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第35回ブナ林と狩人の会:マタギサミットin信越秋山郷

  • 2024年6月22日(土)~23日(日)、「第35回ブナ林と狩人の会 マタギサミットin信越秋山郷」が長野県栄村と新潟県津南町を会場に開催された。参加者は約160名。秋山郷総合センターに掲示されている「秋山郷の地域文化」によれば、「秋山郷は、信越国境にまたがる中津川渓谷沿いに点在する十三の集落の総称である・・・その起源は、平家の落人伝説をもつ中世の隠田百姓村であり、高倉山・小松原・矢櫃など、平家ゆかりの地名もみられる。一方、秋田マタギが秋山郷にやってきて定着し、狩猟法を伝播している」と記されている。秋山郷での開催は、1992年/第3回マタギサミット以来6回目の開催となる。(写真:秋山マタギの里・栄村秋山郷小赤沢)
  • 1日目は、1980年代のマタギを題材にした新作映画「プロミスト・ランド」の紹介、第1部/認定鳥獣捕獲等事業者制度と「場」の問題を考える、第2部/錯誤捕獲は回避できるのか?、そしてメインの交流会。2日目は、第3部/トークセッション「信越国境歴史散歩」(大地の芸術祭とマタギのむら)が行われた。なおマタギサミットで秋山郷を訪れるのは、今回で4回目。前日から「秋山記行」で知られる鈴木牧之の生家や秋山郷をあちこち走り回ってきたので、改めて「秋田マタギと秋山郷」について詳述する。
  • 主催:第35回『ブナ林と狩人の会:マタギサミットin信越秋山郷』実行委員会 /後援:新潟県津南町、長野県栄村、大日本猟友会/協力:ニュー・グリンピア津南、狩猟文化研究所、栄村役場農政課 
  • 田口洋美実行委員会代表あいさつ/歓迎のあいさつ・宮川幹雄栄村村長
     今から40年前、27歳の田口先生が秋山郷のマタギの家を訪れていた夜に、突然電話がかかってきて「クマ殺し」「死んじまえ」などと罵声を浴びせられたという。当時、これほど「狩猟」が注目される時代が来るとは思っていなかった、と感慨深げに語った。 
  • マタギを題材にした新作映画「プロミスト・ランド」の紹介/飯島将史監督・田口比呂貴(山形)
     1983年、山形市生まれの小説家・飯嶋和一氏は、マタギを題材にした短編小説「プロミスト・ランド(約束の地)」で第40回現代小説新人賞を受賞した。その原作を約40年の時を経て飯島将史監督が実写映画化した作品。1980年代は、ツキノワグマが減少して狩猟が禁止される時代だが、狩猟を生業とするマタギの誇りを貫こうと、若者2人が、密かにクマ狩りに挑む物語である。
     この新作映画の話を聞いて、真っ先に想い出したのは、田口洋美先生が研究代表者となってまとめた成果報告書の巻末「否定されたマタギ」の一文である。「会を発足した昭和63(1988)年当時・・・日本社会は野生動物あるいは愛護運動が過熱してゆくプロセスにあり、野生動物を捕獲、捕殺する側である狩猟に携わる人びとは保護を推進する個人や集団から敵視され、また罵りといっていい言動を浴びせられていた・・・
     地域の伝統的狩猟を語る特集番組などが放送された日の深夜に、突然電話をかけてきて「動物殺し!」「可愛い動物を殺さないで!」などと罵声を浴びせていきなり切るというものだった・・・」
