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森と水あきたTOP
 原始社会は、太陽や月、山、滝、湧水、巨岩・奇岩、巨木など、自然界のあらゆる事物に神が宿ると信じていた。また火山の噴火や地震、雷、洪水、旱魃、飢饉、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い自然を崇拝していた。

 中でも山は、古来より神が宿る山として今日まで崇め続けられてきた。人が亡くなると、その霊魂は村に近い山に上り、やがて祖霊となり、山の神になるとも考えられてきた。山は、神が宿る神域であるとする考え方は、日本人の自然観のベースとなっている。

 平安時代、その山の神域で修行し、祈祷などにおいて効験を現す行者、すなわち修験道へと発展していく。東北では、出羽三山、鳥海山、太平山、早池峰山などが修験の山の代表格であった。
▲神の山・鳥海山は、山伏ゆかりの霊山であった

 「昔から日本の名山は大てい信仰に関係があるが、鳥海も山頂に大物忌神(おおものいみのかみ)が祀ってあり・・・昔は多くの白衣の行者で賑わった山であった・・・鳥海山はこの地方の守護神だったのである。」(「日本百名山」深田久弥、新潮社文庫)
▲木境大物忌神社(由利本荘市矢島町)
▲鳥海山大物忌神社(山形県遊佐町) ▲森子大物忌神社(由利本荘市)

 鳥海山は、古くから火を噴く荒ぶる神「大物忌の神」として崇められ、鳥海山に登拝して修業する「鳥海修験道」が発達した。その鳥海修験衆徒の各登拝口や登拝道は、鳥海山の文化遺産を代表するものであり、平成21年7月23日、「鳥海山」は国の史跡に指定されている。
▲森吉避難小屋、森吉神社(1270m) ▲冠岩(山神様)

 森吉神社のご神体は、冠岩である。かつてこのお堂は、山伏修験が別当を勤め、冠岩で山伏の修行「胎内潜り」を行っていたという。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、森吉山に二回登り、この冠岩について次のように記している。

 「中岳のくぼんだところに、高さ七ヒロばかりのの塔の形をした天然の岩があった。石塔と呼んで人々は深く尊び・・・この石塔のもとに堂があり、石の薬師像をおいて、これを森吉大権現として崇め奉っている。・・・昔は麓に寺があったが、いまはただ森吉山竜淵寺という寺の名ばかりがわずかに残って、修験者の家で守り奉っている。」
▲羽黒山参道の杉並木(国の天然記念物)

 参道の延長は1.5km、石段は2446段、標高差は約300m、その両脇に樹齢300〜600年の老杉が586本立ち並ぶ。一の坂、二の坂、三の坂と上るにつれて巨樹の幹は太くなる。その圧倒的な存在感・・・杉の巨樹は、日本人の生活や文化に決定的な影響を与えてきたことが何となく分かるような気がする。
▲日本最大の萱葺き建物「羽黒山三神合祭殿」
 出羽三山は、月山、羽黒山、湯殿山の総称で、昔から修験道を中心とした山岳信仰のメッカである。

 修験者たちは、諸国の霊山を巡って修行し、験力を試すという山伏スタイルが出来上がっていった。江戸時代になると、移動が制限された結果、村里に定着し、加持祈祷をする「里山伏」へとかわっていった。農山村では、農業をしながら、無病息災や雨乞いなどの宗教活動とともに、山伏神楽とも呼ばれる番楽や獅子舞などの民俗芸能を霊山周辺の村々に伝授していった
▲月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山の流れをくむ元城獅子舞(羽後町)
▲山伏の法衣と法具(いでは文化記念館) ▲マタギの巻物「山達根本之巻」
鳥海マタギの巻物「山達根本之巻」(由利連合猟友会創立60周年記念誌より)

 マタギの精神的支柱になっていた巻物は、日光派の「山達根本之巻」と高野派の「山達由来之事」がある。日光派は天台宗、高野派は真言宗を代表し、山伏修験道との深い関係を物語っている
▲弘法大師が修業したといわれる洞窟(由利本荘市鳥海町百宅)

 マタギの里・百宅は、弘法大師にまつわる伝説が多い。821年、平安時代初期の名僧空海上人(弘法大師)は、湯殿山詣での後、この地を訪れ、「ゆうに百宅の人が住める所」と言ったことから、百宅の地名がおこったと伝えられている。また、大師が修業したという洞窟や衣干しの岩があり、高野台という地名も残っている。

