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INDEX 基層文化①      
  • 北の縄文文化
     かつて日本の開始は、大陸から進んだ文化を持った人々が渡来してきて、水田稲作を始めた弥生時代からと教えられた。「日本書紀」に記されたエミシは、五穀も家もなく、肉を食して深山の木の下に眠っていると記されている。ましてそれより遥か以前の縄文文化は、先住民族の遅れた人々の異文化であり、考古学の世界でも軽視されていた。
     ところが最近は、弥生文化に端を発する現代文明に疑問を感じる人々が増え、弥生時代以前に1万年も続き、森と共生してきた縄文文化に関心が寄せられるようになった。特に三内丸山遺跡の発見は、「未開の野蛮人」といった偏見を覆し、堰を切ったように縄文時代への関心が深まった。今や「縄文人は我々の祖先」というのが定説になっている。
  • 縄文人の祖先
     最新の研究結果によると、縄文人の祖先は、東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州に入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があるという。富山市の小竹貝塚で出土した多くの人骨DNA鑑定によると、北方系と南方系の人たちが一緒に暮らしていたことが判明している。
     我々の祖先は、既に縄文時代から、北方系と南方系が混住していたことが分かる。こうしたDNA鑑定による日本人のルーツ探しに興味がないわけではないが、むしろ東北の基層文化は、ブナ帯の自然と風土が決定的な要因になっているように思う。
  • 1万年以上も続いた縄文文化
     氷河期の日本列島の植生は、北海道は森林ツンドラ、本州は針葉樹が主体で荒涼な環境が支配していた。やがて気候の温暖化によって、今から約1万5000年前になると、列島の多くがブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林とシイ、カシなどの照葉樹林で覆われ、今日の植生ができあがった。縄文時代は、この頃から約2300年前に稲作農耕が渡来するまで1万年以上も続いた。
▲ブナ ▲ミズナラ
  • 縄文文化は東高西低・・・日本の歴史は、西高東低だが、縄文時代に限れば、東高西低だった。その最大の理由は、東日本の落葉広葉樹林と西日本の照葉樹林という植生の違いである。広葉樹林には、ブナやクリ、ナラ、トチ、クルミなどの実が豊富で、これらの堅果類が人間だけでなく、野生鳥獣にとっても貴重な食糧となっていた。
     さらに、山菜やキノコ、イワナやヤマメ、サクラマス、サケなどのサケ科魚類の宝庫でもあった。従って、狩猟漁労採集を生業とする縄文時代には、ブナ帯地域の人口が照葉樹林地域を大きく上回っていたことが分かる。
  • 環境考古学・安田喜憲氏・・・ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林が広がる東日本と、シイ・カシを軸とする照葉樹林が拡大した西日本を対比させ、前者の方が狩猟・採集経済の社会では、人口の支持力が高かったと指摘している。
  • 縄文時代中期の人口(小山修三氏の推計)・・・北海道を除く日本列島の人口は約26万人。うち西日本はわずか2万人程度で、全人口の7.7%に過ぎなかった。東日本は24万人、全人口の92%を占めていた。
  • 佐々木高明氏「稲作以前」「日本の焼畑」・・・自然の豊かな東日本では、定着的な「成熟せる採集・漁労民社会」が発達した。これに対し、資源の貧困な西日本は、縄文後期・晩期になると、雑穀・イモ類を主作物とする焼畑農耕を中心に、採集・狩猟活動によってその経済を補う、いわゆる「初期的農耕社会」が、照葉樹林帯を中心に成立したと考えている。
  • 「縄文ブーム」を巻き起こした「三内丸山遺跡」
     1796年、菅江真澄は、「すみかの山」の紀行文の中で、現在の三内丸山の遺跡から出土した土器や土偶などの遺物があったことを記している。
     「三内村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の縄文土器、あるいは、かめの壊れたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た・・・また、人の頭、仮面などの形をした出土品もあり、ミカベノヨロイに似たものもあった」
     平成6年の夏、全国的に有名な三内丸山遺跡が発見された。それは5500年前から4000年前まで、1500年間500人が定住した全国最大の遺跡だと発表され、世間を驚かせた。この三内丸山遺跡の発見は、野蛮だという縄文時代のイメージを一変させ、「縄文ブーム」が巻き起こった。
