森の学校2025講座 「ブナ帯の森と世界遺産『縄文遺跡群』」
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2026年1月24日(土)、森の学校2025講座「ブナ帯の森と世界遺産『縄文遺跡群』」が秋田県森林学習交流館・プラザクリプトンを会場に開催された。参加者は41名。講師の吉川耕太郎さんは、埋蔵文化財のスペシャリストだけに、1時間半でも全く足りないほど盛りだくさんのスライドを準備し、話の内容もこれ以上ないほど詳細に説明していただいた。ブナ帯に代表される北東北地方の豊かな自然の中で、1万年以上にもわたって続いた縄文文化のキーポイントの一つが、森の学校2022「元気ムラの旅シリーズ8 東成瀬村椿台探訪」で学んだ「大型磨製石斧」で、しかも「国宝級」の価値があるとの評価には、驚かされた。吉川さんの解説を聞くに従い、ブナ帯の森の中で生活していた縄文人にとって、木を伐るための道具「緑色の磨製石斧」がいかに重要な道具であったかを改めて知ることができた。その詳細は下記に記しているので、参加者は復習として、参加できなかった方、特に林業者の方にもじっくりご覧いただければ幸いである。
- 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン
- 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
- 協力/秋田県森の案内人協議会
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- 講師・・・秋田県教育庁生涯学習課文化財保護室埋蔵文化財・世界文化遺産チーム チームリーダー 吉川 耕太郎(よしかわ こうたろう)さん
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- 人類の誕生と拡散
アフリカで、チンパンジーと人類が枝分かれしたのが700万年前。類人猿から原人、今から250万年前に人類は初めて石器を道具として使い始める。これ以降、人間は道具に依存する生き物へと進化。今から20万~30万年前に私たちの直接の祖先である新人・ホモサピエンスが誕生する。人類の歴史を1年間に例えると、わずか3分前から縄文時代が始まって今日に至るほどごくわずかに過ぎない。
そして5万年前にアフリカから世界中に広がっていく。陸続きじゃないオーストラリアには、舟を使ってすぐに到達している。シベリアとアメリカ大陸は、1万4千年前、氷河期で海水面が低下し、陸続きとなっていたベーリング海を渡って北米大陸へ到達。その後、短期間で南米大陸の南端まで達した。
- 日本には・・・大陸から渡ってきたのが3万7千年前である。秋田県で一番古い旧石器時代は、御所野イオンの裏にある「地蔵田遺跡 弥生っこ村」の下に眠っている遺跡で3万5千年前である。いずれも舟で渡ってきたと考えられている。
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- 縄文時代は、諸説あるが、寒冷な時代から温暖化へと変化する1万5,000年前から2,300年前までの1万2,700年の長きにわたり続いたとしている。
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- 旧石器時代
今よりもずっと寒い時代で、秋田県はシベリアのような環境だった。氷期になると海水面が下がる。2万5~7千年前、一番寒かった時代は、年間平均気温が7度ほど低く、海水面が140mほど下がる。北海道がサハリンと陸続で、日本海は大きな湖みたいな状態。だから日本海には暖かい対馬暖流が入って来ないので、雪雲が発生せず、秋田には雪がほとんど降らずに、大陸の寒気が直接入ってくる寒い時代だったと考えられている。そんな旧石器時代は、大陸から渡ってくるナウマンゾウやバイソンといった大型動物をハンティングして暮らしていた。
- 石器がつくられる以前の人類は、肉食獣に狩られる側で、食物連鎖の底辺に位置していた。250万年前に石器をつくり、どんどん便利な道具を開発して、一気に食物連鎖の頂点に駆け上がっていった。
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- 十和田火山の大噴火と縄文時代の始まり
15,000年前には、現在の十和田カルデラの原形を作った巨大噴火が起きた。この噴火では、青森、秋田、岩手の広い範囲を高温の火砕流が襲い、一帯は見わたすかぎり土砂で埋まり、荒野になったと考えられている。同時期、気候も寒冷化した中で、世界でも最古級の土器が青森県大平山元Ⅰ遺跡が発見される。これが縄文時代の始まりである。
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- 縄文時代の気候変動
