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元気ムラの旅10 人形道祖神の聖地・大館市山田探訪

  •  2024年6月1日(土)、森の学校2024「元気ムラの旅シリーズ10 人形道祖神の聖地 大館市山田探訪」が、大館市山田地区で開催された。参加者は49名。中世の侍たちの名残と言われる迷路のように入り組んだ山田集落を歩き、人形道祖神・山田のジンジョ様や土蔵、山田の歴史が詰まった八幡神社などを見学した後、山田特選弁当で昼食。午後から住民が運営する商店「Storeたんひ」で、達人が田代岳で採った旬のタケノコやミズ、ワラビなど恵み豊かな山の幸の直売を見学、買い物を楽しんだ後、庭園が美しい洞雲寺や旧山田小学校を見学・・・ブナ帯に位置する山田の恵み豊かな自然と山田固有の歴史、文化について学んだ。
  •  今回は元気ムラの旅10周年記念として、2023年12月に行われた山田赤坂の「ジンジョ祭り」を取材した記録や「浅利氏と山田の歴史」についても「特集記事」として後述する。
  • 主催/秋田県森林学習交流館・プラザクリプトン
  • 協賛/(一社)秋田県森と水の協会
  • 協力/大館市山田部落会
  • 山田集落散策コース・・・Storeたんひ→山田のジンジョ様→土蔵→八幡神社→田代公民館山田館(昼食)→Storeたんひ→洞雲寺→旧山田小学校(歴史等展示物)   
  • 開校式・・・玄関先に「歓迎 山田さ、よぐ来てけだしな」の横断幕を掲げて歓迎していくれたのは嬉しい!
  • 山田集落散策ガイド・・・左上から山田部落会会長赤坂実さん、副会長藤島光雄さん、ナカラ会(歴史保全)事務局田村金彦さん、洞雲寺ご住職さんの4名 
  • 小高い丘に家屋が密集する山田集落に向かってスタート  
  • なぜ山田は「人形道祖神の聖地」と呼ばれているのか?
     「秋田人形道祖神プロジェクト」を展開する郷土史研究家小松和彦さんによると・・・秋田の人形道祖神は、150カ所以上に祀られ、高さ4mを超すワラ人形や数々の強豪がひしめきあう。そんな激戦区の中で、山田のジンジョ様はナンバーワンの称号「人形道祖神の聖地」と呼ぶ理由を3点あげている。、
    1. 一集落にジンジョ様は8カ所16体と数が圧倒的に多いこと。
    2. 「男女一対」、「共に立派な性器を持つ」という人形道祖神の古い形態を残していること。
    3. ジンジョ祭りでは、独特の儀式や古いまじないがあること。ジンジョ祭りのハイライトは、隣り合った常会の男神と女神を交わらせるようにぶつけあう「ぶっつけ」を行うこと。
  • 詳細は、山田赤坂のジンジョ祭りを取材した「人形道祖神 ジンジョ祭り」を参照。  
  • 旧岩澤家・・・製材所を営むなど大事業家で、かつてはここから洞雲寺までが岩澤家の土地だったというからスゴイ!現在は売却し、民間の保養所になっているという。
  • 平地はほとんど田畑で、細く曲がりくねった迷路のような小高い丘に家屋が密集している。歴史を遡ると、戦国時代には、度々戦火で村が半焼する被害が記録されている。 (写真:大館市山田PRムービーより)  
  • 山田集落には、立派な土蔵が多い・・・山田は昔から火災が多く、近代に入っても、明治39年新築校舎全焼・民家67戸類焼、昭和4年70戸を焼く大火、昭和23年5月10日には村史上最大の大火が発生し住宅108戸、非住家168棟を消失する甚大な被害を受けている。防火対策として盛んに建てられた建造技術「土蔵」が山田に特に多いのは、昔から大火を繰り返した苦難の歴史があったからだという。
