂したとされている。その佐々木喜善の情報源が、実は遠野の語り部と言われる新田乙蔵だったと言われている。
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- 旧家に住む神「ザシキワラシ」(第17話)
- 旧家には、ザシキワラシという神様が住んでいる家が少なくない。この神様は、多くは十二、三歳くらいの子供の姿をしている。時々、人にその姿を見せることがある・・・この神様が住んでいる家は、思いのままにお金持ちになり栄えると言われている。
- 一般にザシキワラシは男の子だが、遠野では女子のザシキワラシも登場する。このザシキワラシも、飢饉との関係説がある。飢饉の際に生まれた子供は、育てることができず「口べらし」と称して間引きが行われた。当時は生まれたばかりの赤子は、霊的に未成熟で間引くことを神に返す行為とされた。7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じていた。だから、そんな子供は墓ではなく土間や台所に埋める風習があった。つまり、間引きされた子供がザシキワラシになったとする説である。
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- 「輪廻転生」の思想
死んであの世に還った魂が、この世に何度も生まれ変わってくる・・・人間は猿に生まれ変わる、熊に生まれ変わる、イワナに生まれ変わる、植物に生まれ変わる・・・とすれば、飢饉で犠牲になった子供がカッパやザシキワラシに生まれ変わったとしても、何ら不思議でない。
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- ザシキワラシがいなくなると滅亡(第18話)
山口の旧家・山口孫左衛門という家には、二人の女のザシキワラシがいると古くから言い伝えられていた。ある年、二人のザシキワラシが少し離れた村の某家に移ると・・・孫左衛門の家の主人と使用人あわせて二十数人が、茸の毒にあたって、たった一日のうちに死に絶えてしまった。
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- 遠野カッパ伝説(第55-59話/写真:カッパ淵)
遠野の猿ケ石川には、カッパが多く住んでいたという。土淵の常堅寺の裏にあるカッパ淵は、その支流の小川である。一般的にこうした小川は、農業用水路として利用され、そのほとんどは、コンクリートで整備されている。もしこの小川がコンクリートで整備されたら、カッパも住めなくなるだろう。「遠野物語」の効果は、こんな所にも絶大な威力を発揮していたことが分かる。
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- 第55話、河童の子を産んだ家
川には河童が多く住んでいる。特に猿ヶ石川には多いそうだ。松崎村の川沿いにある家で、二代続けて河童の子を孕んだ者がいる。生まれた子は、切り刻んで一升樽に入れ、土の中に埋めた。その姿は、極めて醜く気味が悪いものだったという。
その女性の婿の実家は、新張村の某という家で、ここも川沿いの家である。
ある日、その家の者が皆で畑仕事に行き、夕方に帰ろうとすると、その女が川の水際にうずくまって、ニコニコと笑っていた。次の日も、昼休みに同じことがあった。こうしたことが何日も重なるうちに、次第に「その女のところへ、村の誰それが夜な夜な通っている」という噂が立った。
最初は、婿が・・・留守の時だけを狙って来ていたが、後には婿と一緒に寝ている夜でさえ、やって来るようになった。相手は河童に違いないという評判がだんだん高くなったので、一族の者が集まって女を守ろうとしたが・・・
婿の母も行って、娘の隣に寝てみたが、深夜に娘の笑う声を聞き、「さては来ているな」と知りながらも、金縛りにあったように身動き一つ取れなかった・・・
生まれた子の手には、水掻きがあった。この娘の母親もまた、かつて河童の子を産んだことがあるという。二代や三代だけの因縁ではないと言う人もいる。この家も、道理にかなった豪家で、某という士族である。村会議員をしたこともあった。
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- 第56話、見世物にしようとした河童の子