     そんなマタギを否定するような時代のマタギを題材にした新作映画は、35回を重ねたマタギサミットの歩みとリンクするだけに、ぜひ観てみたいと思った。ロケ地は山形県鶴岡市大鳥地区など。6月29日(土)全国順次公開するという。
  • 第1部 認定鳥獣捕獲等事業者制度と「場」の問題を考える
  • コーデネーター:田口洋美(狩猟文化研究所代表)/コメンテーター:高橋満彦(富山大学教授)
  • パネラー:佐藤繁(長野県猟友会)、塩入博文(福島県南会津町)、遠藤春男(山形県小国町)、福原洋一(栄村猟友会) 
  • 認定鳥獣捕獲等事業者制度とは・・・
     環境省の同制度の趣旨には、「近年、ニホンジカやイノシシなどの鳥獣が急速に増加して生息分布が拡大し、生態系、農林水産業、生活環境への被害が深刻化しています。こうした状況を踏まえ、国は、ニホンジカとイノシシの生息数を10年後までに半減することを当面の捕獲目標とし・・・都道府県等による捕獲等事業(指定管理鳥獣捕獲等事業)を創設し、鳥獣の管理を強化することとしました。
     また、鳥獣の捕獲の担い手である狩猟者は、年々減少するとともに高齢化が進んでいます。捕獲対策の強化が求められている中で、捕獲に従事する狩猟者の負担は増加しており、今後、狩猟者によるこれまでのボランティア的な作業だけでは、担い手の確保がますます困難になっています。
     そこで、今般の法改正(2014年)で認定鳥獣捕獲等事業者制度が導入されました。本制度は、鳥獣の捕獲等に係る安全管理体制や、従事者が適正かつ効率的に鳥獣の捕獲等をするために必要な技能及び知識を有する鳥獣捕獲等事業を実施する法人について、都道府県知事が認定をするものです。
     認定鳥獣捕獲等事業者は、指定管理鳥獣捕獲等事業の受託をはじめとした鳥獣の捕獲の担い手となり、発注者との契約に基づき、科学的な計画に沿って、計画的、組織的な鳥獣の捕獲等を確実に実施していくことが期待されています。さらに将来的には、鳥獣の生息状況の調査や計画策定、モニタリング及び評価等、地域の鳥獣の管理の担い手となることが期待されます」
  • 現在、認定鳥獣捕獲等事業者は、全国で163事業者となっている。うち都道府県猟友会は、33道府県が登録済。14都府県は未登録。ちなみに秋田は未登録である。
  • 指定管理鳥獣には、シカ、イノシシに加えて本年度「クマ」も追加された。少子高齢化の進行とともに野生鳥獣問題が深刻の度を増しているが、鳥獣捕獲の担い手として県内外のプロの事業者が参入することについて、意見交換が行われた。
  • 県猟友会が認定事業者として、シカを年間2千頭駆除している。捕獲した後の処理が課題。
  • 山を熟知していない県外の事業者が参入する場合、事故を起こされても困る。ウエルカムではない。
  • クマを穴から追い出そうとして事故も起きている。クマの場合は、他地区からきてやるのは難しいのではないか
  • 現在、検討まで入っていないが、今後狩猟者が減少してくれば、いずれ検討せざるを得なくなるのではないか
  • 認定事業者として猟友会でやったが、写真や事務処理が大変
  • 県内だとOKだが、県外だとNO
  • 認定鳥獣捕獲等事業者制度をうまく利用するやり方もあるのではないか
  • 猟友会が自らプロとして請け負うべき。その対価をもらうこともできる。次の世代につなげるためにも、認定鳥獣捕獲等事業者制度をもっと広げるべき 
  • 第2部 錯誤捕獲は回避できるのか?