  • 八幡神社の鳥居/八幡神社鳥居の右側に鎮座したジンジョ様  
  • 八幡神社と勝山越後三郎
     八幡神社は、山田地域を一望できる高台にある。この高台には、山田に古くから住んでいた地侍・勝山越後三郎(以下三郎)の居館「山田館」があった。後に浅利氏の逆臣として無念の死を遂げた三郎の霊を祀ることから、通称「勝山八幡」と呼ばれている。
  • 八幡神社の境内には、「史蹟 勝山越後三郎一族終焉之地」の慰霊碑がある。さらに洞雲寺の山門の傍らにも「勝山越後三郎一族郎党弔魂之碑」を建てている。
  • さらにさらに、旧山田小学校には、平成10年度卒業記念に製作された「勝山越後三郎物語」の大きな絵が展示されていた。山田の人々にとって、三郎一族に対する思いの深さを実感させられた。 
  • 上左 ご神木/右上 八幡神社 /右下 山田の歴史を語る田村さん
  • 勝山越後三郎と山田
     「田代町史」によれば、1539年10月、19歳の三郎は浅利則頼の独鈷城に馬を馳せ、260石の所有田地に馬一頭を添えて忠誠を誓った。山田の山を隔てた花岡城主の弟・定頼は「独鈷城落慶の祝いの席に鎧を身に着けて現れるとは、場所をわきまえない所業だ」と激怒し、「田舎者!」と罵倒した。以来、二人の仲は悪くなる。当主が勝頼に代替わりすると、さらに深刻な対立を生み、1574年、三郎は定頼が花岡に帰る途中、萱刈岳(下の写真)で弟を討ち取ってしまう。それを知った勝頼は、山田館の三郎の屋敷を攻め、死闘の末、三郎一族は滅亡、壮絶な最期を遂げた。この戦で山田村に戦火をもたらしたにもかかわらず、三郎は多くの同情を集め、籠城中に酒樽や干し魚を密かに届けたり、跡形も無くなった荒れ地に地蔵を埋めて供養する者が現れたという。
     山田の村人たちが、三郎を八幡神社に祀るようになったのは、浅利氏滅亡後だと推測されている。時期は不明だが、江戸時代半ばには、八幡神社は勝山八幡として慰霊していたことが「浅利軍記」に記されている。
  • 八幡神社から萱刈岳を望む・・・山田から萱刈岳の尾根を越えると、三郎と対立した弟の浅利定頼が居城する花岡城があった。
  • 菅江真澄「にえのしがらみ」(1803年6月)・・・「萱刈平のほとりに勝山という山があり、今は寒山と人々は呼んでいる。そこで某年12月1日、浅利の軍勢がやぶれて、浅利定頼が討死した」と記している。
     また真澄は、大館市松峰神社で一夜を過ごし、翌日松峰山に登り、山田側を眺望し、「遠く見える部落は保滝沢(山田)で、山のかげに趣深い滝もあると話しながら、あそこだと指さして教えた・・・右手にのぼってゆくと、北に長走山をはじめ山々が高くつらなり、西に田代岳、あるいは越山の十ノ瀬、近くには寒山(萱刈山)・高森・目名市の倉の沢・岩瀬の赤倉の岳など、左手のま近い山は山田の薬師峯、その麓のあたりの多くの部落などが雄大に眺望され、このカブト石の崖に立って見渡す景観はまことに素晴らしい」と、景観の素晴らしさを絶賛している。  
  • 山田村の創設者・・・「山田村村史」には、村の創設として①浅利助右衛門説、②田村金助兄弟及び田村長左衛門説、③岩沢兵治エ門説、④浅利与作説の4説を紹介している。 (写真:大館市山田PRムービーより) 
  • 山田の歴史は、「源頼朝の奥州征伐」の恩賞として比内郡を支配するようになった浅利氏抜きに語ることはできない。その詳細は「浅利氏と山田の歴史」を参照。  
  • 旧家   
  • 田代公民館山田館にて、山田特選弁当で昼食。