上郷村の某という家でも、河童らしきものの子を産んだことがあった。確かな証拠というわけではないが、体中が真っ赤で、口が大きく、本当に嫌な感じの子供であった。
忌まわしいので捨ててしまおうと、これを連れて「道ちがえ」まで持って行き、そこに置いて約1.8mほど離れた。しかし、そこでふと思い直した。「惜しいことをした。売って見世物にすれば、金になるはずだ」
そう考えて引き返したが、早くも何者かに取り隠されてしまったのか、姿が見えなくなっていたという。
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- 第57話、河童の足跡
川岸の砂の上で、河童の足跡を見ることは、決して珍しいことではない。雨の日の翌日などは、特によく見かける。その形は、猿の足と同じように、親指が離れていて、人間の手の跡によく似ている。長さは約9cmにも満たない。指先の跡は、人間のものほどはっきりとは見えないという。
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- 第58話、馬に引きずられた河童
小烏瀬川の姥子淵のほとりに、「新屋の家」という家がある。ある日、淵へ馬を冷やしに行かせた時のこと。馬曳きの子供がよそへ遊びに行っている隙に、河童が出てきて、その馬を川へ引き込もうとした。ところが、かえって馬に引きずられて厩の前まで来てしまい、馬槽を被って隠れていた。
家の者が、馬槽が伏せてあるのを怪しんで少し開けて見てみると、河童の手が出てきた。村中の者が集まって、「殺そうか、ゆるそうか」と評議したが、結局、「今後は村中の馬に悪戯をしない」という固い約束をさせて、これを放してやった。その河童は、今は村を去って相沢の滝の淵に住んでいるという。
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- カッパの大好物は「きゅうり」
真っ赤な顔をした遠野カッパは、あちこちの川や堰、沼などに住んでいて村人や馬にいたずらをする。遠野のカッパ淵には、釣り竿の先にカッパの大好物「きゅうり」がぶら下がっていた。その由来は・・・瑞々しい「きゅうり」は、水神への最高のお供え物で、水難除けの願いを込めて、初物のきゅうりを川に流す風習があった。つまり河童は水神の化身でもあることから、河童の好物が「きゅうり」になったと言われている。
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- 太郎淵に住むカッパ
太郎淵に住むカッパは、洗濯する女性を下から覗き見する好色カッパとして有名とか。さらには、村の女性に子どもを産ませたりするカッパまで登場する。産まれた子の手には水かきがついていたという。この想像力の源泉はどこから来るのだろうか。
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- 間引きで亡くなった子どもが河童に生まれ変わった説
度重なる飢饉に襲われた江戸時代、子供を間引く話は当たり前の時代だった。残酷にも子供の頭に石を結び付けて川に沈めたという言い伝えもある。そんな幼子が河童になったという説がある。子どもの頃、川遊びで水死すれば、カッパに足を引っ張られたのでは・・・と言われた。カッパは「人を溺れさせ、肛門から手を入れて尻子玉を抜く」として水難の元凶とされた。
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- 姥捨伝説(第111話)
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺、および火渡、青笹の字中沢、ならびに土淵村の字土淵には、共通して「ダンノハナ」という地名がある。その近傍には、これと相対して必ず「蓮台野」という地名の場所がある。
昔は、六十歳を超えた老人は、すべてこの「蓮台野」へ追いやる習わしがあった。しかし、追放された老人も、ただ無駄に死んでしまうわけにもいかない。日中は里へ下りてきて農作業を手伝い、何とか食いつないでいた。
その名残で、今でも山口や土淵のあたりでは、朝に野良仕事に出ることを「ハカダチ(墓立ち)」と言い、夕方に野良から帰ることを「ハカアガリ(墓上がり)」と言う。
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- 姥捨て伝説の地・デンデラ野
- 柳田が「蓮台野」と表記しているが、遠野ではデンデラ野と呼んでいた。
