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先人に学ぶ① 栗田定之丞

 秋田県の海岸線の延長は263kmに及ぶ。このうち八森浜田、男鹿半島、金浦・象潟の岩礁地帯を除くと全て砂丘の発達した砂浜である。その砂浜には、秋から早春の半年間、シベリアから吹きつける北西の季節風が、絶え間なく日本海の荒波と飛砂(ひさ)を叩きつける。海沿いの村々では、田畑や道路、家までも埋め尽くしてしまう飛砂の被害に苦しんでいた。それを防ぐべく、多くの篤志家たちが砂防林の造成に心血を注いだ。

 しかし、その苦労や努力は、狭い地域の点に終始していた。そんな中、栗田定之丞の功績は絶大であった。緻密な観察によって、古ワラジやカヤを束ねて飛砂を防ぎ、その後方に柳やグミを植え、根付いたら松苗を植えるという栗田流の植林法を確立。

 現在の能代市から秋田市までの120kmにわたる砂丘地一帯に植樹し、田畑や家屋が砂に埋められることのない黒松の砂防林を完成させた。「栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸をまもるようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった。」(「秋田県散歩」司馬遼太郎)

※ 絵は、全て進藤武インストラクターの作品
栗田定之丞の生い立ち

 1767年1月17日、久保田城下の下級武士・高橋内蔵右衛門の三男として生まれた。幼名は仁助といった。「貧乏の子だくさん」・・・仁助は、口べらしのために養子に出されることになった。仁助を養子にと申し出たのは、城中の清掃を行う掃除役の家であった。仁助は、「一般の家臣にさげすまされて勤めることはがまんできません」と、その養子話を断ったという逸話が言い伝えられている。

 1780年、仁助14歳の時に栗田家の養子となり、小右衛門、後に定之丞如茂(さだのじょうゆきしげ)と改名している。17歳で郡奉行配下の吟味役、後に藩の財政管理・会計事務の補助職員から正職員となった。1791年、25歳の時に定加勢に取り立てられたが、病気のため、その年の12月に退職してしまった。病気療養中に、養子先の娘・金子と結婚、長男茂教(しげのり)が生まれる。
 当時、異国船の出没が相次いでいたが、秋田藩周辺には、ロシア船が多かった。幕府の老中・松平定信は、これをもって日本国の危機とみなして海防策をたてた。1791年、海岸をもつ諸藩に、警備の万全を期すよう令達した。秋田藩では、秋田市浜田の海岸に見張番所をたてた。

 1796年8月、栗田定之丞は、その外国船の警備をする番人の職にありついた。彼は、海岸を眺望する小高い丘の上の番所で、夏、秋、冬、春と、海岸の様子をつぶさに観察・・・外国船は見なかったものの恐ろしいものを見てしまった。飛砂である。翌年、定之丞は林取立役を命ぜられ、物書兼砂留役を兼任することになった。
菅江真澄が描いた砂丘(秋田県立博物館蔵・写本より)

 1804年4月、菅江真澄は、萩の台から砂丘を登り、能代港を眺めた絵図を描いている。右下の集落が出戸村で、その上の人家が能代の町屋と、現在能代公園のある日和山、左下のわずかに草で覆われている砂丘が大森稲荷神社であろう。この絵図から、当時の能代は、広大な砂丘地帯で、飛砂による被害が激しかったことが分かる。
砂留め植林工事

 彼の任地は、山本郡だった。ところが、黒松を植えるための砂防柵を作っても、一冬立たないうちに砂に埋もれてしまった。砂丘は年々面積を広げ田畑だけでなく家まで埋めるほどであった。その砂留め工事には、多くの人手がいるが、藩の財政がよほど苦しかったのか、人夫賃は一切出なかった。その冷淡な対応をみれば、点と点をつないで線になるような海岸砂防林事業の困難さが、いかに大きかったかが伺える。
 まず彼は、砂留めに詳しい浜田村の肝煎・金子兵左衛門、浅内村の肝煎・原田五右衛門、水沢村の肝煎・銭谷庄蔵の三人を招いて、これまでの体験をつぶさに聞き取りした。さらに、北は八森から南は芦崎村まで、南北28kmを海岸伝いに歩き、土地の人々の話も聞くなど、学習行脚を行った。