  • 大型掘立柱建物
     直径1m、高さ14.7mに及ぶクリの巨木を使った6本柱は、近付けば近付くほどその巨大さに驚かされる。この木を人力で運ぶには、屈強な男が100人も要するという。集落の大きさが容易に想像できる。見張り台や祭り、大型の建物説などがあるという。
  • 日本最大の大型竪穴住居
     復元された大型竪穴住居跡は、長さが約32m、幅約9.8m、床面積250m2で、日本最大。集会場や共同作業場などに使われたのではないか。この中には300人も入るという。大きいだけでなく、木の表面を焼いて腐れや虫食いを防止する処理が施されている。ちなみに大型竪穴住居とは、長さが10m以上の竪穴住居で、この遺跡では11軒見つかっている。
  • 縄文都市
     縄文時代の道は、けもの道程度と思われがちだが、道路跡の幅は5m~14mと広く、しかも平らに地面を削り、地盤が軟弱なところには硬い土がまかれていた。集落内の施設配置は、規則性が見られる。掘立柱建物群には道路が接続し、道路の両側には大人の墓が並んでいる。
     竪穴住居は、大人の墓とは離れた場所にあり、ゴミ捨て場などの盛土遺構で区画された範囲に作られている。つまり、大規模な土木工事によって縄文都市が形成されていたのである。
  • 再生を願う子供の墓
     子どもの墓だけは、なぜか住居の近くに集中している。幼くして死んだ子どもは、再び戻ってくることを祈りながら、神に返したと考えられている。その幼い亡骸は、土器を母の胎内に見立てて、その中に納めた。思えば、つい最近まで、7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じられていた。だから、そんな子供は墓ではなく、土間や台所などに埋める風習があった。
  • 食料を保管した高床式建物
     ネズミなどの害を防ぎ、風通しを良くするために高床式にした食料保管庫と考えられている。驚かされるのは、木と木をつなぐ接合部(右の写真)。鋭利な石器で接合部を切り抜き、穴と凸部を組み合わせる高度な技術が、今から4,500年も前に既に確立されていたのである。
  • 食料の栽培と縄文里山
     自然の恵みに加えて、クリをはじめ、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメなどの栽培も取り入れ、1500年という長期にわたって安定した定住生活が続いた。また、ヤマブドウ、木イチゴ、サルナシ、ニワトコなどで、果実酒さえ作って楽しんでいたという。
     花粉のDNA分析などから明らかになったことは、ブナ林を中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与が行われ、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成され「縄文里山」と呼びうる人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたことである。
▲ウルシの液を塗る様子 ▲5500年前の網カゴ「縄文ポシェット」
  • 高水準の木工、編み物、装飾品
     食料の獲得と消費に係る道具だけでなく、生活用具や祭祀儀礼用具、装飾品など縄文文化を代表する道具類が極限まで発達していたことが分かる。木地物のルーツとも言える木製容器には、仕上げの最後に漆が塗られていた。
     有名な「縄文ポシェット」は、針葉樹(ヒノキ科)の樹皮を「網代編み」で編んだ小型の袋で、中には割れたクルミの実が一つ入っていた。現在、我々が使っているカゴ類のほとんどが縄文時代の早い段階で用いられていたのである。
     また、耳飾りや髪飾り、胸飾り、腕飾り、腰飾りなど、今日見られる装身具の大半は、既に縄文人が身に着けていた。しかも漆塗りの美しい装身具もたくさん発見されている。縄文前期には、高度な漆工技術が既に完成していたという。
▲北海道産黒曜石 ▲新潟県糸魚川産ヒスイ製大珠(たいしゅ)
  • 遠隔地との交流
     北海道産の黒曜石、新潟県糸魚川産のヒスイ、岩手産の琥珀、秋田産のアスファルトなど、活発な交易がおこなわれていた。・・・全てにおいてビッグな遺跡である。
  • 土器を必要とした理由
     何故、縄文人は土器を必要としたのだろうか・・・魚や獣肉は煮るよりも焼いて食べる方が美味しいと思うが、土器で煮てから食べる必要があった食べ物には、どんな物があったのだろうか。
     広葉樹の森には、ドングリやトチの実、クルミ、クリなどの堅果類が豊富な実をつける。その堅果類の多くは、ワラビやフキ、ゼンマイなどの山菜と同じく、アクが強くてそのままでは食べられない。石皿やスリ石などの製粉具と加熱処理してアクを抜き、食べやすいように軟らかくするために土器が必要になった。