- 遠野市山口地域に広がる丘陵地「デンデラ野」は、姥捨て伝説の地として知られている。デンデラ野に追いやられた老人は、姥捨て小屋で暮らしていた。生きてはいるものの「墓に入った故人=死人」と同じ。つまり、デンデラ野は墓場で死人の世界だったという。
- 姥捨ての風習は、凶作飢饉対策の一つ。江戸時代の百姓は、平年作でもギリギリの生活を強いられた。飢饉に陥った場合、共倒れを防ぐには、老人と子供を間引くしかなかったという貧しい現実があったのである。
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- ダンノハナ(共同墓地)から土淵村山口集落を望む
- 山口のダンノハナは、中世の館があった時代には、囚人を処刑する場所だったという。今は、村の共同墓地になっていたが、村を一望できる絶景の地であることに驚いた。
- ダンノハナとデンデラ野は、集落を間において向かい合う空間構造をもっていた。生の空間である集落と、老いの空間であるデンデラ野、死の空間であるダンノハナが人生儀礼の中で循環する構造をとっていると考えられている。
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- 佐々木喜善の墓
ダンノハナ(共同墓地)には、佐々木喜善の墓がある。碑銘は折口信夫が筆をとり、柳田が「遠野物語」の印税をあてて建てたという。
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- 山人・・・平地民・普通人=常民に対して、山に住み続けてきた人たちを山人と呼んだ。
- 第3話、山々の奥には山人住めり
栃内村和野の佐々木嘉兵衛という実在の人物が、猟をしに山の奥に行ったら、美しい背丈の高い色白の女がいて、その髪の毛は大変長かった。その髪の毛を記念に切り取って持ち帰ろうとしたら、まどろんでしまい、山の大きな男に取り返されてしまった。
- 第4話、山口村の吉兵衛という実在の人物が、山の中で幼子を背負った黒髪の長い、若い艶やかな女に遭遇した。
- 第5話、内陸部の遠野郷と海岸部の田ノ浜、吉里吉里との峠の山道を越える者たちが、近道の笛吹峠では山中で必ず山男山女に出逢うので、みんな怖ろしがって、迂回路を使うようになった。
- 第6話、里の長者の娘が山人にさらわれて、その男の妻となって子どもを産んだが、みんな夫が食い尽くしてしまう。自分はひとり、一生涯、この山の生活を送ろうと思う。危険だから早く帰れ、と顔見知りの猟師に語った。
- 第92話、土淵村の里の子供たち十四、五人が、早池峰山へ遊びに行った。思いがけず夕方近くなってしまったので、急いで山を下ると、背の高い男が、下の方から急ぎ足で登ってくるのに出会った。その男は肌の色が黒く、眼はきらきらと光っており、肩には麻かと思われる古い浅葱色の風呂敷で、小さな包みを背負っていた。子供の中の一人が、「どこへ行くのか」と聞けば、男は「小国さ行く」と答えた。しかし、この道は小国へ越えるような方角ではなかったので、立ち止まって不審に思っていると、もう姿が見えなくなってしまった。子供たちは「山男だ!」と口々に叫んで、みんな逃げ帰ったという。
- 柳田国男は、飛鳥時代の山岳修験者の役行者が、二人の侍者であった前鬼と後鬼にちなむ家筋や地名が吉野山中には多く残っていることなどを指摘し、そのような山岳修験の歴史の根本に、里人たちからは鬼と呼ばれた山人たちの存在があったと指摘している。山人たちのもっていた異様な身体的な体力、信仰的な験力への信仰が元々あったのであろうと指摘している。
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- 天狗
- 第29話、鶏頭山は、早池峰山の前面にそびえる険しい峰で、「前薬師」とも呼ばれている。ここには天狗が住んでいると言われており、早池峰山に登る人でも、決してこの山には足を踏み入れない。
- 第90話、天狗森には天狗が多くいるということは、昔から人々の知っていることである。その地名のとおり、天狗の話が語り継がれてきたことをよく示している。
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- 「仏教と民俗」(五來重)によれば、天狗は山に住む精霊、あるいは山の神で、怠惰なるものを戒め、豊作を予祝するために、その怪異な姿を現すものとされている。これが山の宗教者である山伏修験の徒とイメージが重なって、鞍馬天狗や愛宕の太郎坊などの天狗界の名士になった。