約1万年前に気候が安定化し、定住化で大きな村ができる。約5千年前になると気温が今よりも高くなってくる。三内丸山遺跡のような大きな村ができる。海水面は今よりも5mほど高くなる。これを「縄文海進」と呼んでいる。約4千年前から寒くなっていくと、大きな村から分かれて、数家族で村をつくるような「分散居住型」になる。縄文人は、気候が変わるとライフスタイルを変えていく。寒冷化すると生活がし難くなるので、儀式が増え、祭祀場=環状列石ができる。同時期、イギリスのストーンヘンジもできる。
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- 縄文時代と冷温帯落葉広葉樹林(=ブナ帯の森)
- 9千年前頃(早期前半)・・・東北の平地は、ブナやナラなどの冷温帯落葉広葉樹林(=ブナ帯の森)が広がっていた。
参考:寒冷な時代から温暖化へと変化するにつれて海面が上昇し、日本海に暖かい対馬暖流が北上してくる。中国大陸からは、非常に乾いた大気が西から東へと流れてくる。その時、対馬暖流から湿気を吸収して、脊梁山脈にぶつかることによって日本海側に多くの雪をもたらした。これが、冷温帯の落葉広葉樹林=ブナ帯の森を、世界の中でいち早く成立したのである。
- 6千年前頃(前期)・・・さらに暖かくなると、暖温帯落葉広葉樹が北へと広がるが、北緯40度以北では冷温帯落葉広葉樹林(=ブナ帯の森)が残り、北海道へと拡大している。
- 3千年前頃(晩期)・・・温暖化が一転、寒冷化してくると、東北のほとんどは冷温帯落葉広葉樹林(=ブナ帯の森)に覆われる。
- 縄文時代早期前半から晩期に至るまで、気候の変化と森の変遷を考察すれば、北の縄文人は「ブナ帯の森」の恵みに支えられていたことが分かる。
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- 縄文時代の遺跡数の変動
気温が上昇するとともに遺跡の数が増え、寒冷化すると減少する。特に長野は急減する。それに対して、秋田の遺跡(赤の太線)は、寒冷化しても横ばいで減ってはいない。意外に気候変動に強いことが伺える。今後、その理由を考える必要がある。 - 縄文時代の人口推計
東日本で約30万人、西日本では約3万人と少ない。西日本の照葉樹林より、東日本のブナ帯の森の方が生活しやすかったと推測できる。
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- 秋田県の遺跡地図情報の留意点
県内の遺跡地図情報には、恵み豊かなブナ帯の代表である白神山地には、遺跡が発見されていない空白域となっている。それは何故か・・・白神山地は、世界自然遺産になるほど開発されていないので、遺跡発掘調査がほとんど行われていないからである。高速道路とか新幹線沿いに遺跡が多いのは、開発に伴って、それだけ多くの遺跡発掘調査を行っているからである。そこが遺跡地図を見る際に注意が必要な点である。
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- 縄文人は何を食べていたか、「縄文カレンダー」
春は山菜、夏は魚、秋は木の実、冬は狩りをしていた。今でも春になると、ウキウキしながら山菜採りに出かけるのは、縄文の遺伝子があるからだろう。縄文人は狩猟のイメージが強いが、肉よりも安定的に採れる山菜や保存もできる木の実などが食料源として重要だったと考えられる。
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- 縄文時代から利用していたニワトコ酒
三内丸山遺跡からたくさん出土するニワトコの種子の中に、キイチゴ、サルナシ、ヤマグワ、マタタビ、ヤマブドウなどが含まれていた。それを発酵させて果実酒をつくっていたと推測されている。お酒を入れたような急須型の土器も見つかっている。
- 縄文クッキー・・・木の実などを混ぜて一緒に焼いた縄文クッキーも食べていた。
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- 虫歯もある
歯そうのうろうや虫歯は、木の実などのデンプン質のものを多く食べていたからと考えられている。虫歯になるほど、縄文人の食べ物として木の実が重要だったことが伺える。北海道では、虫歯の痕跡が見つかっていないので、食生活が東北とは違っていたのかもしれない。
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- トチの実のアクを抜く水場遺構
水場遺構からトチの実が見つかった。トチの実のアク抜きは、現在でも別格に難しく、アク抜きの工程が多い。その一つが、トチの実を水にさらしながらアクをとる水場遺構である。気候が寒くなる縄文時代晩期に広がった。湯沢市、由利本荘市、能代市で見つかっている。
- 参考:能代市、柏子所(かしこどころ)Ⅱ遺跡(縄文時代後期)