 こうした伝説は、鳥海修験者によって広められたものであろう。ここにも山の神信仰をもつマタギと修験道の深い関係を垣間見ることができる。ちなみ旧鳥海町では、かつてマタギ集落であった百宅、直根など13の講中で本海獅子舞番楽(国重要無形文化財 平成23年3月9日指定)が伝承されている。
本海番楽(由利本荘市鳥海町)

 秋田県の中でも鳥海山麓一帯には、番楽、獅子舞が圧倒的に多い。1600年代、京都の修験者・本海行人が鳥海・矢島地域に居住し、本海番楽(獅子舞)を鳥海山麓一帯に広めたと言い伝えられている。本海番楽では、最初に必ず獅子舞を舞う。獅子舞と番楽は不離一体のものとして伝承されている。

 獅子は、舞うことによってはじめて大きな霊力を発揮する。修験者の獅子舞は、その強い霊力を借りて、さまざまな祈祷を行った。それは、信仰を具現化する宗教的な芸能であったことが伺える。特に鳥海山麓沿いに、今もなお生活と行事に密着して伝承されていることは、山伏系獅子舞の大きな特徴と言えるだろう。
▲信仰の山を象徴する石碑群(鳥海山七高山)

 日本人の自然観の根源をたどれば、自然崇拝・アニミズムに到達する。日本の修験道は、この日本人の自然観に基づいている。「修験道は・・・文化宗教のような顔を呈しているが、実質は原始性を最もよく残した自然宗教である。それで山野を跋渉しながら、山や石や木を拝むのである。」(「石の宗教」五来重、講談社学術文庫)
金峰神社境内(にかほ市象潟町小滝)

 金峰神社は、登拝道の起点である小滝口にある。小滝集落は、かつて修験者が数多く居住し、各地から来る道者たちを世話し、鳥海山へ導く宿坊集落であった。鳥海山大権現と蔵王権現を祀っていたが、明治の神仏分離令・修験禁止令により、金峰神社として再編された。

 金峰神社の真向いに奈曽の白滝があるが、その滝は神と下界との境界線と言われている。小滝村には、1200年の伝統をもつ延年チョウクライロ舞(国重要無形民俗文化財)や小滝番楽が伝承されている。

▽鳥海山の名の由来説
 延年チョウクライロ舞の「チョウクライロ」が「チョウカイ」に訛ったとする説がある。
マタギのふるさと根子番楽「鞍馬」(北秋田市阿仁、国重要無形民俗文化財)

 秋田を代表するマタギ文化は、狩りをする山は、神が支配する神聖な場所であり、獲物は山の神からの授かり物であると考える。その「マタギのふるさと」阿仁根子集落に伝わる根子番楽は、山伏神楽の流れをくみ、勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴である。

 番楽をやる人は、同時にマタギもやっていた。つまり、マタギと番楽は切っても切れない関係にあった。従って、根子番楽は、マタギの山神様のお祭りの時にやっていたのである。
鷹鳥屋獅子踊り(岩手県遠野市)

 岩手県を中心に周辺にも広がっている獅子踊りは、シカを意味しているという。それは、シカを狩りして食べなければ生きていけない人々が、その霊を弔い慰めるために始めた芸能であると言われている。

宮本常一「狩の祭」

 もともとクマもシカもイノシシも山民にとっては重要な食料であり、神からの賜り物であった。アイヌのクマに対する考え方は決して害獣でもなければ敵でもなかった。熊は山の神の姿であった。・・・その山神をまつるものとして熊祭があった。

 東北地方の山中を歩いていると、もとは小さな村でもよくシシ踊りがおこなわれていた。このシシは唐獅子ではなく鹿が多かった・・・シシは神格化せられていて、決して人間の敵ではなかった・・・唐獅子の系統もまたその初めは東北のように神々の遊びを象徴したものではなかったろうか・・・

 野獣の中に神格を認めたのは、野獣が人間に幸福をもたらす要素を多分に持っていたからであった。このようにして山中の民は狩りを行いつつもクマやシカやイノシシを決して害獣とは考えていない歴史をその初めにもっていた。そして、山を畏れ山を愛し山に生きたのであった。
杉沢比山番楽(山形県遊佐町、国重要無形民俗文化財)