  • 錯誤捕獲とは・・・
     ニホンジカやイノシシを有害捕獲するための罠に、ツキノワグマや、特別天然記念物のカモシカがかかることが問題になっている。こうした意図しない鳥獣の捕獲を「錯誤捕獲」という。錯誤捕獲は、違法状態になるので、麻酔銃で眠らせ、個体を放獣する必要がある。ただしクマが錯誤捕獲された場合、非常に危険で死亡事故も発生している。
  • 2019年7月19日、宮城県気仙沼の山中で、シカの罠見回り中の捕獲者が、「くくり罠」を壊して逃走したクマに襲われ死亡している。
  • 2023年10月14日、長野県飯山市の山中で、イノシシの罠を見に行った男性がクマに襲われ死亡。クマの後ろ足に「くくり罠」のワイヤーがかかっていたが、死亡した男性はクマの動ける範囲内に近づいてしまい襲われたとみられる。
  • カモシカの錯誤捕獲でも死亡事故が発生している。2020年10月愛知県・・・カモシカを放獣しようとした捕獲者が角で突かれ死亡。
  • 福島は、イノシシとクマが混在しているので、クマの錯誤捕獲が多い。(写真:第27回マタギサミットinさかえ/上田剛平)
  • 箱罠の場合、天井部に30cm 四方の穴を開けておくと、イノシシは残るが、クマは脱出することができる。
  • 箱罠に誘引のエサとして「米ぬか」を使うと、クマがよく来る。箱罠の中でイノシシが食べている最中、天井部の脱出口にぶら下がりクマが食べている動画も撮影されている。
  • くくり罠の見回りは斜面上部から!・・・斜面の下から近付くと、動物が斜面を駆け降りる勢いが加わり、ワイヤーが切れたり、拘束部位がちぎれたりして罠から抜ける危険性が高い。
  • くくり罠の直径を小さくしても、子グマがかかったりする。
  • くくり罠でのクマの錯誤捕獲・・・危険な場合は射殺、危険でない場合は麻酔銃で眠らせ、発信器をつけて放獣する。
  • 放獣しても、3日くらいで戻ってくるので意味がない。
  • クマが錯誤捕獲されにくいとされるくくり罠「ベアウォーク」・・・クマもかからないが、肝心のシカやイノシシもかからない。
  • くくり罠でクマを錯誤捕獲した場合の放獣・・・適地がなく、住民の同意も得られないことから、やっていない。
  • 秋だとクマの脂肪が厚く、麻酔が効かない。費用が15、6万円と高く、手間も時間もかかる。
  • カモシカの錯誤捕獲は怖くないが、クマは危険。麻酔液の保管は獣医でないとできない。数少ない麻酔が来るまで何時間も待たねばならない。
  • 箱罠は脱出口のあるものだけを使っている。くくり罠にクマがかかった場合、危険なので有害捕獲している。
  • 結論は出ないが・・・錯誤捕獲は、両者にとって良いことはないので、減らす努力を。 
  • 夜の部 交流会
  • 桑原 悠(はるか)津南町長あいさつ・・・「秋田マタギと秋山郷」についても詳しく触れてあいさつされた。同じマタギ文化圏として秋田と信越秋山郷の絆を大切に継承していただきたい。
  • 阿仁打当の若手マタギ・益田光さんは、山で採れるオオバクロモジを使った阿仁の名産「クロモジ茶」をPR。なお彼は、マタギと写真家がタッグを組み、山の植物をデジタルデータ化して保存活用する「iPlantsプロジェクト」を立ち上げ、今月末までクラウドファンディングで支援を募っている。 
  • 第3部 トークセッション「信越国境歴史散歩」(大地の芸術祭とマタギのむら) 美術家・深澤孝史さん
  •  かつて秋山郷は極僻地であったために、義務教育免除地であった。地元の悲願であった津南町立大赤沢小学校が誕生したのは1924年。過疎高齢化が進むなか、児童数を確保して学校の存続を図ってきたが、2021年に廃校。2022年より、秋山郷の旧大赤沢分校の校舎を新たな秋山郷のミュージアムとして再生するプロジェクトをスタートさせた。その際、秋山郷の民俗・信仰・歴史・技術についてリサーチを続けてきたという。