アク抜きに利用された「水さらし場遺構」は、地表下1~ 1.5 mの地点で検出された。この遺構は、台地の斜面から湧出する水が集まった谷底の水流を利用したと考えられる。遺構内や隣接する部分から細かく割れたトチの種皮が多く出土していることから、トチのアク抜きを行っていた場所と推定されている。
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- トチの実を保存するためのフラスコ状土坑
断面が理科の実験で使う三角フラスコ容器に似ていることから「フラスコ状土坑」と呼ばれている。地中の中は温度が一定で、天然の冷蔵庫と考えられている。
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- 縄文人の一日
午前中は狩りや木の実などの採集、午後は道具のメンテナンスや昼寝、夜は長老のお話を聞いて眠るといった生活をしていたと考えられている。今は1日8時間の労働をしているが、縄文人は1週間で8時間も働けば大丈夫と言われている。どちらが豊かなのか?・・・私見だが、食べ物や料理器具、調理用の燃料に至るまで全てお金で買う現代人より、自分で狩猟漁労採集し、焚火を囲みながら自分たちで作った土器で料理し、食べる方が満足度、幸福感は格段に高いと思う。
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- 縄文土器の発明
縄文土器は、デザインが派手なのが特徴で、しかも実用品で、かつ世界最古級(約1万6千~1万5千年前)である。土器の発明で、スープをつくるなど豊かな食生活を実現することができた。煮ることで硬いものを柔らかくすることができる。だから内臓に負担がかからなくなる。ある学者は、土器を「内臓」に対して「外臓」と表現する人もいる。煮沸による衛生面も向上するし、貯蔵容器としても活躍した。土器の中に木の実を保存しておくと、虫が湧くが、その虫も重要な食料になったのではないかと言っている人もいる。
- 縄文人は、1万3千年もの間、土器を作り続けるが、どんどん質が向上し、芸術性も豊かになってくる。
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- 縄文土器の作り方
粘土を採取し、それを紐状に積み上げていく「輪積み」という方法で成形し、最後に野焼きで焼き上げる。ある考古学者は、人類最初の化学製品と呼んでいる。
また火で破損しないように、粘土に3割ほど砂を入れたりしている。砂を入れると粘りがなくなるので、植物繊維や動物の毛などを混ぜるなど様々な工夫をして土器をつくっている。
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- 男鹿市鵜ノ崎大畑台遺跡
黒曜石の粒入り縄文土器は、キラキラと光る。縄文人は見栄えも意識して土器をつくっていた。新潟県の土器もキラキラしているものがあるが、これは秋田から来たものだと言われている。
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- 北海道館崎遺跡の土器
何とコクゾウムシ約500匹が練り込まれる土器が発見されている。何かお祈りのメッセージを込めたような呪術性を感じる土器である。縄文人の土器づくりは、実用性だけではなく、そこに祈りとか、縄文独特の世界観が込められている。それが何なのかは分からないが、少なくとも我々の物づくりとは違う価値観をもっている。自然に対する見方、自然との接し方、そうしたものがあったのではないか、といったことを考えていくのが大切なことではないか。 - 世界最古級の土器片/青森県大平山本Ⅰ遺跡
何の価値もなさそうな土器片だが、ここに付いていた「おこげ」(煮炊き残渣)を放射性炭素年代測定にかけることで世界最古級の土器であることが分かった。何気ない土器の欠片でも、世界の歴史を覆す非常に重要な情報を持っていることがあるので、発掘の際は注意が必要である。
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- 東北の縄文人に特徴的な石槍
この大きな石槍は、大形動物のクマ猟に使われていたと考えられている。関東以南は弓矢だけだが、東北の縄文人は槍と弓矢の両方を用いて狩りをしていた。まさにマタギの世界と通じるものがある。
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- 地域よって土器のデザインが違う
- 円筒下層式土器(前~中期)・・・北緯40度以北の県北から北海道南部に分布。土器の全面に縄目模様がある。この土器は、縄目模様が一番多く、いろんな模様があるのが特徴。
- 大木式土器・・・北緯40度以南の県南から福島県に分布。唐草模様があって、円筒下層式土器とは全く違うデザイン。
