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▲清流「大又川」から取水している「鵜養(うやしない)かんがい用水路」

 農林水産省発行の「農村景観」では、秋田市河辺鵜養集落を次のように紹介している。
 
 「秋田県の中央にある鵜養地区。水と緑と土が生み出す空間は、まさに今に残る日本の原風景。集落を包み込むようにそびえ立つ山々。そこから走る多数の沢から注がれる鵜養の水。

 この水は、引き水として、堰から取水され、水田や畑を潤すだけでなく、収穫した農作物や農具、時には洗濯に利用され、農業用水に加え生活用水としても使われる、まさに「生命の水」として各家の敷地を血管のように走る。

 この集落を縦横にめぐる水路と茅葺きの住居、そして集落全体に広がる水田は、訪れる人に安らぎを与え、心和む景観を演出している。(秋田県秋田市河辺鵜養地区)」
▲鵜養周辺MAP
鵜養かんがい用水路舟作清流・大又川伏伸の滝鵜養集落散策
▲「舟作」の案内看板
▲緑の木立の中を流れる鵜養かんがい用水路 ▲鵜養用水路から放出された清冽な余水

 鵜養集落を過ぎて、大又川沿いの林道を走る。「伏伸の滝」を過ぎ、砂利道を300mほど走ると、左手に「舟作」の看板がある。まず目を引くのが用水路・・・清冽な水を満々とたたえて、ゆったり流れる水の美しさ。木漏れ日を浴びて、用水は淡い新緑を映す鏡となって流れている。

 ちょうど「舟作」の看板地点に余水吐がある。そこから清冽な余水が勢いよくほとばしり、清涼感は満点だ。その先に「舟作」と呼ばれる庭園のように美しい滝がある。
▲新緑と「舟作(ふなさく)」の滝

 大又川の広い流れが、ここで一気に圧縮され、狭い溝穴に吸い込まれるように落下している。まるで赤い岩盤を岩斧で削ったかのような不思議な自然の造形美。この狭い溝穴が舟の形をしていることから「舟作」と名付けられたという。

 案内看板には・・・江戸時代の紀行家・菅江真澄は、日記「勝手の雄弓」に、舟作を描いた図絵を残しており、湖であった昔、小鮒などを漁した場所で、フナ、雑魚といわれていた名が今に残ったものであろうと、記しているが、現在は、前述の由来が通説となっている。
▲新緑に染まった舟作下流の美景 ▲菅江真澄図絵「舟作」
▲大又川支流「苔生すブナの巨人」 ▲大又川支流・ミズナラの巨木
▲大又川支流朝日又沢「苔生す清流滝」
▲美しき森と水の恵み・・・斜面から湧き出す名水はすこぶる美味い
▲清流・大又川上流 ▲大又川のイワナ

 清流の証・イワナが生息しているだけに透明度は抜群である。鵜養かんがい用水路は、この清流を田んぼや集落の生活用水として取水している。この「美しき森と水」が、美味しい「清流米」を育てるキーポイントになっている。
▲伏伸(ふのし)の滝・・・新緑と白い瀑布のコラボレーションが美しい

 「舟作」より300mほど下流に三段の伏伸の滝がある。昔は、下流から遡上したマスたちが、この淵に群れをなして集まった。そんな日、村人たちは、農作業で使う「もっこ」を仕掛けてマスをたくさん獲ったという。それがために、かつては、「もっこ滝」と呼ばれていた。
▲菅江真澄図絵「伏伸の滝」 ▲伏伸の滝下流を望む

 右の写真のとおり、左岸沿いに殿渕から伏伸の滝まで遊歩道がある。この遊歩道は、清冽な飛沫を浴びて苔生し、自然と一体化している・・・だから美しい。
▲「舟作」上流部の堰で取水された水は、集落内を走り、田んぼ、各家の敷地へと分水されている
▲1811年、菅江真澄が描いた「鵜養村」

