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元気ムラの旅12 羽州街道の宿場町&蕎麦の里・能代市鶴形探訪

 2026年6月6日(土)、森の学校2026「元気ムラの旅シリーズ12 羽州街道の宿場町&蕎麦の里・能代市鶴形探訪」が、能代市鶴形で開催された。参加者は33名。鶴形地域センターから「たちこうべ山」方向に向かう羽州街道を歩き、渡し舟場跡、大ケヤキに鎮座する鍾馗様、物見坂を見学した後、鶴形一の資産家・小林七右衛門宅跡、明治天皇行在記念碑、釣潟神社、海蔵寺の歴史などを学んだ後、センターに戻って鶴形そば定食を味わった。午後は喜久水酒造地下貯蔵庫研究所になっている旧奥羽本線第一鶴形隧道(国登録有形文化財)を見学した。今回行くことができなかった鴨巣一里塚(県指定史跡)、鶴形金毘羅神社(秋田三十景)や、菅江真澄図絵「茂谷山(鶴形村)」、百万遍念仏、鶴形ささらなどについても詳述する。
  • 主催/秋田県森林学習交流館指定管理者
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/鶴形地域まちづくり協議会
  • 能代市鶴形散策コース
     鶴形地域センター羽州街道(徒歩移動)たちこうべ山(渡し舟場跡・鍾馗様・大ケヤキ・物見坂)小林七右衛門宅跡明治天皇行在記念碑釣潟神社海蔵寺鶴形地域センター/昼食喜久水酒造地下貯蔵庫研究所・旧奥羽本線第一鶴形隧道(国登録有形文化財) 
  • 能代市鶴形散策ガイド・・・鶴形地域まちづくり協議会会長渡辺和吉さん、海蔵寺ご住職さんの2名
  • 参考;菅江真澄図絵「茂谷山(鶴形村)」(秋田県立博物館蔵写本/かすむ月星/1806年)
    1. 1806年、菅江真澄が描いた図絵を見ると、鶴形村が宿場町(馬・人足・かごなどの仕立てや宿泊)として発展してきた理由がよく分かる。図絵の一番高い山が茂谷山(248m)で、米代川沿いの岸辺に家が密集しているのが鶴形村である。米代川には帆掛け船が描かれている。大館・鷹巣あたりまで通う長船である。図絵の右上のピーク・幟山(211m)の麓の峠を抜けてくる道が羽州街道で、宿場町で栄えた鶴形を通り、姥懐川の橋を渡って「たちこうべ山」の山麓沿いから富根方面に抜けていく。
    2. 鶴形村から右方向に行く道は、能代道である。鶴形村手前の米代川を渡って朴瀬へ出る八森道の起点でもあった。つまり鶴形村は羽州街道と能代道、八森道が合流する起点で、水陸双方の交通の要所にもなっていた。その背後には、由緒ある釣潟神社がある。
    3. 近世後期には、山本郡の北部を管轄する奉行所も置かれていた。「米代川流域における舟運によるまちの変遷」(菅原恵介ほか)によれば、1730年の米代川流域におけるまちの戸数は、鶴形村が154軒で1位、2位藤琴村151軒、3位比井野村108軒、4位飛根村102軒、5位荷上場村101軒であった。この村々は、港町能代に劣らない賑わいを持っていたと考えられ、特に鶴形村の戸数が最も多いのは、舟運の鶴形番所があったからであろう
  • 「たちこうべ山」方向に向かう羽州街道をゆく 
  • 参考:羽州街道とは・・・江戸時代の幹線道路の一つで、福島県桑折町で奥州街道と分かれ、山形、秋田を経て、終点青森県油川まで約500km。江戸時代の紀行家・菅江真澄や克明な日本地図を著した伊能忠敬、幕末の思想家・吉田松陰、イギリスの女性旅行作家イザベラ・バードなどが歩き、日記や紀行文、図絵などを残した。 
  • 鴨巣の一里塚(写真出典:鶴形歴史マップより)
    1. 街道両側の丸い盛土に太いクロマツが植栽された藩政期当時の原形を保つ貴重なもの。秋田県指定史跡。羽州街道の塚としては江戸日本橋から159番目、県内では南から数えて47番目の塚である。
    2. 参勤交代で羽州街道を利用した藩は、青森では黒石藩、弘前藩、秋田では久保田藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩である。佐竹氏の場合、久保田城下から江戸までの行程は約600kmで、2週間ほどかけて移動したという。その他出羽三山への参拝や物資交易の街道として発展した。
