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INDEX 基層文化①      
 10世紀前半以来、一世紀にわたって軍事貴族の奥州派遣が続いたが、さまざまなトラブルをもたらした。だから1025年以降、25年にわたって鎮守府将軍の補任が一時中断された。その間、出羽国の秋田城では、筆頭在庁の清原氏が、雄勝、平鹿、山本、秋田、河辺の五郡の支配者で、かつ秋田城の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。

 一方陸奥では、奥六郡を支配していた安倍氏が鎮守府の事実上の最高責任者の地位を占めるようになった。安倍氏は、陸奥話記や中央の記録には、「東夷の酋長」「俘囚(服属したエミシ)」と書かれていることから、古代北東北の蝦夷直系の在地豪族(清原氏も同じ)とみられていた。そんな安倍氏が勢力を拡大し、衣川の線よりも南まで押し広げる勢いであった。(写真:衣川柵に近い平泉毛越寺)
前九年の合戦(写真:えさし藤原の郷、以下同じ)

 1051年、勢力を拡大する安倍氏は、ついに朝廷と衝突、前九年の合戦が勃発する。陸奥国守・藤原登任(なりとう)は、鬼切部で安倍軍と合戦するも、大敗してしまう。驚いた朝廷は、武勇の誉れが高い源氏の大将・源頼義を陸奥守として赴任させる。しかし大赦で一時休戦となる。

 1054年 藤原経清と安倍頼時の娘が結婚。1056年、後に平泉を開く藤原清衡が生まれる。
 1055年 源頼義が陸奥国守の任期を終えて京へ戻る途中、安倍頼時の次男貞任に襲撃されるという事件が発生する。これは東北支配をもくろむ頼義の謀略と言われている。再び、戦が始まるが、安倍氏側の圧倒的優勢が続いた。源頼義は、出羽の大豪族・清原氏に援軍を求める。
 1062年 清原氏の参戦で戦況は一変する。清原軍1万人と源頼義軍3000人で猛攻。安倍貞任は厨川柵で戦死。清衡の父・藤原経清は、裏切り者として鈍刀で斬首という残酷な刑に処された。

 源氏が権益を握るはずだった奥六郡胆沢城の鎮守府将軍には、出羽の清原武則が初めて任命された。清原氏は、出羽山北地方に加え、安倍氏の旧領地を事実上支配することとなった。源義家は出羽守に任ぜられたが、内心不満であった。この源氏の不満が、後三年の役へとつながっていく
清原武貞は、なぜ安倍頼時の娘を正室に迎えたのか

 清原武貞の息子・武貞は、敗者の娘を正室に迎え、連れ子の清衡も引き取っている。普通は敵方の女性を正室にはしない。「炎立つ」の著者・高橋克彦氏によれば、清原氏と安倍氏の間には、長年にわたる複雑な姻戚関係があったし、「蝦夷の視点で見ると、清原も安倍も同じ蝦夷の一族だということだ。その同じ一族を、源氏が巧妙に二つに割ったと考えた方が、前九年・後三年の役の実態が見えてくる」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)
複雑な清原三兄弟

 ①清原武貞の先妻の子・真衡(清原氏継承NO1)
 ②後妻の連れ子・清衡(安倍氏直系だが、清原系の血も流れているとの説もある)
 ③武貞と後妻の子・家衡(清原氏継承NO2)

 この複雑な関係の三兄弟と陸奥守・源氏の野望によって清原一族の骨肉の争いに発展していく。
後三年の合戦

 1083年 真衡の養子・成衡の婚礼準備の最中、黄金を持参した叔父で一族の長老・秀武に対し、威張り屋の真衡は見向きもせず碁を囲んでいた。これに激怒した秀武が反旗を翻し後三年の役が勃発した。

 秀武は、清衡、家衡に働きかけ真衡包囲の一族連合を結成した。清原氏を二分する戦いの火ぶたが切られる中、東北支配を悲願とする源氏の棟梁・源義家が、念願の陸奥守として赴任する。出羽に向かう途中、真衡は突然病死してしまう。これは源義家の策略だったと言われている。
 清原氏の直系は弟・家衡だけなのに、源義家は、奥六郡を二分割して与える。しかも、家衡には痩せた北の土地しか与えられなかった。つまり義家は清衡を優遇したのである。それを妬んだ家衡が清衡を攻撃して戦闘が再開するというストーリーは、義家の筋書き通りに展開したと言われている。