- 円筒土器から大木式土器へ・・・気候が暖かった時代から、約4千年前から寒くなると、円筒土器が北海道へ移動し、大木式土器が北に進出してくる。一般的に寒くなると、北の文化が南へと広がると考えるが、その逆になっている理由は分かっていない。
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- 八郎潟町沢田遺跡の土器
ちょっと変わったデザインだが、これは新潟県のデザイン。縄文時代は、秋田と新潟は深い関係にあった。特に男鹿市、秋田市、能代市など沿岸部に多い。この模様は、神話を表現しているのではないかなど諸説あるが、今のところ定説はない。 - 岩手県馬立Ⅱ遺跡の土器
女性と男性の間にクマ、弓矢、落とし穴などの文様があり、何か縄文人の世界観を表しているのではないか。こうした文様は、北東北でしか見つかっていない。北東北に位置する北秋田市深渡遺跡でも似ている文様の土器が見つかっている。
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- 寒冷化すると色々な土器が出てくる
恐らく儀式に使われたのであろう。北秋田市漆下遺跡では、朱色の漆塗りの土器など漆を多用していた。北海道の9千年前の漆塗り土器は世界最古。
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- 動物型土製品
水鳥や、喉に一文字の縄文=月の輪のあるクマ、イノシシ、猿などが多く作られている。動物は、単なる狩猟の対象だけでなく、マタギのケボケの儀式のような縄文人の精神文化があるだろうと推測される。
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- 能代市・柏子所貝塚
貝塚で県内初の縄文人骨が出土している。その人骨の腕にはまっていたのが貝輪で、腕輪として利用されていたことが分かる。この腕輪は、激しい労働をすれば壊れるので、そうした労働から解放された人ではないか。また埋葬された遺体の頭部にベンガラが塗られていたり、成人男性の抜歯、装身具、新生児にサルボウの腕輪があったりする。これは生まれながらに地位を約束された家系ではないか。つまり縄文の社会は、単純な平等社会ではなく、階層化していた可能性を示していると考えられている。
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- 土偶
粘土で作った素焼きの人形を土偶と言う。そのほとんどが女性を象ったもので、豊かな乳房がある。秋田市坂ノ上E遺跡の土偶は、バルタン星人のような顔をしているが、胸には乳房があり、お腹も膨らんでいる。よく安産祈願ではないかと言われるが、こんな怒っているような顔で安産祈願はないのではないか。特殊な意味合いがあったのではないか。
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- 国宝:縄文の女神(縄文中期/山形県西ノ前遺跡)
デザイン的に洗練された土偶である。乳房があってお腹も出ていて、お尻も出ている。やはり女性像を象っている。
- 能代市杉沢台遺跡の土偶
お墓に副葬されていた土偶で、後頭部に穴が開けられている。亡くなった遺体を損壊するという儀礼行為が、もしかしたらあったのではないかと言われている。他には首なし土偶というのもある。
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- 土偶って何?
寒くなるような時代に土偶が多くなる。中でも東北地方が群を抜いて数が多い。その土偶のほとんどは女性だが、マタギの山の神様も女性であるように、何か精霊のようなものを表現しているのかもしれない。 - 縄文時代晩期の土面(麻生遺跡)・・・祭祀用にシャーマンみたいな人がつけるマスクではないかと考えられている。
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| 木を伐る「緑色の磨製石斧」、儀礼用に巨大化した「大型磨製石斧」 |
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- 東成瀬村上掵(うわはば)遺跡出土の大型磨製石斧
世界最大級の磨製石斧(ませいせきふ)で、今、国重要文化財に指定されているが、国宝になってほしいと思うほど大変貴重なものである。一番大きいもので長さが60cm、4.4kg。本来磨製石斧は、木を伐るための道具だが、ずば抜けて大きい。何かの儀式に使われたものであろう。6千年前、村の端っこに4本並べて埋土された状態で見つかった。刃先が集落の中心に向けられていた。その磨製石斧の石材は、400キロも離れた北海道の日高山脈でしか採れないアトラス石と鑑定された。北海道日高原産の磨製石斧は、北東北から北海道にかけて、広く分布している。