  • 渡し舟場跡
     鶴形は、米代川の舟運も盛んな地で、大量の米や木材、鉱産物を舟で能代湊まで運び、日本海路で大阪まで結ばれていた。その川舟の荷物の検査等を行う関所として「鶴形番所」が置かれていた。例えば木材の場合、鶴形番所を通過する時は、土場調べの際に作成された送状に基づき、材木に不足などがないか検査された。問題なく終了すると、その旨の手形が発行され、能代に到着すると、上浜・下浜の材木の納品で完了となった。 
  • 大ケヤキと村を守る鍾馗様
     羽州街道沿いの物見坂近くの高台には、村を一望できる地点の大ケヤキ(推定樹齢400年以上)に祀られ、いかにも村を守る鍾馗様の風格が漂っている。これは村に疫病や悪霊などの災いが入ってこないように村の境や道端に祀られている日本古来の神様「道祖神」と同じである。秋田では、その多くが「ワラ」や「木」で作られた人形であることから、「人形道祖神」と呼ばれている。県内には「ショウキサマ(鍾馗様)」や「カシマサマ(鹿島様)」、「ニオウサマ(仁王様)」など、さまざまな名称がつけられている。
  • 鶴形地域では、人形道祖神を「鍾馗様」と呼び、男女各3人ずつ3組の夫婦で、集落の境目6カ所に祀られている。体長約2m、体はワラで整え、山から掘り出した木の根を角に見立て、恐ろしい形相をしているのが大きな特徴である。右手には槍のような物を持っていたり、腰に木製の刀を差しているなど様々。
  • 昔の原風景が残る羽州街道(物見坂)
  • 鶴形歴史マップ
  • 鶴形一の資産家・小林七右衛門宅跡・・・十三代目小林七右衛門は私財を投じて鶴形金毘羅神社(秋田三十景)を建立している。詳細は後述する。
  • 明治天皇行在記念碑・・・1881年(明治14年)、明治天皇東北巡幸時に休憩・宿泊を記念した「明治天皇行在所記念碑」が建立されている。
  • 釣潟神社
     明治時代以前は、「円通山広大寺」と呼ばれる修験道場で、戦国時代に檜山安東氏の庇護を受けていた。明治5年、神仏分離令に伴い、山神社に。同43年、近くの4社を合祀して「釣潟神社」と改称し、大正2年、現在地に移転している。
  • 親子馬渡河図(釣潟神社蔵)
     安東氏8代当主の安東愛季(あんどうちかすえ/1539~1587)は、子の実季(さねすえ)の病気平癒を祈願して、愛季自筆の親子馬を描いた絵馬(上図)や、運慶作と伝えられる木彫りの聖観音像が奉納されている。
  • 参考:菅江真澄「かすむ月星/広大寺(釣潟神社)」(1806年2月23日)
     「野原に出て谷をおり、たどっていくと観世音の堂があって、円通山の額は月舟和尚が書いたものであった。広大寺(釣潟神社)という額がすすけていて、誰の書いたものかわからない。城介実季(秋田実季)がまだ幼少のとき、重病にかかられたのを、父愛季(ちかすえ)が日ごろ念じている観世音に深く願いをたてたところ、病も軽くなって命をとりとめたという。住んでいた矢堀の館から、ここに詣でて、新しく観音の御像をつくり、この堂に三十三石の稲を寄進なさった。それでいまも三十三年を経るごとに御開帳をして、拝し奉るということである」と記している。
  • 楞厳山海蔵寺(りょうごんやまかいぞうじ)・・・秋田市松原の補陀寺9世大和尚が永禄年間(1558~1570年)に開創したという。以来約460年の歴史をもつ古寺である。
  • 山号「楞厳山」・・・海蔵寺の前につける山号は「楞厳山」という。その名は、安居・修行を無事祈念して読誦する楞厳経に由来し、仏法を高揚・流布せんとする志と願いが込められているという。ちなみに、富根の長徳寺の山号も同じで、檜山の楞厳院の寺号もこの名である。
  • 敵の家臣をかくまった口伝
    1. 檜山安東氏の頃、当寺の住職は、常に対立していた比内浅利氏の家臣をかくまったという口伝が伝わっているという。その後、野呂という家臣は福田開墾を手掛け、野呂田という姓になり、同じく佐々木氏は山本町外岡羽立を開墾し、畠山氏は二ツ井町二鮒鬼神で山師になったという。
    2. 戦に敗れた敵の落人をかくまうことによって、その子孫たちは地域の発展に大きく貢献している。これは拍手したくなる口伝である。
  • なぜ敵である家臣をかくまうことができたのか?