     また、縄文人は、多くの貝塚を残している。貝類は、煮ると蓋を開き、良い出汁が出る。恐らく、貝類や海藻類も土器で煮て食べたに違いない。こうした煮ることによって食用にすることができる動植物が多く、それが土器を発達させたと言われている。
  • アニミズムと土偶
     火山の噴火や地震、雷、洪水、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い自然を崇拝していた。その儀礼祭祀用具の一つが土偶である。
     中期の北東北から北海道南部には、十字状や三角形状の板状土偶が、晩期には亀ヶ岡遺跡のシンボルでもある遮光器土偶が発見される。また土偶は主に女性を形象したり、男性のシンボルをかたどった石棒もある。中期になると、男根がよりリアルになり、中には2mを超える大型もつくられるようになる。
  • 縄文カレンダー
     内陸部の縄文カレンダーによると、春は山菜採りと貝類の採取、夏はマス類を中心とした川漁、秋は木の実・きのこ採取とサケ漁、冬は野生鳥獣の旬の季節で雪を利用した狩猟という四季の生業パターンからなっている。これは、ブナ帯に生きるマタギの生業カレンダーとほぼ同じであることが分かる。
▲大湯環状列石(鹿角市)
  • 東北は、関東・中部地方や北海道南部などと縄文文化の先進地であった。その証として北海道・北東北縄文遺跡群は、2009年、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載された。2019年12月20日には、2021年の世界遺産登録に向けて、縄文遺跡群のユネスコ推薦が正式に決定した。その秋田県代表が鹿角市の大湯環状列石と北秋田市の伊勢堂岱遺跡のストーンサークルである。
▲伊勢堂岱遺跡のストーンサークル(北秋田市)
  • ストーンサークルは、高台を大規模な土木工事で土地造成し、数千にも及ぶ大石を設計に基づいて環状に配列した。これを「日時計」とする説もあるが、いくつかの集団の共同墓地と考えられる。縄文人は、太陽の動きとその周期を理解し、日没の光景に人間の死を見ていたのであろう。また石と墓地から連想すれば、今日の先祖崇拝、石神信仰のルーツは、既に縄文時代にあったことになる。
▲亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)
  • 司馬遼太郎「縄文芸術」(「街道をゆく-オホーツク海道」)
     明治20(1887)年、左足のとれた「遮光器土偶」とよばれる女性像が出た。両眼が、イヌイト(エスキモー)の使用する遮光器に似ている。異形ながら、いまにも発光しそうなほどの力を感じさせる。亀ヶ岡式土器文化の特徴のひとつは、漆塗りにある。黒漆の地に赤漆をぬって文様をつくりだした技術の高さと豪放な感覚は、"縄文芸術〟とよばれてもいいほどのものである。
     ・・・縄文人は、おそらく愉快にくらしていたにちがいない。
     日本の縄文時代は、ヨーロッパの"新石器時代〟の生活形態に相当する。おなじ採集と狩猟のくらしながら、比較にならないほどにゆたかだったはずである。えものも木の実も、日本列島は豊富だった。縄文人は各地に貝塚をのこしたが、じつに多様に栄養をとり、味覚を楽しんでいたことがわかる。
  • 司馬遼太郎「豊かな縄文の生活」(「街道をゆく-オホーツク海道」)
     縄文文化における土器の役割は大きかった。・・・"煮炊きは第二の胃袋〟といえるが、別の表現でいえば、土器は体外の胃袋ともいえるのである。
     「これぞ文明の世だ」
     と、もし当時の縄文人が自讃したとしても、笑うべきではない。
     「米(農業)がないじゃないか」
     と、はるか後の弥生人はあざ笑うかもしれないが、たしかに農業は文明をおしすすめはしたものの、農家個々が縄文人よりいい暮らしだとはいえないのである。
     縄文人には、米に代わるべき澱粉食物としてドングリなどの木の実があった。とくに本州の東半分から北海道にかけては木の実が豊富で、苦しんで田を作る必要はなかった。蛋白質食物は、弥生時代から昭和30年ぐらいまでの2千年間の日本人よりも、東日本や北海道の縄文人のほうが、ずっと豊富に摂取していた。貝については、日本列島のどの海浜も豊富だった。日本では、ほんの半世紀前まで、どの干潟でも、ざくざく採れた。
▲弥生時代前期の反町(そりまち)遺跡・水田跡(岩手県奥州市江刺)
  • 東北の弥生文化