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- 大仙市上ノ山遺跡では、破損した大量の磨製石斧(普通サイズ)のうち半分以上がアトラス石だった。遠い北海道日高から持ってきたにもかかわらず、普通に木を伐るための道具として消費されている。意外に安定的に供給されていたから、惜しみなく使われているのであろう。縄文時代の交易の広さを物語るだけでなく、遠くからでも安定的に道具を供給する仕組みが出来上がっていたのではないか。
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- ロングハウスと磨製石斧
赤い部分がロングハウスで、長さが10mから30mぐらいと非常に大きい。北日本に特徴的に見つかるもので、真ん中の広場を中心に放射状に並ぶ環状集落。このロングハウスをつくるには、大量に木を伐採しなければならない。こういう所で磨製石斧が大量に使われたから、あれだけ大量の破損石斧が見つかった。ロングハウスは、共同住居説や公共施設、儀礼場説、鮭の燻製場説、あるいは長屋のように使っていたのかもしれない。これを復元したものが、三内丸山遺跡(上右写真)にもある。
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- 縄文人が最も好んだ木は「クリ」
その理由は・・・クリの木は、石斧で伐採するのが容易で、乾燥すると硬くなるので建築材として有用で、しかも成長が早い。さらに木の実は食用に最適だからである。
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- 三内丸山遺跡、花粉のDNA分析による研究
花粉は壊れにくい。5千年前の地層を発掘していると植物の花粉が検出される。その花粉から当時の植生を復元できる。近くの田代平のボーリング調査によると、最初はナラ林だが次第にブナ林帯になっている。ところが同時期の三内丸山遺跡では、最初はナラ林が多いが、人が住み始めると急にクリが多くなる。また人が住まなくなるとナラ林に戻り、次第にブナ林になっている。
こうした花粉のDNA分析から明らかになったことは、ブナ林を中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与が行われ、クリやクルミ、漆などの有用な樹種で構成された人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたと考えられている。
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- 松木台Ⅲ遺跡の環状集落と磨製石斧
森を伐り開いて、まず広場をつくり、その周りに竪穴住居を囲むようにつくり、谷を挟んだ向こう側に木の実の貯蔵エリアをつくり、広場の真ん中に墓地をつくる。これが縄文時代の典型的な村の構造で、環状集落と呼んでいる。中心に死の世界があって、その周りに生の世界が取り囲むような縄文人の死生観、世界観は、墓地と住居を分けるような我々の町づくりとは全く異なっている。
多種多様な縄文石器の中で、磨製石斧だけが儀礼用の道具として巨大化する。それには何か意味があるのではないか。環状集落のような村を作るためには、まず大量の木材を要するので、その木を伐るための道具「磨製石斧」がいかに重要であったかが分かる。特に緑色のアトラス石にも何か特別な意味があったのだろう。
今から6千年前、イギリスにもイタリアの翡翠を使った緑色の磨製石斧が使われている。パプアニューギニアでも緑色粘板岩という石を使った緑色の磨製石斧が使われている。お互いに何の関係もない地域だが、同じ緑色の磨製石斧を使っていること、森の中で生活していた民であるという共通点がある。
人は、自然の中に入っていく時に何か神秘性を感じるのだと思う。本来入ってはいけない自然界の中に人間の世界を切り拓くことのできる唯一の道具が緑色の磨製石斧であった。それには何か特別な意味があったに違いない。「人間の誇りの象徴?」「森への畏怖の念の現れ?」・・・勝手に解釈すれば、森に対する「畏敬と感謝の念」を意味しているのではないか。
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- 縄文人にとって、「自然」は戦う相手ではなく、畏れと感謝をもって向き合う、命を包み込む大いなる存在だったと考えられる。1万年以上も長く続いた文化は、世界の中で「縄文文化」だけである。
自然の中で人類が誕生して、自然と関わっていく中で技術を身に付けたり、美的なもので宗教にもっていったりする。こうした「自然と人間と技術」の三つの関係を捉えていくのが考古学の役割である。最近、その技術が余りにも肥大化して、人間のコントロールが及ばないところまで来ている。もう一度、人類の歴史を紐解いてみて、人間の可能性を考えることが、今後の考古学の役割だと思う。