    1. 戦国時代は、中央の戦国大名が入り乱れる群雄割拠の時代だから、寺社勢力の利権や財産を守ってくれる強力な政権が存在しなかった。だから自分の命や財産・権利は自分で守らなければならない時代であった。
    2. 一方、戦国時代の秋田を支配した安東氏(後に秋田氏)は、寺社を武力で直接支配するのではなく、保護と引き換えに精神的権威づけに利用していた。
    3. 秋田における戦国時代の寺社は、単なる信仰の場にとどまらず、大名権力も容易に手を出せない治外法権的・避難所の性格を色濃く持っていた。従って、海蔵寺住職が敵である比内浅利氏の家臣をかくまったという口伝は、ほぼ間違いのない口伝であろう。
  • 山門の金剛力士像
     一般には山門の左右に二つの金剛力士像(仁王像)を安置しているが、当寺は一つの力士像しかない。これは大変珍しい事例だという。
  • 参考:菅江真澄「かすむ月星/海蔵寺~宿・小林長左衛門の記録」(1806年)
     「海蔵寺の夕景は花のない山に読経の声がむなしくひびき、空もうら寂しく暮れて、かの観音におつかえする清水寺の優婆塞がふるおつとめの鈴の音をかすかにはこんでくる風が寒かった。鶴形の宿駅に出て小林長左衛門のもとにつき、人々は別れて檜山に帰って行った。私は一人になって、ここに旅の宿をとった」
  • 鶴形そば定食で昼食
  • 特産「鶴形そば」
    1. 鶴形地区では江戸時代から、そば作りが盛んに行われてきた。特産「鶴形そば」は、地元産そば粉100%に豆乳をつなぎにしたコシのある食感が特徴。2004年に鶴形地区そば生産組合を発足させ、地域ぐるみで転作作物であるそばの特産化を進め、約70haまで規模を拡大した。
    2. 2008年には鶴形そば製造加工株式会社を立ち上げ、市内のスーパーや道の駅へ出荷、イベントでの出張販売、そば打ち体験なども行ってきた。
    3. 2022年には、旧鶴形小校舎を活用した鶴形地域拠点施設のオープンに併せて、鶴形地域まちづくり協議会が運営する「鶴形そば食堂」もオープンさせた。食堂は、毎年6~10月の火曜に開店している。
  • 鶴形そばの歴史的背景
    1. 「能代市史 特別編 民俗」によれば、鶴形は田が少なく、そのあがりの少ない米も能代に持っていき売って金にしていた。家で食べる米は不足していた。その米の不足分をそばで補っていた。鶴形そばが商品化された契機は、農用地開発事業で開田・開畑が行われた結果、そば栽培の拡大を図れるようになったからだという。
    2. また能代の農村部では、力仕事がない農閑期は、米飯ではなく、朝はそば餅、昼はそばタンポであった。そば餅は米の節約のために、屑米あるいはシダを粉にして粥をつくり、煮えたぎったところでそば粉を加え、少し湯を加えて練って餅のようにした代用食。そば餅はあらかじめ二食分つくり、朝食の残りは、丸めてスギの串に刺してキリタンポ風に作り、昼に囲炉裏で焼いて味噌をつけて食べたという。
  • 鶴形そば関連の特産品販売・・・鶴形手打ちそば、鶴形産そばむき実、そばがゆ、そば焼酎「鶴形こまち」、そば茶、手作りかごなど
  • 喜久水酒造地下貯蔵庫研究所(旧奥羽本線第一鶴形隧道/国登録有形文化財)
     旧奥羽本線第一鶴形隧道は、明治38年に奥羽本線 が 全線開通して以来、鉄道トンネルとして使用されてきたが、1973年に奥羽本線の複線化に伴い、北隣に新トンネルが作られた。鶴形隧道は、全長約100m、高さ4.6m、幅3.7mで約100坪。
  1. 6代目蔵元・平澤喜三郎氏がフランスのシャンパン倉庫を現地視察した際、 ワイナリーが自ら掘った地下トンネルの貯蔵庫を見て、「気温が11℃に保たれてきた不思議なトンネルで、吟醸酒も長期低温貯蔵すればおいしくなるのでは」と考え、電気代がかからないトンネル貯蔵を思い立った。