 1086年 家衡は、不満を募らせ、兄・清衡の館に火を放ち、清衡の妻子らを惨殺してしまう。清衡は、源義家のもとに走り、二人は、家衡討伐の兵を出す。迎え撃つ家衡は、今の横手盆地・出羽山北沼館の沼柵で防備を固めた。
「沼柵の攻防」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 四方を水で囲まれた沼柵は、天然の要害で、義家・清衡軍は苦戦する。やがて冬・・・大雪に見舞われ、冬の寒さが苦手な義家軍は次第に疲弊していく・・・飢えと寒さで弱る兵士を義家自ら蘇生させたという逸話が残るほどで、一旦撤退せざるを得なかった。 
 家衡が武人の名門・義家を追い返したという報せに喜んだ叔父・武衡は、福島県いわき地方からはるばる沼柵に駆けつけ、家衡に加勢を申し出た。そして、沼柵よりも強固な金沢柵に移った。

 1087年、義家・清衡軍は金沢柵に軍を進めた。金沢柵は、「壁が立っているようだ」と言われるほど断崖絶壁に囲まれ、容易に人を寄せ付けず、苦戦が続いた。この頃、京から義家の弟・義光(子孫は佐竹氏)が加勢に駆け付けた。

 秀武の提案で、柵を包囲したまま「兵糧攻め」の作戦を実行に移す。これが功を奏して難攻不落の金沢柵がついに落城。焼けた柵の中は地獄絵と化したという。
「金沢柵陥落」(戎谷南山筆・後三年合戦絵詞)

 家衡は、愛馬を殺し、身分の低い者に変装して逃亡しようとしたが、見破られ討取られる。武衡は、柵内の沼に潜んでいるところを見つけられて首を斬られた。口戦で義家を罵倒した千任は、舌を金箸で引き抜かれたあと木の枝に吊るされ、さらに48人の首がさらされるなど、陰惨を極める戦いで、後三年合戦の幕引きとなった。
  義家が本性を現し「甚だしい謀反も私の努力で平らげた。速やかに清原氏追討の命令を」と上申する。朝廷は「不当な内政干渉である」として国府を解任する。源義家は、目論見が外れて撤退を余儀なくされた。この源氏の恨みが、平泉滅亡へとつながっていくのである。

 東北には、漁夫の利を得たかのように、清衡の勢力のみが残った。彼は安倍氏の孫であるが、父系は藤原・・・清原と訣別し、藤原清衡を名乗る。ただし、名は「藤原」だが、実態は「安倍氏」であった
▲中尊寺金色堂覆堂と芭蕉翁句碑(手前左)
  「五月雨の 降り残してや 光堂」(芭蕉)

1099年 平泉開府

 清衡は、幼年期に前九年の合戦、青年期に後三年の合戦を経験した。特に青年期の身内同士の壮絶な争いが晩年期の彼の思想に大きな影響を与えたと言われる。中尊寺は、前九年と後三年の役の犠牲者を敵味方なく弔い、戦のない平和な国を作ることを目的に建立された。
▲東日本大震災(岩手県山田町)・・・災害写真データベース(財団法人消防科学総合センター)

平泉が世界文化遺産に登録された訳(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「東日本大震災が起きた時、被災地と呼ばれる地域は、偶然にも福島、宮城、岩手など藤原清衡が支配した地、奥州藤原氏の文化圏だった。その被災地の人たちの、自分のことより他者の辛さを思いやる姿が、ニュースとして世界中に流れた。

 世界文化遺産の登録を申請していた平泉、藤原清衡がつくった国は、もともとこのような国だったのではないか、そのDNAが今に受け継がれているのではないか、そうユネスコに受け止められたことが、実は登録につながったのだと思う。清衡が平泉で育んだ東北の゛和゛の魂は、今の東北の人々の中に受け継がれてきたのである。」
▲経蔵・・・中尊寺経を納めていたお堂

