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緑の遺産④ 天然秋田スギと歴史の道

矢立峠風景林

  • 秋田・青森県境に位置する「矢立峠」(258m)は、旧羽州街道随一の難所であったことは昔から知られている。その峠は、江戸時代の紀行家・菅江真澄や伊能忠敬測量隊、長州藩士・吉田松陰、イギリス婦人旅行家・イサベラ・バードなど、数多くの先人たちが通った「歴史の道」である。
  • 旧街道が残る矢立峠一帯は、イサベラ・バードが絶賛したとおり、天然秋田スギの美林で有名であったが、戦後の復興用材などの伐採により、国道7号線沿いの一部を残すのみとなった。現在、矢立峠の国有林は、天然秋田スギの保存と自然散策、歴史探訪、周辺の温泉入浴など、保健休養の場として利用されている。
▲道の駅「やたて峠」 ▲「矢立風景林」の看板
  • 指定等の経緯
    昭和43年、約10haを「矢立風致保護林」に指定
    昭和47年、レクレーションの森「矢立峠風景林」に名称変更
    昭和54年、区域を約25haに拡大して「保健保安林」に指定
    平成9年、モデル的な健康保養の場「やすらぎの森」に選定
    平成14年、「白神・八甲田緑の回廊」に組み入れる
    平成15年、「後世に残すべき文化的景観」に選定
▲矢立峠遊歩道の起点と周辺案内看板
  • 散策の起点・・・道の駅「やたて峠」(電話0186-51-2311)に車を駐車し、遊歩道入口の看板からスタート。天然秋田スギの雰囲気を味わいながら旧羽州街道へとつながり歩きやすい。全コースの距離は、4.3km、所要時間はゆっくり歩いて2時間半ほどである。
  • 矢立峠の位置図(google地図)
  • 散策コース
     矢立遊歩道起点①天然スギ広場②伊能忠敬測量隊記念標③茶屋峠跡④一里塚跡⑤旧国境・矢立杉跡⑥御休所(茶亭跡)⑦イサペラ・バード記念標⑧明治天皇行幸碑跡⑨乗合馬車開通記念標⑩矢立橋跡⑪薬師堂
  • 問い合わせ先
    米代東部森林管理署 電話0186-50-6130
    大館市産業部観光課 電話0186-43-7072
▲整備された遊歩道 ▲天然秋田スギ ▲樹木名を記した札
  • 秋田藩最北の宿駅は、白沢宿で、ここにも津軽氏の本陣があった。しかし宿屋は、民家の兼業であったという。秋田藩の関所がある長走を越すと、奥羽の境の矢立峠である。  
  • 天然スギ広場・・・入口から階段の遊歩道を登ると、次第に天然秋田スギの雰囲気が満ちてくる。300mほど歩くと巨木が林立する広場に東屋がある。「矢立峠周辺案内図」の看板があるので現在地を確認する。残り少なくなった天然秋田スギ・・・平成3年9月28日の台風19号により243本が倒れる被害を受けたという、残念!。
  • イザベラ・バード「天然秋田スギの美林を絶賛」(日本奥地紀行)
     1878年(明治11年)8月2日、イザベラ・バードは、白沢を発ち、矢立峠に向かった。彼女は、「日本奥地紀行」の中で、天然秋田スギの美観を次のように絶賛している。
     「正午に白沢を出発した。美しい景色であった。自然そのままの谷間で、多くの山の峰が側面から谷間に下りてきて、暗いピラミッド型の杉が茂り、実に絵のような眺めであった。これこそ真に日本の美観である。・・・」
  • 「馬車も通れる広い道路で、りっぱな橋を渡って二つの峡谷を横切ると、素晴らしい森の奥へ入っていく。ゆるやかな勾配の長いジグザグ道を登って矢立峠に出る・・・
     私は今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい・・・いずれにもまさって樹木が素晴らしい。孤独で、堂々としており、うす暗く厳かである。そ巨大な杉は船のマストのように真っ直ぐで、光を求めて遥か高くまで、その先端をのばしている・・・
     樹木は香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日陰で、明るく輝く山間の急流は踊りながら流れ、そのとどろき響きわたる低音は、軽快な谷間の小川の音楽的な高音を消していた。」(写真:上小阿仁村「コブ杉」の天然秋田スギ)