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- 第116話、ヤマハハ(山姥)
昔々、父と母は、娘を家に残して町へ行くことになり、「誰が来ても、決して戸を開けてはいけないよ」と戒め、鍵を掛けて出かけた。娘は恐ろしいので、一人で囲炉裏にあたって縮こまっていた。
すると真昼間に、ドンドンドンと戸を叩いて、「ここを開けろ」と呼ぶ者がいる。「開けないと、蹴破るぞ!」と脅すので、仕方なく戸を開けると、入ってきたのは「ヤマハハ(山姥)」だった。
ヤマハハは囲炉裏の横座にドカッと足を踏ん張って座り、火にあたりながら、「飯を炊いて食わせろ」と言った。娘はその言葉に従って膳の支度をし、ヤマハハに食べさせた。ヤマハハが夢中で食べている隙に、家から逃げ出した。
ヤマハハは飯を食い終わると、娘を追いかけてきた。その距離が縮まり、今にも背中に手が触れそうになった時、娘は山の陰で柴を刈っている翁に出会った。「私はヤマハハに追いかけられている。隠してください」と頼み、刈って積んであった柴の中に隠れた。ヤマハハがやって来て、「どこに隠れたか」と、柴の束をのけようとしたが、柴を抱えたまま山から滑り落ちてしまった。その隙に、娘はそこを逃れて・・・
ヤマハハは「どこへ行った、逃がすものか」とやって来たが、沼の水に娘の姿が映っているのを見て、すぐに沼の中へ飛び込んだ。この間に、娘は再びそこを走り出し、一つの笹小屋があるのを見つけた。中に入ってみると、若い女がいた。彼女にも事情を話し、そこにあった石の収納箱の中へ隠してもらったところへ、ヤマハハがまた飛び込んで来た。
娘のありかを聞いたが、女は「隠してなどいない、知らない」と答えた。「いいや、来ないはずはない。人くさい香りがするもの」とヤマハハが言うので、「それは今、雀をあぶって食べたからでしょう」とごまかすと、ヤマハハも納得して、「それなら少し寝よう。石の収納箱の中にしようか、木の収納箱の中が良いか」と言った。女が、「石は冷たいですよ、木の収納箱の中になさいませ」と言うと、ヤマハハは木の収納箱の中に入って寝た。
家の女は、すぐに収納箱に鍵を掛け、娘を石の収納箱から連れ出した。「私もヤマハハにさらわれて連れて来られた者です。一緒にこいつを殺して里へ帰りましょう」と言って、錐(キリ)を火で赤く焼いて、木の収納箱の中に差し通した。ヤマハハはそうとも知らず、「ただ、二十日鼠が来た」と寝言を言っていた。それから湯を煮立てて、焼いた錐で空けた穴から注ぎ込み、ついにそのヤマハハを殺して、二人は共にそれぞれの実家へ帰った。
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- 家の神「オクナイサマ」(第14-15話)
- 集落には必ず一軒の旧家があって、「オクナイサマ」という神様を祀っている・・・この神様の像は、桑の木を削って顔を描き、四角い布の真ん中に穴を空け、これを上から通して衣装としている。正月の十五日には、その地区の人々がこの家に集まってきて、この神様を祭る。
- 第十五話、オクナイサマを祀ると、幸運に恵まれるという。田植えを手伝った神様は、その影が見えなくなる。家に帰ってみると、縁側に小さな泥の足跡がたくさん残っていた。それはだんだんと座敷の中へ入っていき、オクナイサマの神棚のところで止まっていたのである。
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- 家の神「オシラサマ」(第69話)
昔、ある所に貧しい百姓がいた。美しい娘と一匹の馬を飼っていた。娘はこの馬を愛し、夜になると厩に行って寝るようになり、ついには馬と夫婦になってしまった。
それを知った父は娘には知らせずに、馬を連れ出して桑の木に吊り下げて殺してしまった。その夜、娘は馬がいないので父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しんで桑の木の下へ行き、死んだ馬の首にすがりついて泣いた。父はこれを見て憎らしく思い、斧を持って後ろから馬の首を切り落とした。すると、たちまち娘はその首に乗ったまま、天に昇り去ってしまった。
「オシラサマ」というのは、この時から生まれた神様である。馬を吊り下げた桑の枝で、その神様の像を作る。