菅江真澄と鵜養

 1811年8月、真澄は、黒沢の勝手明神を拝した後、岩見村、三内村を巡って岨谷峡(そやきょう)、鵜養、殿渕、伏伸の滝、舟作など、美しい図絵とともに解説文を記している。「鵜養村」の図絵説明文には・・・

 鵜養村は昔は湖水であったとのことである。その頃一つの小嶋に薬師仏を祭る堂があり、そこに詣でる人は、こちらの岸から賽銭を投げたことから、銭投げ堂という名がついている。この村には支村があり、松沢口、穴淵などである・・・中山という峠の上から見渡した風景である。
▲鵜養集落の美しさは、この清冽な水にある

 「鵜養(うやしない)」とは奇妙な名前である・・・鵜を飼っていたのだろうか。
▲2004年3月下旬撮影・・・雪シロの冷たい水が集落内を走る

地名の由来・・・「地名のはなし」(三浦鉄郎著、三光堂書店)によると・・・

 戸数22軒、北秋田郡根子の佐藤家が狩猟の途次この地を発見し、定住開拓した三百年の古い歴史をもつ。生業は、営林局の山仕事、薪炭作り、山菜採り、農業などで山林軌道は唯一の交通機関である。この谷盆地はかつては沼を形成していたといわれ、地名はこの沼で鵜を飼ったところに起因するという。
▲300年の歴史を物語る「もみの木」

 鵜養「佐藤家」のもみの木は、樹齢300年以上と推定され、佐藤家の先祖が、この地に移り住んだ当時に植えられたものだと言い伝えられている。しかし、「河辺町史」によると、佐藤家は南部八戸より移り住んだと記されている。

 「地名のはなし」に記されている阿仁マタギの里・根子移住説と異なっている。その真偽のほどはともかく、根子移住説が似合う山里である。
▲残り少なくなった茅葺き民家その1

 鵜養集落の代表的な萱葺き民家は、コの字型をした曲屋で、「両中門造り」の形式。これは、南秋田郡、秋田市、河辺郡、由利郡の一部に限られた珍しい伝統建築物である。
▲茅葺き民家その2

 この古民家もコの字型の「両中門造り」の形式。軒下に薪が整然と積まれている。家の周囲はよく手入れされた田畑が広がり、「ふるさと秋田の原風景」に心も和む。
▲集落内を流れる用水路 ▲新緑が美しい農家の庭

 鵜養集落は、岩見川上流部の最奥の村に位置している。冬の寒さと雪の多さは半端じゃない。それだけに盛春の山村は、水も緑も村も一層キラキラと輝いて見える。

 農家の庭は、いずれも歴史的なガーデニングで、先人の知恵と技が生きている。茅葺き屋根がトタン屋根に変わり、村の道は舗装され、水路がコンクリートに変わった。けれども、人の手が加わった暖かな風景、村を流れる清冽な流れは、実に新鮮に見える。この景観は、一朝一夕にできたものではない・・・だから美しい。
▲田植えされた田んぼに、美しき水が張られると田園空間の美はピークに達する

 ふるさとの原風景は、そこに人が住み、農業を営み続けることによって維持保全されている。大又川に設置された堰や数kmにわたる用水路は、村の共同で管理され、引き水は平等に分配される。何百年も続いた水系社会・・・それが秋田の農山村を形成してきたベースにあることを忘れてはならない。
 引き水の用水路は、コンクリート水路に変わったけれども、清冽な水しぶきを浴びて苔が生え、自然に同化している・・・「美しき森と水の山里」を象徴する景観は、この清冽な流れと共同で管理している水路がキーポイントになっている。
▲清流に白い花を咲かせたワサビ群落(大又川)
参 考 文 献
「地名のはなし」(三浦鉄郎著、三光堂書店)
「河辺町史」(河辺町)
「菅江真澄図絵集 秋田の風景」(田口昌樹編、無明舎出版)
農村景観」(農林水産省)
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