     古代、東北地方には、稲作が存在しないと言われていた。つまり、昔から東北には弥生文化はなかったと思われていたのである。戦後、東北大学の伊藤信雄教授が「東北には、古代稲作が存在した」という仮説を提示した。
     青森県では、弘前市の砂沢遺跡や田舎館村の垂柳遺跡から水田跡が見つかった。しかも、垂柳遺跡は弥生時代前期のものだった。秋田県内では、籾痕のついた土器片が、男鹿市や井川町、三種町の遺跡から発見されていた。けれども水田跡はなかなか発見されなかった。平成8年、ついに大仙市・星宮遺跡で水田跡16枚が発見された。
     岩手県では、奥州市江刺の反町遺跡で水田跡18枚が見つかった。畔で区画され、ため池と用水路など、かんがい技術を伴った水田跡であった。稲作が困難と思われた北東北三県だが、弥生時代前期、既に水田耕作の技術体系がまるごと普及していたことが分かったのである。
▲復元北前船「みちのく丸」・・・日本海航路で海運を行った船
  • 北へ移動するには、船で日本海の対馬海流に乗れば苦労せずに北上できた。7世紀、毎年二百もの船団を引き連れ、三度も北方遠征した阿倍比羅夫もこの海流を利用した。もちろん、江戸時代の北前船も同様である。
  • 司馬遼太郎「東北の古代稲作実証」(「街道をゆく-北のまほろば」)
     「青森県の津軽地方に、もう一段以前の水田跡が出現した。・・・砂沢遺跡である。信じがたいことに、弥生前期のものだった・・・弥生文化が、北九州より発して東へ進行し、太平洋岸ではいまの名古屋あたりにやっと達したころ、日本海ではよほどスピードが速かったらしく、すでに津軽に達していた。・・・縄文時代には、日本列島を縦貫する道などはなかった。日本海を、舟で移ったに違いない。
     ・・・その後、東北各地でいくつかの弥生中期の遺跡が発見され、゛伊藤信雄仮説゛は全き形で実証された。・・・かれらの水田は、芸のこまかい装置をともなっていた。田に引く水は近くの岩木川から引いているのだが、途中で小さな溜池が築造されている。津軽は、西方の暖地と違い、水が冷たい。稲は元来熱帯・暖温帯の植物だから冷水は生育を害しかねないために、この装置によって水を温めたのである。・・・ただし、このように高い初期稲作も、どういうわけか、途中で絶えてしまった。」
     注意すべき点は、この頃、東北全体が稲作を中心とした弥生文化になったのではないということ。つまり、狩猟漁労採集の暮らしと農耕の暮らしが斑状に混在していたに過ぎない。だから、「斑状文化」と呼ばれている。
  • 弥生の東進と縄文の抵抗・・・歴史学者・網野善彦氏は、「北九州に入った感光性の強いイネの品種が、東日本には生育せず、東日本にそれが受け入れられるためには、感湿性の強い品種が現れなくてはならなかったともいわれるが、端的に言って、弥生文化の東進を阻んだのが、最高度の発展をみた狩猟・採集生活を基礎とする東日本の縄文文化の抵抗であったことは確実といわなくてはならない」
▲秋田城跡(秋田市寺内高清水)
  • 658~660年、最初の蝦夷征伐を行ったのは阿倍比羅夫である。彼は水軍を率い、北上して秋田と津軽を朝廷の支配下に組み入れた。阿倍比羅夫一族は、東北に早い時期から支配権を確立。前九年の役で朝廷と争った蝦夷の豪族・安倍貞任は、比羅夫の末裔とする説もある。
  • 最北の蝦夷支配・・・秋田城、多賀城
     8世紀(奈良時代)に入ると大和政府は、蝦夷経略に意欲を燃やし、712年出羽国設置、733年には、秋田市寺内の高清水に出羽柵を移し、のちに秋田城と呼ばれた。また、760年代には多賀城を根拠とし、要所に柵を構築した。これらの柵には、防衛のかたわら耕作をする一種の屯田兵を数多く送り込んだ。
     政府に帰順した蝦夷を俘囚と称した。俘囚とは捕虜を意味し、依然として差別した呼称であった。蝦夷側にしてみれば、開拓と称して征服者たちが入り込み、横暴な行為を繰り返した。だから、抵抗するのは当然であった。774年、陸奥・出羽両国の蝦夷が蜂起、大反乱が起きている。
  • 780年 アザマロの乱
    アザマロは、俘囚ながら伊治城の守備隊長となり、政府の信任が厚かった。しかし、彼はかねてから俘囚に対する目に余る差別待遇や虐待に反感を抱いていた。780年、アザマロは、東北最高官の紀広純を殺害し、多賀城を焼討にした。
     朝廷は東北での反乱拡大を防ぐため、征東軍を組織し派遣する。その指揮官は、征東大使と呼ばれ、後に征夷大将軍と呼ばれるようになった。この征夷大将軍は、後に日本の武士の総大将という意味をもつようになる。それは・・・平家と奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、1192年、武士の総大将である征夷大将軍となり、鎌倉幕府・武士政権をスタートさせたからである。
  • 第一次征東・・・巣伏の戦い