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- 南部藩は、日本有数の馬産地(荒川高原)
甲斐の国・南部氏は、もともと馬を扱う民であった。岩手に移封されても南部駒として有名な日本有数のブランドを育て上げた。
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- 南部曲がり屋とオシラサマ伝説
南部曲がり屋は、住居と馬小屋を直角に組み合わせたL字型の茅葺民家である。馬と人が一つ屋根の下に住んでいた・・・それが、娘と馬が交接してしまう想像力を生んだものであろう。
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- オシラサマ信仰とオシラ遊び
オシラサマは、30cmほどの桑の木を削って男女や馬などの顔を描き、布を着せ神様として祀る。養蚕の守り神や家、火、目、狩り、子供、女の病治癒の守り神として信仰されている。オシラサマには毎年新しい布が着せられるが、これをオセンタクと呼ぶ。オシラサマは、年に一度は遊んであげないと祟りがあるので、女性だけで「オシラ遊び」をする。家の神を祀る行為は、女性の特権であった。
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- ゴンゲサマ(権現様/第110話)
「ゴンゲサマ(権現様)」というのは、神楽舞の組ごとに一つずつ備わっている木彫りの像のことで、獅子頭とよく似ているが、少し異なっている。この像は、甚だしい御利益がある・・・ゴンゲサマの霊験は、特に「火伏(火災除け)」にある・・・また、子供で頭の病気を患っている者などは、よくゴンゲサマにお願いをして、その病の頭を噛んでもらうことがある。
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- マヨイガ(迷い家/第63話)
小国の三浦某といえば、村一番のお金持ちである。今から二、三代前の主人の頃は、まだ家は貧しかった。この家の妻がフキ採りに出かけ、だんだんと谷の奥深くまで登っていった。
さて、ふと見ると、立派な黒い門の家があった。大きな庭には紅白の花が一面に咲き、鶏がたくさん遊んでいた。その庭を裏の方へ回ってみると、牛小屋があって牛がたくさんおり、馬小屋には馬がたくさんいたが、人の姿は全くない。
玄関から上がってみると、朱塗りや黒塗りの膳や椀がたくさん取り出してあった。奥の座敷には火鉢があって、鉄瓶のお湯が沸いているのが見えた。それでもやはり人影はないので、「もしや山男の家ではないか」と急に恐ろしくなり、駆け出して家に逃げ帰った。
このことを人に話しても、信じる人はいません。ある日、自分の家の「カド」に出て物を洗っていると、川上から赤い椀が一つ流れてきた。あまりに美しいので拾い上げ、これを食器に使ったら「汚い」と人に叱られるのではないかと思い、「ケセネギツ」の中に置いて、穀物を量る器として使った。この器で量り始めてからというもの、いつまで経っても穀物が尽きない。家族もこれを怪しんで女に問い詰めた時、初めて川から拾ったことを話した。この家はこれより幸運に恵まれ、ついに現在の三浦家となった。
- 遠野では、山中の不思議な家のことを「マヨイガ」と言う。マヨイガに行き当たった者は、必ずその家の中の道具や家畜など、何でもいいから持ち出してくるべきだと言われている。その人に福を授けるために、このような家を見せるのである。あの女が無欲で、何も盗んでこなかったからこそ、この椀が自ら流れてきたのだろう、と言われている。
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- 神隠し(第7-8話)
上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山へ入ったまま帰って来ない。たそがれに、女や子供が突然神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸の娘は梨の木の下に草履を脱ぎ捨てたまま行方知れずになってしまった。
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- 神隠しの危険な時間帯