     信越秋山郷に定着した秋田マタギの子孫が婚姻等によって村々に広がり、明治から大正にかけて秋山マタギの組織がつくられていった。彼らがウサギを獲る時によく使っていたワラダづくりや狩猟の動画、山の神信仰、冬は陸の孤島と化す秋山固有の民俗、クマやイノシシの血から絵の具をつくるなど、フィールドワークを通じてアートの素材をみつけている視点がオモシロイ。(写真:大赤沢集落、左のコンクリートの建物が旧大赤沢分校)
  • 参考:ワラダ猟・・・マタギは、ワラを円盤状に編んだワラダを使ってウサギを獲った。ウサギが潜んでいる所にワラダを投げると、その空を切る音を鷹の羽ばたきと間違え、恐怖で身動きできなくなる。臆病で警戒心の強い性質を逆手にとった猟法である。
  •  参考:「第5回大地の芸術祭」で「飛び地開催地」になった上小阿仁村八木沢の自然とアートを融合させた芸術イベント「KAMIKOANIプロジェクト」。八木沢は、今から210年前、マタギ発祥の地・阿仁根子から移住した者が拓いた分村だけに、江戸時代から狩猟を生業とするマタギ集落である。
  • 狩猟者でもない私が「マタギサミット」に強く惹かれるのは、田口先生が語った「フィールドワーク」の視点と「マタギたちの力を借りながら、自分の脳を活性化させ、思考の幅をできるだけ広くしていくこと」ができるからである。
秋田マタギと秋山郷
  • 上左写真:秋田マタギの子孫・福原和人さん(今回司会担当)/上右写真:秋山マタギを代表してあいさつした福原洋一さん
  • 旅マタギ・・・マタギには故郷を離れない里マタギと、故郷を離れて出稼ぎ猟をする旅マタギに分けられる。阿仁マタギの最大の特徴は旅マタギである。その旅マタギに着目し、越後三面、信越秋山郷、秋田県阿仁などを訪ねて「歩く、見る、聞く、記録」した労作が、田口洋美先生の「マタギを追う旅」と「マタギ 森と狩人の記録」の二冊である。また江戸時代後半に秋山郷を歩き、秋田の旅マタギを記録した名著が鈴木牧之の「秋山記行」である。
  • 上左写真:鈴木牧之記念館(新潟県南魚沼市塩沢)/上右写真:鈴木牧之の生家
  • 秋田の旅マタギを記録した「秋山記行」
     越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、1828年の秋、町内の桶屋団蔵と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山記行」を書き上げる。この記行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟やイワナ漁を行っていた様子が詳細に記されている。
  • 牧之が歩いたルート・・・越後側の見玉から清水川原、三倉(見倉)、中ノ平、大赤沢と辿り、信濃に入って甘酒、小赤沢、上ノ原、和山、湯本(切明)へ。秋山最奥に位置する湯本では、秋田からやってきたマタギから話を詳細に聞き書きしている。そして左岸に渡り、屋敷を経て前倉、上結東、坂巻、再び見玉に出て帰郷した。徒歩で七日間の旅であった。 
  • たまたま鶏や犬の鳴き声を耳にし、私は桃源郷に迷い込んだかと不思議に思いながら歩いていくと、はたして人家があった。見倉(上写真)という三軒だけの村であった。
  • 大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと
    「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える。「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」 
  • 図絵:牧之が湯本(切明)で秋田の狩人と会った秋山の温泉
  • 秋田の狩人
     夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた。・・・
     「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。 
  • 狩人の話・・・山漁(イワナ漁)と狩猟
     右は魚野川、左は野反川です。右の魚野川沿いに登りますと、私たちが寝泊まりする小屋があります。そこでは、三十センチほどの大物の岩魚を釣りますが、一度に数百匹は採りまして、草津の湯治場に売ります。このところ岩魚の値段はとても高いのです。