▲古羽州街道 ②伊能忠敬測量隊記念標
  • 1800年、伊能忠敬測量隊は、奥州街道から津軽半島を経由して蝦夷地に渡り、函館から根室付近まで測量が行われた。その2年後、1802年、第三次測量において、大館から碇ヶ関に向けて矢立峠を越えている。
  • 古羽州街道と旧羽州街道・・・青森県側では、「明治新道」を「旧羽州街道」と呼んでいることから、それ以前の街道を「古羽州街道」と、区別して呼んでいるという。
③茶屋峠跡 ▲吉田松陰の漢詩碑
  • 1710年、幕府巡見使通過のため、秋田側は峠に茶屋をたて接待しておくったという。1852年、矢立峠を訪れた吉田松陰は、相馬大作事件の志に感銘を受けて詠んだ詩が、茶屋峠跡の案内板に記されている。
  • 相馬大作事件
     1821年、元南部氏の臣下であった津軽氏の主家を凌ぐやり方に堪えかね、南部藩士の剣客・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)が相馬大作(そうまだいさく)と名を変えて津軽公襲撃を企てた。その事件現場は、矢立峠に近い岩抜山とされ、門弟三人と待ち伏せ攻撃をかけ、南部公のうらみを晴らしたとされる。
     しかし、事実は密告により計画は洩れ、津軽藩主は、日本海沿いの迂回路・大間越街道を通って難を逃れたという。
     当時の江戸市民は、この事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は講談や小説・映画・漫画の題材として採り上げられ、「みちのく忠臣蔵」などとも呼ばれるようになった。矢立峠は、この相馬大作事件で一躍有名になった。
  • 矢立峠一里塚跡・・・「江戸日本橋から百七十六里」と刻まれている。一里塚より先の道は、二股に分かれている。標識もなく、一瞬、どちらに行くべきか戸惑うが、どちらを通ってもほどなく道は合流していた。ここは、稜線を挟んで左手が秋田藩、右手が津軽藩が通った道だという。お互い自領を通ったために道が二本できているという。
▲旧国境・矢立杉跡
  • 「矢立峠」の名の由来・・・矢立杉の根は、朽ち果ててほとんど形がなくなっているが、津軽境いのこの地に矢立の杉があったことによるという。「矢立」は、弓に矢をつがえて射立てることからきている。昔、津軽と大館の戦の時、双方よりいくさ神の吉凶占いとして矢を射たことから「矢立の杉」と呼ばれている。
  • 菅江真澄「矢立峠」・・・1785年8月22日、菅江真澄は矢立峠を越えて秋田領に入る。(外が浜風)
     「山やま道みちの大木が折れふしたり、傾いているのは、去る6日の大風によってである。一本の大杉のまわりに柵をして囲ってあるのは、津軽領と秋田領の境のしるしである。関屋を二つ越えてきて、矢立峠の九曲がりを下り終わって、再び出羽の国に入り・・・長走村(大館市)という山里に宿を求めた。」
  • 御休所(茶亭跡)・・・旧国境・矢立杉からほどなく津軽藩主の休憩所となった広場がある。周囲も明るく、ベンチもあり休むには絶好の場所である。説明板には、ここに矢立杉があったといい、そこが藩境であったと記している。秋田、津軽両藩は、境界をめぐって大いにもめたであろうことが推察される。
  • 苔生す階段を下って行くと、カーブ地点に「見返坂」の標柱があり、ほどなく明治新道と合流する。真ん中の写真の橋は「矢立橋」である。
  • 明治新道・・・「秋田県土木史論」によると「旧道はとても険しく拓き難く、西方の山腹に良線を得たり」とある。旧峠は、下内川源流を詰め上げた東側にあり、以降、西方に明治新道が開かれた。
▲古い標識(明治新道) ▲新しい標識 ▲右手に下がると峠下番所跡
▲青森県側の明治新道起点「峠下番所跡」
  • 「歴史の道」説明看板によると・・・1586年、津軽藩が険阻な矢立峠を切り開いたことによって、羽州街道が津軽地方まで延長されるようになった。1662年から江戸参勤の公道として整備利用された。明治10年に新たに矢立峠を切り開くこととなり、新矢立峠が切り開かれた。この羽州街道は、明治25年まで利用され、現在の国道7号線に変わった。