  2. 1996年、能代市の喜久水酒造がJRから購入し、「地下貯蔵研究所」という名で、酒の貯蔵庫に仕立てた。2000年には国の登録有形文化財にも登録された。
  3. 良い吟醸酒は、長く寝かせると、熟成が増し香りが蓄積され、味がよくなっていく。そうして熟成された喜久水のお酒は、地元ではハレの日に飲むお酒として有名である。喜久水酒造では、お客様の要望に応えてお酒を有料で預かるサービスもある。お子さんが生まれた記念に購入貯蔵し、20年後に届ける約束をしている人もいるという。
  • 参考:百万遍念仏と鍾馗様 (写真出典:能代市鶴形地域の「百万遍念仏」と「鍾馗様」 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ)
     「能代市史 特別編 民俗」によれば、鶴形の百万遍念仏は、女の人たちだけで行われる。春の送り彼岸の次の日、海蔵寺の一室に地獄極楽図を6本掛け、念仏を唱えながら数珠回しが1時間以上も行われる。それが終わると、部落の周囲6カ所の鍾馗様にお供え物と御幣をあげて歩き、部落内に悪霊の入り込まないように祈るのである。
  • 参考:百万遍念仏の由来(写真:百萬遍知恩寺)
    1. 1331年、京都で猛威を振るった原因不明の疫病が蔓延した。人々はこれを怨霊や悪霊の仕業と恐れた。後醍醐天皇が善阿空円に対して疫病を鎮めてほしいとの命を受けて7日間の百万遍念仏を行い疫病を鎮めた。その功績から知恩寺は「百万遍」の寺号を授かった。これが京都市左京区にある百萬遍知恩寺である。この寺号「百万遍」の由来となった疫病退散を祈願する行事として、室町時代から戦国時代にかけて宮中から地方の村々の間にまで百万遍念仏が広まった。
    2. 中世から江戸時代にかけて流行した感染症は、天然痘、ハシカ、コレラ、赤痢、風邪、インフルエンザなどである。その中で乳幼児を中心に何度も流行を繰り返し、最も致死率が高いのが天然痘であった。鶴形一の資産家・小林七右衛門も患ったのが天然痘である。
    3. 医学が発達していない時代の疫病は、人間の力では防げない災厄とされ、百万遍念仏や鍾馗様に祈るほかなかった。こうした伝統文化は、現代でも、人間の力では防げない新型コロナウイルスあるいは鳥インフルエンザのような怖ろしい災いが発生するたびに、最も注目を浴び、必要とされる文化でもある。
  • 参考:菅江真澄図絵「天然痘の子ども」(長野県の山麓、粉本稿/大館市立図書館臓)
     図絵のとおり、子どもが天然痘を患うと、家に置かず、山に仮小屋を作って入れ、食べ物を運ぶのみであった。図絵の説明文には、「天然痘を患った子どもを親が近くの山に捨てておくと、乞食らが看病する。病が癒えると親の元に返し、幾らかのお礼をもらう」と記されている。当時、最も恐れられた感染症が天然痘であった。                         
  • 参考:小林七右衛門と鶴形金毘羅神社
     建立したのは、鶴形で代々醸造業を営んでいた十三代目小林七右衛門である。彼は、北方郡奉行と郡内肝煎を兼任した鶴形一の資産家である。少年時代に天然痘を患い、海上交通の守り神・讃岐の金毘羅宮に祈願して九死に一生を得て快癒してから、金毘羅宮への信仰を強めた。成人した七右衛門は、何度か金毘羅参りをしているうちに、その分霊を受けて鶴形村にも神社を建立することを計画した。
  1. 社殿は1855年に起工し、1858年に完成したが、彫刻など総工費6,380両を投じて全て完成したのは1863年のことであった。特に社殿は見事な彫刻で飾られ、宮大工の技量を存分に感じられる。
  2. 金毘羅神社は、昔から船乗りの守護神として漁民たちの信仰をあつめた。明治から大正時代にかけては、祭日には遠く樺太や北海道をはじめ、県内の船川、土崎、金浦、岩舘、能代などの船乗りたちが、能代から人力車に乗って金毘羅参りに来たという。