  • 住民が運営する商店「Storeたんひ」の見学&買物 ・・・店の名前「たんひ」とは、「~してください」という意味の方言で、「たんせ」が訛ったもの。併設している交流サロン「Cafe Acco(カフェあっこ)」の「あっこ」は、“あっこさいくべ(あそこへ行こう)”から引用し、山田子ども会が命名したという。 
  • 山菜採りの達人が田代岳で採った旬のタケノコやミズ、ワラビなど恵み豊かな山の幸の直売 。採取の模様は、山田集落=達人ブログ=を参照  
  • タケノコ文化を生んだ「田代岳」=ブナ~チシマザサ(ネマガリダケ)群落
     田代岳登山道沿いは、延々ブナ林と、その林床にチシマザサ群落が広がっている。チシマザサは、別名ネマガリダケとも呼ばれ、シーズンになるとツキノワグマも人間も大好きなタケノコが次から次へと生えてくる。田代岳の麓に位置する山田の人々にとって、田代岳の恵み「タケノコ」は、山菜採りの筆頭で、古くから田代岳産タケノコを採って食べる食習慣は、まさに「タケノコ文化」そのものである。(写真:田代岳登山道沿いのブナ~チシマザサ群落)
  • おススメ料理は「タケノコ汁」(写真:田代岳産タケノコとミズ)
     タケノコは、アクがほとんどなく、味は上品で淡白、香りや舌ざわりもすこぶるよく、雪国では最も人気が高い。特に採りたてのタケノコを使った「タケノコ汁」は格別に美味しい。まずあたためた鍋にサラダ油で豚バラを炒め、水とタケノコを入れる。アクをすくいながらタケノコが柔らかくなるまで煮る。八分目ぐらい煮えたところで、皮をむいたミズ(ウワバミソウ)味噌を入れ、味がしみこむまで煮込めばできあがり。
  • 月田山洞雲寺(つきたやまとううんじ)
     月田山洞雲寺は、元々柏木村月山の麓にあった。山号の月田山は、それに由来する。口碑によれば、寛文年間(1661~73)に旧比内領主浅利氏ゆかりの人々が、同氏の菩提寺である大館玉林寺7世和尚を勧請開山として柏木村の月山山麓に創建。当初は密教系であったという。安永年間(1772~81)に柏木の地で火災があり、曹洞宗に改宗して現在地に本堂が移転され、庭園と共に再建立された。それら全て、秋田藩一の鉱山師・豪商伊多波武助(いたばぶすけ)が寄進したと伝わる。  
  • 本堂前庭に高さ6mほどの仏塔の一種・宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。これも五代目伊多波武助が、鉱山の犠牲者を弔うために寄進したという。
  • 伊多波武助屋敷跡・・・岩瀬集落に「伊多波氏の旧跡」と刻む石碑がある。
  • 鉱山師・豪商 伊多波武助(いたばぶすけ)
     元は高橋姓で、伊多波という名字は、生まれ故郷の伊勢国多気郡波多瀬村の頭文字をとって創作した名字である。屋号は「松坂屋」と言い、松坂武助とも名乗った。伊勢から秋田にやってきた武助は、阿仁鉱山の請山主や田代岳奥地の長慶金山も経営した鉱山師・豪商で、岩瀬集落の西端に豪華な屋敷があった。藩への多額の献金によって、1千石の士分に取り立てられた新家武士の第1号でもある。
     1788年、古川古松軒の「東遊雑記」には、「綴子より大館まで五里の間に、岩瀬村という所に板場武助と称する豪家あり。家造り至って美々しく、かかる辺鄙にも都がたにも稀なる家もあるや」と記されている。他に高山彦九郎の「北行日記」、伊能忠敬の「測量日記」などの道中記にも記されている。彼のように秋田で複数例引用された人物は他にいないと言われている。