たそがれ時は、人間が活動する昼と魔物が活動を開始する夜との境目で、神隠しの最も危険な時間帯であった。ちなみに、クマが活発に活動する時間帯も「たそがれ時」である。今でも、タケノコ採りやゼンマイ採りなどで山に入り、行方不明になっている人も少なくない。そんな時、「神隠しにあったのでねぇがぁ」と言う。
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- 蝦夷直系の在地豪族・安倍貞任
- 第65話、安倍貞任の母
早池峰山は、全体が御影石でできた山である。この山の、小国の集落に面した側に、「安倍ヶ城」と呼ばれる大岩がある・・・ここには今でも、昔の武将・安倍貞任の母が住んでいると言い伝えられている。
- 第67話、貞任高原の伝説
安倍貞任に関する伝説は、このほかにも数多くある。土淵村と、昔は橋野といった栗橋村との境あたりで、山口から二、三里も登った山の中に、広くて平らな原野がある。
そのあたりの地名に、「貞任」という場所がある。そこには沼があって、貞任が馬を冷やしたところだと言われている。また、貞任が陣屋を構えた跡だとも伝えられている。大変景色の良い場所で、ここからは東の海岸がよく見える。
- 参考①:安倍貞任とは・・・陸奥の奥六郡を支配していた安倍頼時の次男。1051年、勢力を拡大する安倍氏は、ついに朝廷と衝突、前九年の合戦(1051~1062年)が勃発する。安倍貞任率いる安倍軍の圧倒的な優勢が続いた。劣勢に立たされた源頼義は、出羽の大豪族・清原氏に援軍を求める。1062年、清原氏の参戦で戦況は一変、安倍貞任は厨川柵(盛岡市)で戦死。
- 参考②:安倍氏は、陸奥話記や中央の記録には、「東夷の酋長」「俘囚(服属したエミシ)」と書かれていることから、古代北東北の蝦夷直系の在地豪族(清原氏も同じ)とみられていた。
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- 第66話、安倍屋敷と八幡太郎の塚
同じ早池峰山の、附馬牛村からの登り口にもまた、「安倍屋敷」と呼ばれる巌窟がある。とにかく、早池峰山は、安倍貞任にゆかりの深い山なのである。
また、小国村から登る山口にも、八幡太郎(源義家)の家来が討ち死にしたのを埋めたという塚が、三つほどある。
- 注・・・八幡太郎(源義家)は、後三年の合戦で蝦夷の一族・清原氏を滅ぼしたが、目論見が外れて恩賞もなく撤退を余儀なくされた。1099年、藤原清衡が平泉を開府した。
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- 第68話、安倍貞任の末裔と地名の由来
土淵村には安倍氏という家があり、昔の武将・安倍貞任の末裔だと言われている。昔はたいそう栄えた家だった。今でも屋敷の周囲には堀があって水を引いている。刀剣や馬具も数多く残されている。当主は安倍与右衛門といい、今も村では二、三番目の資産家で、村会議員を務めている。
安倍氏の子孫はこのほかにも多くいる。盛岡の安倍館の近くにも住んでいる。そこはかつての厨川の柵に近い場所である。
土淵村の安倍家の屋敷から四、五町ほど北へ行った、小烏瀬川の川曲がりに、館の跡がある。「八幡沢の館」と呼ばれている。八幡太郎(源義家)が陣屋を置いたというのはここである。
ここから遠野の町へ向かう道沿いには、「八幡山」という山があり、その山の峰のうち、さきほどの八幡沢の館の方を向いている峰にも、もう一つの館跡がある。これが貞任の陣屋だったと言われている。
二つの館の間は二十町余り離れている。ここで矢戦をしたという言い伝えがあり、実際に矢尻がたくさん掘り出されたことがあった。
この二つの館の間に、似田貝という集落がある。戦があった当時、このあたりは蘆が茂っていて地盤が固まっておらず、地面がユキユキと揺れ動いていた。
ある時、八幡太郎がここを通った際に、敵か味方かどちらかの兵糧か、粥がたくさん置いてあるのを見て、「これは煮た粥か」と言ったことから、村の名前になったという。
似田貝村の外を流れる小川を鳴川という。この川を隔てて足洗川村がある。鳴川で義家が足を洗ったことから、この村の名前になったという。
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- 性器崇拝「コンセイサマ」(第16話)
コンセイサマ(金精様)という神様を祀っている家も少なくない。この神様の御神体は、オコマサマ(御駒様)とよく似ている。オコマサマの社は、里にたくさんある。石や木で「男の物(男性器)」の形を作って、神前に捧げるのである。