 さらに砂丘に貧弱な掘立小屋を建て砂防林の植栽研究に没頭した。寒中、ムシロをかぶって砂丘に寝るほどの熱心さだった。そしてついに現代の植物生態学からみても極めて合理的な植林方法を見出したのである。
 まず最初は、防風の備えとして、古草履やワラ、カヤを束にして砂に半ば埋めて、その陰に柳を植える。翌年に活着すると、グミの木とハマナスを植える。その次の年は風下にネムを植え、これが根付くと初めてその風下に松苗を植えるという、栗田方式の植林法「塞向法(さいこうほう)」を考案した。
 彼は、集落をまわって説得を重ね、自ら植栽現場を陣頭指揮して栗田方式の砂留め植林を進めていった。しかし、人夫賃はゼロ・・・かり出される村人の不満は大きかった。「ただで働いてくれまいか」と頼むので、定之丞をもじって「タダ(無料)之丞」と呼ばれていたらしい。あるいは、駄々をこねるように、しつこく頼むので「ダダノジョウ」とも呼ばれていたとの説もある。さらに「火の病つきて死ねよ」とののしるほど嫌う者もいたと言い伝えられている。それでも、渋々従った理由について、司馬遼太郎は次のように書いている。

 「彼は、砂の動くさまを知るために、寒中、ムシロをかぶって砂丘に寝ることも多かった。死にやがれと思いつつも一揆をおこすわけにもいかなかったのは、この熱心さだった。」(「秋田県散歩」司馬遼太郎著)
▲昭和初期、グミやクロマツを植栽 ▲風の松原(能代市)

 数年後、それらの植物が根付き点から線となって勢いづくと、砂の上にも植物が生えることを、藩も農民も知ることとなる。1805年、藩は海岸砂防林の功を讃え、定之丞に二十石の加増を与えた。

 「藩は、わずかながら、定之丞の石高をふやして、その功にむくいた。窮乏していた藩財のなかで、たとえわずかでも加増などというのは、奇跡のようなものだった。農民の方も、無料でこきつかわれることに、やっと納得した。」(「秋田県散歩」司馬遼太郎)

 山本郡に次いで、秋田市中野・飯島地区の工事に着手。1816年から三年かけて、この地区の砂留めもできあがった。
▲昭和30年代、人工砂丘を造成して後方にクロマツを植栽。

新屋村の再興

 新屋村は、もともと山林もあり、製塩が盛んに行われていた。この製塩に焚く薪の乱伐で海に近い西山は砂山と化してしまった。毎年激しい季節風が吹き荒れる冬を越すと、田畑ばかりか家まで砂に埋まり、かつて千軒あった村が半減するほどだったと言い伝えられている。

 新屋村では、これまでグミの木を植林したが、その1割程度しか根付かなかった。だから、定之丞が黒松を主として植林するという計画に強く反対したという。しかし彼は、山本郡での実績に自信を持っていたから、強硬に自説を貫いた。1814年、大事業を完成させている。新屋村北部「勝平山」一帯の砂防林は、栗田方式を継承し1822年に始まり、1832年に完成している。それは、定之丞の没後5年後のことであった。
▲栗田神社(秋田市新屋) ▲栗田君遺愛碑

 新屋村の肝煎・武兵衛の記録によると、「草木もよく育ち、燃料の柴や山カヤも近いうちに刈り取れる。ことグミの実は8月から10月まで村の小さな家々の女房子供の収穫物となり、村中一日50人平均、城下にグミ売りをし、一斗から一斗五升ぐらいをさばき、一升二十文として十貫文になり・・・」(「秋田県の歴史」新野直吉、秋田魁新報社)

 だから新屋の住民は、栗田定之丞の遺徳をたたえ、1832年遺愛碑を刻み、1857年には栗田神社を建て、「栗田大明神」「公益の神」として祀っている。社殿は新屋割山にあったが、雄物川の改修工事に伴い、大正元年に現在地の新屋三ツ小屋に移転している。
▲栗田定之丞肖像画写本(進藤武)
参 考 文 献
「江戸時代 人づくり風土記5秋田」(農文協)
「秋田県散歩・飛騨紀行」(司馬遼太郎、朝日文庫)
「松に聞け 海岸砂防林の話」(畠山義郎、日本経済評論社)
「秋田の海岸砂防林」(秋田県)
「緑の遺産 秋田の砂防林その1・その2」(秋田県林業コンサルタント)
「秋田県の歴史」(新野直吉、秋田魁新報社)               
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