     また、魚が特に獲れない時は、鹿か熊、その他何でもいいのですが、ワナで捕まえ、その皮をはいで肉を塩漬けにして、私ども三人いれば二人で売りに、不漁の時は一人で草津の湯治場へ売りに行きます。残った二人は、一生懸命狩りをするのです。
  • 山での暮らし
     米と塩だけあればよしとしています。こんな深い山奥へ、二十日も三十日も住みつくのでございます。獣をいろいろ捕獲しまして、皮は売り物にします。その肉は、自分たちが食べます・・・
     着るものは猪や熊の毛皮、いつも着ている毛皮を夜具として寝ます。寝ゴザ一枚あればすみます・・・夜の漁は松明を灯して行い、時には網を投げ、その場所場所で方法を変えます。昼はカギを使い、ヤスや釣り竿も使います。ですから魚や獣もすっかり食べ飽きてしまいます。
  •  すべて川づたいの所々に小屋をかけておきます。中津川の源流地帯や、例の魚野川の左に沿って木こりの道があるにはあります。けれども・・・歩くのにたいへんなことは、とても言葉では言い尽くせません。
     また、大滝というのがあります。高さは20mもあろうという滝です。その素晴らしい光景は、旦那さんに一目でもいいから、ぜひともお見せ申したいものです
     岩菅山を越えた所に、燕滝がある。
     この滝の見事なことは、言葉にも話にも、とてもその一端も言い表せそうにもありません・・・この辺りにも岩魚を獲るための小屋を掛けます。ここに何十日と日数も決めないで、私どもは生活いたします。
  • オオカミも恐れる鬼の又鬼
     夏のある晩、川原の砂地の所を探し、三人で石を枕として寝ました・・・水の音が涼しく、ぐっすり寝込んで、夜が明けて見ると、オオカミが数十頭も通った足跡が、枕の所についており、ぞっとしました。こんな鬼でも住みそうな深い谷間を、私どもは畳の上でも走るようにしておりますので、きっとオオカミの方が恐れて、音もたてずにそのまま通っていったのでございましょう。 
  • 獣を捕る方法
     獣は夏はワナを仕掛けて獲ります。このワナというのは、1mぐらいの高さに2本の木を立て、横木を結びます。2mぐらいのまっすぐな横木の下に渡して、何本も枝木の上へ並べ、木の端を下の横木にかき付けるには、フジツルなどを用います。このツルで、三角の小屋の下に掛けるのです。これを蹴網(けあみ)と呼びます。また、ワナの上に大きな石を幾つも置き、草木を切って、石が見えないようにふたをします・・・
     漁小屋の近くに幾つも掛けて置きます。ワナの下の蹴網のツルに足が少しさわりますと、横木に仕掛けがありまして、一度に獣の上に落っこちて、押し殺します。
     その肉は、三度三度食事に食べます。幸い近頃獲った猿の皮が二枚ございます。よかったらお売りしましょうか。(写真:第27回マタギサミットinさかえ/田口洋美)
  • 田口先生の「マタギを追う旅」によれば、秋田マタギが行っていた大型獣用の吊り天井式の罠は、「阿仁のヒラオトシ」とほとんど構造は同じものである。
  • 牧之は、秋田マタギに夜遅くまで聞き取りしているが、「全然秋田の方言が交じらず、言葉ははっきりしていて、一回も繰り返して聞き直すことはなかった」と驚きを交えて記している。旅マタギは、標準語orその地域の方言まで勉強し、相手に合わせて会話できなければ、マタギ商売など成り立たなかったことが伺える・・・旅マタギは、やっぱりスゴイ!(写真:切明/湯本)
  • 「秋山記行」まとめ
    1. 秋田の旅マタギは、2~3人の小集団で行われていた
    2. 人跡稀な源流部に小屋を幾つも掛け、狩猟と川漁を展開 していた
    3. 岩魚や毛皮は、沢を詰め峰越えルートで消費地・湯治場へ売っていた
    4. イワナを釣って温泉宿に卸すスタイルは、後のイワナ職漁師たちに継承されている。川漁の世界にも多大な影響を与えた。(「山漁」にもその詳細が記されている)
      だから山釣りの世界では、山に生きる先達・マタギに強い関心を抱くのである。 
  • 何故、阿仁は狩猟先進地域になったのか?