 杉沢比山番楽は、鎌倉時代から続いていると言われる番楽で、杉沢熊野神社に奉納される。杉沢熊野神社は、もとは鳥海修験の重要地であった。修験者によって舞われていたものが、後に村人たちの手に受け継がれたものと言われている。芸術的な評価が高いという。
山谷番楽(秋田市太平)

 山谷番楽は、太平山信仰とも関わりがあり、修験衆徒らが奉じてきたといわれている。番楽の面そのものをご神体として祀る生面神社(いきめんじんじゃ)についた神事芸能といわれ、この面(秋田市指定有形文化財)はたいそう古く、鎌倉時代のものだという。
志戸橋番楽「恵比寿舞」(三種町)

 志戸橋番楽は天正年代(1573〜1592年)に、修験者阿部家三代目が修練のために上方に上り、山伏神楽を習得して帰り、檜山舞を始めたという記録があり、その番楽をこの地で伝えたとされる。そのため、演じ方や囃子などには共通点がみられるという。
鳥海山日立舞(にかほ市象潟町)

 鳥海山日立舞は、本海流番楽とは異なり、1640年、生駒氏が讃岐高松より矢島へ転封された際、随行の薬師が伝えたとされている。「日立」とは鳥海山の炎が信仰に結びついたといわれ、豊作祈願と感謝の行事として、お盆に奉納されてきた。
坂ノ下番楽(由利本荘市矢島町) 屋敷番楽(由利本荘市)

 坂ノ下番楽は、本海流の番楽。屋敷番楽(由利本荘市)は、天明の大飢饉に襲われ亡くなる人が続出した際、村人たちが荒沢に赴き、本海番楽を習得、五穀豊穣と悪疫退散を願ったのが始まりとされる。
仙道番楽(羽後町)

 一説によると、約400年前、鳥海山にこもった山伏行者が、雪が降る頃下山し、山麓の村々を疫病退散、悪魔払い、家内安全を祈って獅子舞を演じて回り、夜には、人々を集め、神楽舞を演じたものが村人に伝わったとされる。種目は、表六番、裏六番の十二幕。
山内番楽(五城目町)

 山内番楽は、五城目町の4集落に伝承され、根子番楽と同流であると伝えられている。山内村には、室町時代に金剛寺という修験寺があり、近くにある山内城の城主三浦氏の祝事の行事であったといわれている。江戸時代の紀行家・菅江真澄の紀行文にも、優れた芸能として紹介されている。
保呂羽山の霜月神楽(横手市、国重要無形民俗文化財)

 保呂羽山(438m)に建つ波宇志別(はうしわけ)神社の神事芸能。神に今年の収穫を感謝し、五穀豊穣、無病息災を祈る伊勢系統の湯立神楽で、霜月(11月)の7日夕刻から翌朝にかけて、八沢木・大友氏の神楽座で行われる。
大日堂舞楽(鹿角市、ユネスコ無形文化遺産)

 民俗文化の宝庫・秋田が誇る大日堂舞楽は、約1300年前から伝わる県内最古の舞楽である。718年、大日堂再建のため、都より遣わされた名僧・行基とともに下向した楽人によって舞われたのが起源と言われる。この舞楽に参加する能人は、大里、谷内、小豆沢、長嶺の4地区の氏子たちである。

 大日堂舞楽が奉納される大日霊貫神社の境内には、ご神木としてあがめられた「おじ杉」と「おば杉」の2本の巨木が立っていた。伝説では14世紀に植えられた杉といわれる。おじ杉は数百年前に枯死したもののおば杉は1666年と昭和24年の社殿の火災の際にも焼け残った。しかし、木の傷みが激しく、昭和41年に切り落とされた。
参 考 文 献
「山伏入門」(宮城泰年監修、淡交社)
「東北学第12号 特集 獅子舞とシシ踊り」(東北文化研究センター)
「ブナの森と生きる」(北村昌美著、PHP選書)
「日本百名山」(深田久弥、新潮社文庫)
「石の宗教」(五来重、講談社学術文庫)
「由利連合猟友会創立60周年記念誌」(平成23年3月、由利連合猟友会)
「山の道」(宮本常一著、八坂書房)
「国重要無形民俗文化財 本海獅子舞番楽」(由利本荘市)
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