     秋田藩との交渉の便宜のため藩から土地を提供された別宅が秋田市土崎にあり、現在その跡に伊多波稲荷神社がある。土崎湊では、ニシンの売買を一手に扱い、廻船問屋なども営んだ。  
  • 参考:長慶金山伝説(真澄図絵:鉱山の坑口/灯火に使う竹を刈る笹小屋/秋田県立博物館蔵)
     田代岳より左の奥にある長慶森は、長慶金山の跡といわれている。天明年間、佐竹藩の御用商人伊多波武助が採鉱経営をし、金を藩に上納していたが、幕府に金山の譲渡を迫られ、鉱脈が尽きたと嘘の理由で閉山した。口封じのため鉱夫全員を生き埋めにし、金山の跡も容易に見分けられないようにしたと伝えられている。
     また津軽相馬村に流落した南朝の長慶天皇が開いたとの伝承もある。近年まで、鉱脈を探しに入山する人が絶えなかったことから、「幻の金山」と呼ばれている。
  • 檀家は山田だけでなく、岩瀬、川口、早口、外川原地区にわたり、田代地区第一のお寺。
  • 洞雲寺庭園・・・山田のシンボル・茂屋方山を借景にした庭園は素晴らしい。上の松の奥にそびえる三角山が茂屋方山である。ツツジの花は終わっていたが、花の最盛期は庭園の美がクライマックスになるという。
  • 旧山田小学校・・・明治7年洞雲寺を教場に開校し、平成20年山瀬小学校へ統合となり閉校。   
  • 山田獅子踊り
     慶長7年(1602年)佐竹義宣公が水戸(現茨城県)から秋田に国替えを命ぜられた折、主君を慰めると同時に行軍の士気を鼓舞するために演じられた道中芸が始まりとされている。こうした県内の「獅子踊り、ささら」は、主として米代川流域の県北部と仙北地方を中心とした県中央部に分布している。いずれも水戸の「ささら(獅子踊り)」と関連付けて伝承されているが、これは芸能の権威付けという面が強く、元々それ以前から存在した芸能が佐竹氏の転封による影響も受けて伝承されてきたと考えるのが妥当と言われている。従って、山田の獅子踊りの起源はもっと古いと思われる。
     山田獅子踊りは、幟を先頭にして、演舞者や付き人など大勢で行列をなして集落内を巡り演じられていく。演舞する場所は、八幡神社、洞雲寺、地域内各所。(写真:大館市山田PRムービーより) 
特 集 記 事
参考:大館市山田PRムービー
  • 【大館市山田】PRムービー 冬編 (山田部落会)
  • 【大館市山田】PRムービー 夏編 (山田部落会)
  • 【大館市山田】PRムービー 秋編 (山田部落会)
参 考 文 献
  • 「田代町史」(田代町)
  • 「田代町史 別巻」(田代町)
  • 「秋田の中世・浅利氏」(鷲谷豊、無明舎出版)
  • 「大館の歴史」(大館市教育委員会)
  • 「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
  • 「秋田の歴史」(新野 直吉、秋田魁新報社)
  • 「菅江真澄遊覧記」(内田武志・宮本常一編訳、平凡社)
  • 「菅江真澄、旅のまなざし」(秋田県立博物館)
  • 「菅江真澄図絵の旅」(石井正巳、角川ソフィア文庫)
  • 「秋田と伊勢商人」(金児紘征・秋田大学名誉教授)
  • 「京都・観光文化検定試験公式テキストブック」(京都商工会議所編、淡交社)
  • 「日本の神々と仏」(岩井宏實、青春出版社)
  • 「手にとるように民俗学がわかる本」
  • 「本県の人形道祖神展示 品川で企画展」(秋田魁新報2024年2月4日)
  • 「月田山洞雲寺」(第31世現住嵩仁芳、副住嵩佑悦)
  • 山田部落会 – YouTube・・・大館市山田PRムービー夏編、秋編、冬編
  • パンフレット「やまだより」(山田部落会)