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- コンセイサマを祀る山崎の金勢神社
- 金勢神社の中には、昭和47年に発見された高さ1.5mもの大コンセイサマを祀っているという。男根を模した石棒や立石は縄文時代から存在し、祭祀に使用された。
- 性器崇拝は縄文の昔から連綿と続いてきたもので、石や木製の男根を祀った神社や祠が数多く存在した。明治に入ると、コンセイサマは野蛮かつ卑猥なものとして禁止令が出され、その多くは消滅した。それでも東北・関東では根強く残っている地域も少なくない。
- 恐らく、昭和47年に発見されたコンセイサマは、明治の頃に一旦処分撤去されたものだろう。それを拾って再度祀るというのは、「遠野物語」の力にほかならない。今でも子宝と婦人病にご利益があるという。
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- 続石と山の神(第91話)
- 続石は、大きな二つの石を台座に巨大な石が微妙なバランスで乗っている。見れば見るほど、あの東日本大震災でも落ちなかったのが不思議だ。その謎は・・・第91話によると、ここは山の神が遊ぶ場所であったという。
- 台石の上に横たわる長さ7mもの巨大「笠石」は南北を指し、その下の鳥居のような隙間は、太陽が昇るのを望むように東を指すという。だから原始時代の巨石文化遺跡ではないかと言われている。この東に位置する所に山の神の祠があり、安産の神として住民に信仰されている。
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- 山の神から授かる不思議な能力
第107話、早瀬川の河原で石を拾っていた若い娘が、背が高く顔の赤い見馴れぬ男から木の葉か何かをもらって、占いの術を得る。この異人の正体は山の神で、娘は山の神になったのだという。
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- 第108話、木挽きをしていた柏崎の孫太郎は心の病を抱えていたが、ある日山中で山の神から占いの術を得て、人の心を読んで何でも当てることができるようになり、死や火事を予言する不思議に能力を手に入れた。
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- 石神信仰
第98話、道の傍らに、山の神、田の神、塞の神の名を彫った石を立てるのは、よくあることである。また、早池峰山や六角牛山の名を刻んだ石塔は、遠野郷にもあるが、それよりも山を越えた沿岸地方に特に多く見られる。
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- 第99話、土淵村の助役を務めた北川清の弟である福二は、海岸の田の浜へ婿へ行ったが、明治24年(1891年)の大津波で妻と子供を失ったとある。つまり遠野から山を越えた沿岸地域に石の神が多いのは、ヤマセによる冷害に加えて、東日本大震災のような巨大地震と大津波という恐ろしい災害に度々見舞われるからであろう。
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- 石は神
「遠野には多くの石碑が建っている。・・・講をつくって、出羽や日光や伊勢や金毘羅に詣った神々の霊によって、この村を悪霊から守るという意味が石碑に込められているようである。それゆえ石碑は町の境に建てられているのである。
・・・石は神なのである。石を神とする考え方も、また石器時代、縄文時代から伝わるものである。ここにもまた、縄文の文化の名残があるのであろうか。」「縄文・蝦夷文化を探る 日本の深層」(梅原猛、集英社文庫)
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- 山口の水車小屋
水車小屋は形だけかなと思って近づくと、まだ現役で活躍していたのには驚かされた。清冽な水の勢いが素晴らしく、これが小水力エネルギーの元祖であることに納得。昔は、どこにでもあった水車小屋だが、今となっては絶滅危惧種である。こうした日本が捨てた宝物を大事に保存伝承しているのは、やはり「遠野物語」の力であろう。