     阿仁銅山は、18世紀初め、年間の出銅額が、コメに換算すると約70万石、日本一の銅山になっている。阿仁は、全国から鉱夫が集まる大都会であったから、肉や毛皮、熊の胆、川魚、薬の需要が発生し、狩猟・川漁先進地域へと発展したと考えられる。
  • 絵図を見れば、銅の製錬には大量の薪と炭を要したことが分かる。1トンの銅を生産するには4トンの木炭が必要であった。阿仁のマタギは、主に銅山用の炭焼きと狩猟を生業にしていた。
  • 旅マタギ(マタギ商売)の発生
     天明・天保の飢饉で物価高騰していた時代、秋田藩阿仁銅山の記録には、天保10年(1839)10月、阿仁の請負人7人が、連名で炭焼きの請負値段引き上げを願い出ている。その記録には、「従来の値段では、安くて妻子も養えない。だから他国へマタギ商売に赴いたりする者が後を絶たない。その旅マタギに出る者は、特に打当村と中村の山子に多かった。他にも追々マタギ商売に出る者がいたようである。」と記されている。この記録は、旅マタギを輩出した阿仁側の状況を裏付けるものとして貴重である。
  • 秋田藩では、天明3年(1783)、天保4年(1833)に大凶作になっているので、中間をとれば1800年前後に秋田マタギによる伝統的出稼ぎ狩猟・「旅マタギ(マタギ商売)」が始まったと考えられる。以来、旅マタギは昭和30年(1955)頃まで、約150年間続いた。(写真:マタギ発祥の地と言われる北秋田市阿仁根子)
  • マタギはなぜ巻物を創作、携帯したのか?
     仏教は生き物を殺生してはならないという教えがあった。また神道では肉を食べるとケガレるといって避けていたことが、広く浸透していた。だから神仏を助けることによって「日本中どこの山々でも、鳥獣の殺生を許された」という、狩猟に対する偏見を覆すようなストーリーを巻物にし、旅マタギを正当化すると同時に、越境のパスポートとして必ず携帯した
     木地屋文書やマタギの巻物、あるいはこれに似た偽文書は他の色々の職業の間にも見られたが、世の人々はこれに騙される場合も多かったと言われている。ただし巻物の最後に印がなければ信用してもらえなかったという。
  • 19世紀前半になると、秋山郷へ組織的な集団猟を展開する秋田の旅マタギが入ってくる。伝承によれば、秋田の阿仁から秋山郷まで120里(480km)、歩いて1ヶ月と10日、9足の草鞋を要したという。彼らは、近世から明治にかけて、阿仁から奥羽山脈の尾根を南下し、関東や中部山岳地帯までやってきた。車で走るだけでも丸一日かかるほど遠く、現代人にとっては、まるでスーパーマンのように見えてしまう。 (写真:秋山郷保存民家)
  • 伝承と過去帳等から復元した系図/大赤沢・藤ノ木家家系図
     初代忠太郎は、秋田県阿仁町打当から来た旅マタギで、同じく大赤沢の石沢家に婿入りした松之助の父親といわれる。没年、明治15年8月18日、92歳であった。この旅マタギは、大赤沢の藤ノ木家の分家養子という形で独立した。妻は、石沢家本家の娘であった。1826年、当時17歳であった松之助が父親の忠太郎を訪ねて大赤沢の小屋を訪れた。妻は、そのような人は知らないと答えたという。(家系図:第27回マタギサミットinさかえ/田口洋美)
  • 長男長衛門は、甥や親せきの若い者と犬を連れ、富山県の立山、石川県白山方面にもカモシカ狩りの旅に出ていた。明治期に秋山郷を訪ねた文人長塚節が、この長衛門家を訪ねて話を聞き、その様子などを詩人の伊藤佐知夫の元へ葉書で書き送っている。
  • 大赤沢・石沢家家系図/クマ獲り文五郎
     1809年生まれの松之助は、父の忠太郎を追って秋田から大赤沢を訪ねてきた。彼も石沢家の婿となった。子ども五人の男子は、皆猟師になった。石沢家を継いだ長松の三男文五郎は、小赤沢山田家の婿養子に。彼は「クマ獲り文五郎」と呼ばれ、猟のことなら神様のような人で、秋山郷の猟師組の土台を築いた人物であった。(家系図:第27回マタギサミットinさかえ/田口洋美) 