  • イサペラ・バード記念標・・・明治10年、明治新道が新しく切り開かれ、その翌年の夏にイサベラ・バードが明治新道を歩き、「私は今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい」と記している。
  • 明治天皇行幸碑跡・・・明治14年、二回目の東北巡幸の際に明治新道を行幸された
  • 乗合馬車開通記念標・・・明治22年、青森・秋田乗合馬車開通
▲明治新道の起点にある看板
▲薬師堂・・・矢立温泉赤湯にある薬師堂が明治新道の起点 ▲イサベラ・バード記念碑
  • 歩道や看板は、大館市、地元の歴史研究会、企業のボランティアにより整備されているという。その地道なご努力に深く敬意を表したいと思う。
▲長走風穴館内部
  • ちょっと寄り道「長走風穴高山植物群落」(国指定天然記念物)・・・風穴は、石英粗面岩からなる間隙の多い地質と地下の冷所の存在という二つの要素による。夏は、山腹の随所から冷風がが吹き出し、盛夏でも10℃未満の地温を保っている。冬は、逆に温風穴から暖風となって吐き出される。わずか標高188m地点の狭い範囲に数十種の美しい高山植物が群生している。
  • 観察できる植物・・・コケモモ、ヤナギラン、ベニバナイチヤクソウ、オオタカネイバラ、ゴゼンタチバナ、ナンブソウ、エゾリンドウなど
  • ちょっと寄り道その2「芝谷地湿原植物群落」(国指定天然記念物)・・・芝谷地湿原は、多くの湿原植物が生育し、低地湿原の特徴をもつ。市街地周辺に残っているのが珍しく、周囲の環境から遮断されていることもあり、昔から固有の生態が維持されている。昭和11年、国の天然記念物に指定。73種もの湿原植物が見られ、バンやカイツブリ、カルガモなどの水鳥たちも多数やってくる。
  • 観察できる植物・・・ザゼンソウ、レンゲツツジ、ハナショウブ、トキソウ、タチギボウシ、チダケサシ、クサレダマ、ヒメシロネ、サワヒヨドリ、アギナシ、ミズトンボ、サギソウ、サワギキョウ、エゾリンドウ、モウセンゴケ、ミズオトギリ、ミミカキグサなど
▲ハッチョウトンボが観察できる「トンボデッキ」 ▲食虫植物「モウセンゴケ」
  • 湿原内部に突きだした木道の「トンボデッキ」の傍らでは、モウセンゴケやミズオトギリ、ミミカキグサを観察できる。
  • ちょっと寄り道その3「大館郷土資料館
     大館の自然、産業、歴史、民俗などを学ぶことができる施設。特に大館の伝統工芸品「曲げわっぱ」の展示や、併設している秋田三鶏記念館では、国指定天然記念物の声良鶏(こえよしどり)、比内鶏(ひないどり)、県指定の金八鶏(きんぱどり)をみることができる。
  • 大館郷土博物館 電話0186-48-2119
  • 国指定伝統的工芸品「秋田杉桶樽」
     桶や樽は古くから穀物の保存や水槽に使われてきたが、日本三大美林に数えられる秋田杉を活用した秋田杉桶樽は桶や樽として日本で初めて国指定の伝統工芸品となった。秋田スギを使った桶樽の歴史は古く、秋田城からは平安後期と推定される桶が見つかっている。
     江戸時代には、藩の保護のもと産地が形成され、大館でも大量に生産された。昭和30年代までは、全国的に需要が伸びたが、合成樹脂製品が出現すると急激に減少した。
  • 国指定 伝統的工芸品「曲げわっぱ」の展示
     現在、大館の「曲げわっぱ」製品は、樹齢160年を超す天然秋田スギが使われている。秋田音頭にも唄われている「大館曲げわっぱ」は、古くから山村農家の副業として作られていた。江戸時代、下級武士の副業として奨励され、本格的に生産されるようになった。
     明るく優美な木肌と木目が美しい天然秋田スギを使った大館曲げわっぱは、昭和55年、国の伝統的工芸品に指定され、昔ながらの盆、弁当箱、茶器などのほか、コーヒーカップ、ジョッキ、テーブルなどの新しいデザインも数多く生産されている。
参 考 文 献
矢立風景林パンフレット(PDF、米代東部森林管理署)
「東北の峠歩き」(藤原優太郎、無明舎出版)
「東北の街道 道の文化史いまむかし」(渡辺信夫、無明舎出版)
「日本奥地紀行」(イザベラ・バード、平凡社ライブラリー)
「菅江真澄遊覧記」(内田武志・宮本常一編訳、平凡社ライブラリー)
各種観光パンフレット(大館市産業部観光課)
緑の遺産① 緑の遺産② 緑の遺産③ 緑の遺産④ 緑の遺産⑤ 緑の遺産⑥ 先人① 先人②