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- 早池峰神社(花巻市大迫町)
早池峰神社の左手にある大迫郷土文化保存伝習館に入った。そこで昭和40年代に記録された「山伏神楽」の映像を拝見した。早池峰神楽は、早池峰山を霊場とする山伏によって代々舞い継がれてきたという。昭和の初めころまでは、農閑期に各地を巡業して歩いた。こうした通り神楽、廻り神楽と呼ばれた巡業は、戦後に途絶えたという。今では、神社の祭礼や年祝い、新築祝いなどに招かれたり、イベントで公演することが多い。
山間奥地の岳集落では、田畑を開くような場所はない。故に、若者は出稼ぎするしかなかった。驚いたのは、出稼ぎにいく若者が大きな太鼓を担いで行くシーンだった。都会のど真ん中・・・仕事の合間に早池峰神楽の練習を欠かさない。その姿に、500年以上の伝統の重さを感じた。
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- 早池峰神楽(ユネスコ無形文化遺産、岩手県花巻市)
- 岳集落の早池峰神社には、文禄4年(1599)と記された獅子頭があることから、500年以上の伝統を持つ非常に古い神楽であるといわれている。早池峰神社の開山は、1300年と伝えられているほど早池峰信仰の歴史が古く、修験山伏の影響を受けた祈祷の舞が神楽になったものと言われている。
- 岳地区は、早池峰山に最も近い集落で、早池峰の神を奉る早池峰神社があり、その門前として集落が開かれた。神楽は集落内の「六坊」によって伝承されている。
- 岳神楽は、早池峰神社の奉納神楽で、神楽幕には神社の名と、その神紋を左右に染めている。江戸時代には、盛岡南部家の祈願所であったため加護され、その家紋の向かい鶴が神紋として継承されている。
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- 遠野の早池峰神社(遠野市附馬牛町)
早池峰山への登山口は、東西南北にあり、それぞれの登山口に早池峰神社があるという。西の登山口が花巻市大迫町の早池峰神社、南の登山口が遠野市附馬牛町の早池峰神社である。しかし、遠野物語に出てくる早池峰神社は、現在の早池峰山登山口から遠すぎる感は否めない。さらに遠野の中心部からも、最も遠い北の最奥に位置している。「遠野物語」のお蔭で、かろうじて保存伝承されているのではないか。その苦労が伝わってくるほど、人跡稀な神社であった。
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- 「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし」と語っているように、秋田の農山村にも似たようなものが「無数」にあったはずである。しかし、近代化の中でその多くは捨てられてしまった。
- 遠野を歩いて感じることは・・・日本が捨てた宝物を、きちんと現地に保存伝承していることである。さらに地域の人たちが愛着を持ってそれを維持管理している点が素晴らしい。もし「遠野物語」がなかったとすれば、どこにでもある平凡な地域になっていたのではないか。
- 「遠野物語」誕生から百年・・・秋田には、さらに約200年前の事実を記録した「菅江真澄遊覧記」があるではないか。その「秋田・民俗の発見」の物語をもとに保存伝承していくことが、秋田の宝を活かす道であろう。
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| 参 考 文 献 |
- ちくま日本文学全集「柳田国男」(筑摩書房)
- 「100分de名著ブックス 柳田国男 遠野物語」石井正巳、(NHK出版出版)
- 「図説遠野物語の世界」(石井正巳、河出書房新社)
- 「縄文・蝦夷文化を探る 日本の深層」(梅原猛、集英社文庫)
- 「遠野物語と柳田國男」(新谷尚紀、吉川弘文館)
- 「仏教と民俗」(五来茂、角川ソフィア文庫)
- 「考える人」2012年冬号、新連載「柳田国男、今いずこ」(山折哲雄)
- 遠野物語の旅ガイド「とおのあるき」(岩手日報社)
- 「東北日本の食-遠野物語と雑穀・飢饉-」(遠野物語研究所)
- 「水木しげるの遠野物語」(小学館)
- 「岩手の伝説を歩く」(岩手日報社)
- 星空文庫「遠野物語: 現代語訳」
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