  • 文五郎のエピソード
     大正3年、小赤沢の鉄砲水で家も家財道具もみな流され無一文になった。新しく家を建てるため、70円もの借金をした。貸し手は「どうやって返すつもりだ」と聞くと「猟をやって返す」と啖呵を切った。その年の冬から春、毎日山に入って、一年もならないうちに百何十円も猟で稼ぎ、借金を返したという。村人たちは、この一件で猟がどれほど現金収入になるかを思い知らされた。以来、村人の何人かは文五郎の弟子となり、山猟と川漁を学び始めた。(写真:秋山郷総合センター「とねんぼ」/秋山マタギ 山田文五郎翁) 
  • 「島田汎家文書」(1846年)
     藩主が好んで行った鷹狩りに用いる鷹を特別に保護する山を巣鷹山と呼んだ。その山を保護するために巣守と呼ばれる人たちが巣鷹山を管理し、人の出入りや木の伐採を禁じていた。藩政時代の秋山周辺には巣鷹山と呼ばれる山が何ヵ所もあった。小赤沢に近い巣鷹山は、大赤沢の対岸にある高倉山であった。
     「島田汎家文書」(1846年)には、「37、8年前から羽州佐竹様の御領分の産まれという狩人4、5人が秋山の村や山際の村にとどまり、春夏秋冬の分かちなく一年中殺生している。・・・5人7人巣守に出て注意しても、かえって彼らにケガをさせられることもある」と、密猟を取り締まってほしい旨、巣守の総代が代官所に願い出ていたことが記されている。1810年代初頭以降、秋田の旅マタギが秋山郷まで来ていたことを裏付ける貴重な記録である。(写真:第27回マタギサミットinさかえ/田口洋美) 
  • 熊の落とし穴
     1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあった。落とし穴は、深さが3.5m~4.5mとかなり深い。この穴を一人で掘ることは不可能で、村仕事として掘られたと推測されている。当時、専門的な狩猟技術をもたない秋山郷では、農作物被害、人身被害に悩まされていた。また熊の胆など漢方薬の需要が高まっていたこともあり、害獣駆除と利用を兼ねて村総出で熊の落とし穴を掘ったと考えられる。(写真:第19回マタギサミットin栄村) 
  • 旅マタギは、巣守側にとってみれば、狩猟禁止区域を荒らす密猟者、犯罪者である。しかし、村にとっては、彼らを受け入れることによって、害獣を換金資源として利用する技術と市場を得る救世主であったに違いない。大赤沢に婿養子として定着した阿仁マタギの親子や鈴木牧之を案内した湯守の彦八、和山集落の湯守も秋田マタギが婿養子となって定着したという。これは、秋山郷一帯がクマやカモシカなどの野生鳥獣、岩魚の宝庫であったことに加え、群馬県の草津温泉や奥志賀高原の発ぽ温泉、熊ノ湯温泉、湯田中温泉など市場に恵まれていたためであろう。(写真:秋山郷総合センター「とねんぼ」・秋山マタギの狩猟文化) 
  • 病気療養の湯治客たちにとって、肉や熊の胆、カモシカの脂で作った膏薬、新鮮な岩魚などをもたらす旅マタギは、さぞ喜ばれたに違いない。
  • こうして中部東北へと広がっていった旅マタギたちの中には、旅先で婿養子になったり、地元にマタギがいない所に移住するなどで定着し、分家のような形で猟師組が形成されていった。こうしてマタギ文化は、中部東北の村々に伝播され・・・今日のマタギサミットへとつながったのである。(上写真:草津温泉/下写真:イワナ/秋田くすり今昔物語・秋田県立博物館)
参 考 文 献
  • 「マタギを追う旅-ブナ林の狩りと生活」(田口洋美、慶友社)
  • 「現代口語訳信濃読み物叢書8 秋山記行」(鈴木牧之、信州大学教育学部附属長野中学校編)
  • 「狩猟伝承」(千葉徳爾、法政大学出版局)
  • 「栄村誌 歴史編」(栄村教育委員会)
  • 「山漁 渓流魚と人の自然誌」(鈴野藤夫、農文協)
  • マタギサミット配布資料