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| 質疑応答 |
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- 質問① 男鹿が島であった時代、島の遺跡と本土の遺跡に違いはあるものかどうか
島と内陸との遺跡の違いは、今のところ見いだされてはいない。縄文時代は、丸木舟を使って島と内陸を行き来していたので、むしろ似たような関係にある。
- 質問② ブナを何らかの形で利用した痕跡はあるかどうか
ブナを直接使った痕跡は見つかっていない。縄文人は、ブナ林で育まれた恵みを存分に利用していた。
- 質問③ 秋田に生息していなかったイノシシは最近入ってきたと思うが、以前に生息していた痕跡はあったかどうか
粘土細工のイノシシや骨などは見つかっている。北海道にもウリ坊の骨が見つかったりしている。イノシシが元々生息していたわけではなく、本州で捕らえたイノシシの子どもをあげたんじゃないか、と言われている。だから秋田にイノシシが自然に生息していたのか、それとも持ち込まれたものか、慎重に判断する必要がある。縄文時代は気候変動が激しく、雪が多かったり少なかったりする中で、植物相や動物相も変わっていったと考えられる。現在は見られない動物たちも、昔は生息していたかもしれない。
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- 質問④ イギリスのストーンヘンジなど、古い人たちは全て神は太陽にあるという信仰心を持っていたが、縄文人にはそうした信仰、心の拠り所はあったのかどうか
太陽を祀るというのは、世界の文明の中で共通してある。縄文時代、それを直接示すものはない。ただ、大湯ストーンサークルでは、1mぐらいの石を立てた日時計状組石が2カ所あって、それを結んだ延長線上が夏至の日の日没と重なる。反対側から見ると、冬至の日に重なる。縄文人も太陽を意識していたことは確かだが、それが宗教と結びついていたかどうかは不明。太陽と山を意識してつくられた村を研究している考古学者もいる。
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- 質問⑤ 寒冷化によって、海水面が下がり、日本海が湖だった頃、日本海側だけでなく、中国側や朝鮮側も陸地が広がり、湖はもっと狭かったという理解でよろしいか
海水面が下がって、特に東シナ海は大草原になった。大陸側も陸地が広がり、日本海の湖も狭くなったという理解でOK。
- 質問⑥ 九州の南西側に世界最大の火山の爆発があって、九州は全滅、四国や中国地方は人が住めないような状態になったと聞いている。東日本の人口より西日本の人口が少なかったのは、火山爆発が原因ではないか
旧石器時代に鹿児島のアイラ火山で巨大な噴火が起こった。男鹿でも、その噴火の火山灰が見つかっているほど大きな噴火であった。九州の旧石器人は全滅している。それは3万年前のことで、6千年前の縄文とは大きな年代差がある。だから人口差とアイラ火山の噴火は、直接関係はないと思う。
東西の人口差は、森林相の違いで、山菜や木の実などの食料源の違いがある。他に土石流災害の原因になる真砂土という地層が多く、木を伐ってしまうと崩落が起きやすくなる。一度山が崩れると、森林が回復しなくなる。東日本は、森を切り拓いても、すぐに回復する。こうした森林の回復力の差が、人口差に現れるという研究者もいる。
- 質問⑦ 朝鮮の方から日本に渡ってきて、西日本を征服し、我々の縄文人の祖先である蝦夷を駆逐していった。現在、縄文人の血を引くのはアイヌの方々と言う理解でよろしいか
まず渡来人が入ってきた数は、そんなに多くない。だから渡来人が、日本人を戦で征服したのではなく、元々住んでいた縄文人に米づくりの文化を広めていった。日本は、平和的に狩猟漁労採集から農耕へと変わる、世界的にもまれなケースである。
縄文人のルーツを辿ると、北方系の人もいれば、南方系の人もいる。いろんな人たちが、同じ村で一緒に生活していた。人種の問題と言うのは、極めて複雑なので、元を辿れば、ホモサピエンスの一つでいいんじゃないかと思う。
蝦夷と言うのは、民族ではなく、意図的につくられた概念と言われている。中国では、世界の中心である中華に皇帝がおり、その外側四方には、それぞれ野蛮な異民族が存在していると考えられていた。日本でも、こうした中華思想にならって、大和民族・国家は最高のものと見なし、その東方の人たちを野蛮な異民族=「蝦夷」と呼んだ。実際、遣唐使が中国に蝦夷を連れて行き、蝦夷には家がなく、深山の樹木の元に住み、肉を食する野蛮人のように蔑視している。つまり律令国家が外交政策として意図的につくりだした概念に過ぎない。
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