     アザマロの反乱から8年後、789年、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に任じ5万の将兵を授けた。古佐美は多賀城を根拠に衣川に布陣。この侵略に対し、胆沢の盟主・アテルイは、近隣の部族と連合し侵略を阻止するために立ち上がった。アテルイ軍は、馬や弓矢を巧みに操り、ゲリラ戦術で敵を大いに震撼させた。
     同年5月、中央からの矢の催促に古佐美軍は、6千の精鋭を二手に分け、胆沢をめざして進撃した。アテルイ軍は、陽動作戦により敵を巧みに誘導し、突如伏兵をもって反撃に転じ壊滅的打撃を与え勝利した。
  • 第二次征東
     794年、第二次征夷大使に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を起用し、十万という空前の将兵を動員した。この時、坂上田村麻呂は副将軍であった。アテルイ軍に相当な打撃を与えたと推測されているが、降伏させるまでには至らなかった。
▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲胆沢城復元模型(奥州市埋蔵文化財調査センター)  
  • 第三次征東・・・田村麻呂対アテルイ
     797年、田村麻呂は征夷大将軍に任じられ、801年、朝廷軍4万を率いて胆沢地方に侵攻した。田村麻呂は、従来の武力一辺倒による征討を改め、温情をもって心服させる方策をとり、アテルイ軍の孤立を策したと推測されている。
     802年 胆沢城造営が開始された。4月15日、アテルイとモレは、同胞500余人を率いて田村麻呂の停戦和平に応じた。十数年に及ぶ攻防で多くの同胞を失い、郷土は疲弊していた。胆沢の地を守るため降伏の道を選んだ。田村麻呂は、アテルイとモレを伴い京都に帰還した。
     田村麻呂は、彼らの武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷地経営に登用すべく、天皇に助命嘆願したが・・・「蝦夷は野性で獣のごとき心を、反復してあらわし、定まった服従心はない」との理由で聞き入れられず、同年8月13日、河内国で処刑された。
  • 鳥海山大物忌神
     800年代、鳥海山は度々大噴火を繰り返した。蝦夷征伐の前線を北上させていた朝廷は、この度重なる噴火を蝦夷反乱の前兆であると恐れていた。その大物忌神の怒りを鎮めるために、鳥海山を必死になだめようと、次々に上位の神階を与えた。気がつけば、数ある東北の神のなかでも最高位にまで達していたのである。
▲秋田城復元模型
  • 878年元慶の乱
     秋田城司の悪政(不公正な交易を強要)に対して、俘囚の乱が発生した。秋田城が攻め落とされ、雄物川以北の独立を要求した。反乱軍は、北緯40度線周辺北側・・・秋田市以北から米代川流域にかけての12の村々の連合勢力であった。
  • 939年 天慶の乱・・・秋田城下でまた俘囚の乱が起きる。この時、大物忌神の鳥海山が燃えるとの占いがあるので祀り鎮めることが指示されている。
     こうした蝦夷の蜂起が繰り返されるたびに、彼らは同族的なつながりを強め、その中から知恵と力のある者が、豪族として成長していった。11世紀頃、出羽の豪族として知られるのが清原氏で、雄勝・平鹿・山本の3郡を支配し、横手市付近に根拠地を置いていた。同じ頃、陸奥国で大きな勢力を持っていたのが安倍氏で、奥六郡を支配する豪族であった。
参 考 文 献
「縄文の生活誌」(岡村道雄、講談社学術文庫)
「ビジュアル版 縄文時代ガイドブック」(勅使河原 彰、新泉社)
「縄文時代の大規模集落 三内丸山遺跡」(青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡対策室)
「特別史跡 三内丸山遺跡」(東奥日報社)
「街道をゆく-オホーツク海道」(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)
「街道をゆく-北のまほろば」(司馬遼太郎、朝日文芸文庫)
「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」(熊谷公男、山川出版社)
「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)
「秋田県謎解き散歩」(野添憲治編著、新人物文庫)
「岩手県謎解き散歩」(今野静一編著、新人物文庫)
「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
「あなたの知らない秋田県の歴史」(山本博文、洋泉社)
「東と西の語る日本の歴史」(網野善彦、講談社学術文庫)