  3. 近郷の農民たちも、家内繁盛を願って参拝に訪れたので、祭日には数千人の人が集まった。村の両側に掛茶屋や売物店が並び、芸人たちが三味線を鳴らしながら通りを行き来したり、奉納相撲も行われたという。しかし海運が寂れるとともに、参拝者も稀となり、金毘羅神社も寂れてしまった。
  • 菅江真澄「かすむ月星/茂谷山(1806年2月23日/写真出典:鶴形歴史マップより)
     「(檜山を出立)鶴形山に分け入り、もやの薬師峯(茂谷山)に登ろうと、霧山の麓を右手にはいった・・・鶯の初音ものどかに聞こえる。
    『むかし誰れここにまなびの岡の辺のあとふみ見て鶯のなく』
    『うぐひすよ霞のころもなれもきて日をつむままに消ぬるしら雪』
    ・・・深沢という山中を経て、茂谷山(248m)に登った。モヤは岳ではなくて、たいそう高く一つだけ聳えている山を言うのであろう・・・頂上につくと、くぼ地になっていて、石室のうちに薬師仏が据えられてある。眺めると、東に森吉山、西に男鹿半島、あるいは白神、真瀬岳などの山々が雪をいただき、真白に連なって見えるが、風が凍るような寒さで吹きわたって、じっと四方を眺めていられず、下りることにした・・・深い谷底に鶯がおもしろくさえずっている。
    『鶯も出る朝日の沢のべにわきてのどけき声をこそきけ』
    『花はいつ咲て影見んうぐいすよ話れこと葉の春の沢水』
  • ※注:鶴形で詠んだ和歌4つ全てに鶯(ウグイス)が登場している。鶴形の春は、ウグイスの澄んだ声が至る所で聞こえる自然豊かな山里であったことが分かる。
  • 参考:鶴形ささら 獅子舞 - YouTube
    1. 鶴形ささらは、村の鎮守社釣潟神社の祭礼と盆の日に行われている。かつては高岡神社という作神様の祭りにも奉納したという。演舞に当たって、宿という獅子連中の拠点が決められ、ここから行列をして神社や部落の要所で舞う。前払いとして棒術が最初に披露され、次に獅子踊り、曽我兄弟の仇討ちの口上が入った剣舞が披露される。もとは万歳もあったが、今は失われてしまったという。このようなささらは、五穀豊穣、部落民の慰安を目的として行われると考えられている。
    2. 正保3(1646)年銘のささら文書には、佐竹氏が水戸から遷封の時に、道中の徒然を慰めるために演じたものだが、もとは常陸国で伝わるものを移し来たのだ、とある。
    3. 県内の「ささら(獅子踊り)」は、主として米代川流域の県北部と仙北地方を中心とした県中央部に分布している。いずれも水戸の「ささら(獅子踊り)」と関連付けて伝承されているが、これは芸能の権威付けという面が強く、元々それ以前から存在した芸能が佐竹氏の転封による影響も受けて伝承されてきたと考えるのが妥当と言われている。従って、鶴形ささらの起源はもっと古いと考えられる。 
参 考 文 献 
  • 「能代市史 通史編Ⅰ原始・古代・中世」(能代市)
  • 「能代市史 通史編Ⅱ近世」(能代市)
  • 「能代市史 特別編民俗」(能代市)
  • 「図説 能代の歴史 上巻」(野添憲治、無明舎出版)
  • 「羽州街道 秋田県北部一般国道7号 その生い立ちを訪ねて」(建設省東北地方建設局能代工事務所)
  • 「菅江真澄遊覧記」(内田武志・宮本常一編訳、平凡社)
  • 「東北の街道 道の文化史いまむなし」(渡辺信夫監修、東北建設協会)
  • 「土木史研究講演集2003年 米代川流域における舟運によるまちの変遷」(菅原恵介ほか)
  • 配布資料・・・「鶴形鎮守 釣潟神社」、「楞厳山海蔵寺」
  • 参考HP:能代市鶴形 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