清衡の意志が読み取れる「中尊寺供養願文」

 この鐘の一音が及ぶ所は、世界のあらゆる場所に響き渡り、苦しみを抜き、楽を与え、生きる者全てにあまねく平等に響くのです。奥羽の地では、官軍と蝦夷の戦いが幾ばくかあり、多くの者の命が失われてきました。

 それだけではなく、毛を持つ獣、羽ばたく鳥、鱗を持つ魚、殻で身を守る貝も限りなく殺されてきました。その魂は、皆あの世に消え去り、朽ちた骨は今なお奥羽の塵となっています。この鐘の音が響き渡り、大地を動かすたびに、罪もなく命を奪われてしまったものたちの魂を慰め、極楽浄土に導きたいと願うものです。
▲金色堂

平泉を本拠にした理由

 平泉は、奥州の「中央」であると同時に、祖父・安倍氏が支配した奥六郡の南端・衣川柵のあった地区に位置している。さらに、北緯39度ラインに位置し、アイヌ語地名の南端に位置している。だから、安倍氏の「東夷の酋長」の地位継承を意味していると言われる。
▲金色堂(えさし藤原の郷)

 平成23年、平泉がユネスコの世界文化遺産に登録された。この平泉文化は、奥州藤原氏初代清衡の精神が発端になっている。彼は、大きな歴史のうねりに巻き込まれ、虚しい戦に明け暮れた我が身を振り返り、戦も貧困もない理想郷を平泉につくろうとした。
初代清衡の大きな人柄を育てたものは何か

 「東北で一番の地位に立った清衡が、敵味方を問わず戦死した人々に厚い情をかけ熱い涙を注ぐ姿勢を示しているのは、彼の少年時代がやはり大きな意味を持っているのです。もし少年時代に物心ともに貧しい家に養われたものであったとしたなら、どんなに安倍と藤原の血をうけていたとしても、名武将としての教養も身につけることなどできなかったに違いないのです。

 安倍なきあとも、勝るとも劣らない清原氏という大豪族に養われ、御曹司として成人することができたからこそ、長い平和を築くことのできる大きな人柄を培うことができたのです。これは十一世紀の東北にとっても、またとない重要なことだったのです」(「ジュニア版 古代東北史」新野直吉、文献出版)
藤原三代アイヌ説

 藤原氏がアイヌ系であるとする理由は・・・
  1. 清衡は、先祖代々東北に住む「荒蝦夷の首長」と名乗ったこと
  2. 藤原三代の遺体は金色堂にミイラにして安置されていること。ミイラにして葬るのは、樺太アイヌの風習と似ていること。
  3. 清衡の着ていた小袖のねじり袖は、アイヌが着ていた袖と同じであること。
  4. 清衡の棺には、ドングリやクルミ類が一杯入っていた。これは狩猟採集の文化を思わせる。シカの角で作った刀は、蝦夷の刀を思わせる。

 昭和25年、この藤原三代のミイラ調査が行われたが、その結果は、アイヌではなく倭人であることが明らかになった。DNAは倭人でも、北の風土に育まれた心は、蝦夷・アイヌ系であることに変わりはないように思う。
▲平泉・毛越寺・・・奥州藤原氏二代基衡が建立した浄土庭園/大泉が池

都を凌ぐ平泉
(「東北蝦夷の魂」高橋克彦)

 「有り余る砂金を使い、大陸との貿易で膨大な量の陶器、経典などを輸入した。あっという間に中尊寺は日本で最大の経典を所有する寺になった。・・・珍しい経典があれば誰しも勉強したいので、奈良や京の僧がこぞって平泉にやって来た。あの時代の僧たちは最高の知識人であり、平泉に日本の頭脳が集結・・・さらに馬産地でもある平泉は、都を凌ぐ力を持つ場所になった
義経、鞍馬寺から平泉へ

 源義経は、平治の乱(1159年)で父を失い、京都の鞍馬寺に僧となるための修業をするが、15歳になっても髪を剃ることを拒んだ。1174年、16歳の時に京の鞍馬寺を出て、平泉の秀衡を頼ってきた。ここで22歳ころまで過ごし、武人として立派に成長した後、鎌倉の兄頼朝のもとへ行く。
平家滅亡~義経自害

 1179年、平清盛は、後白河を鳥羽離宮に幽閉して朝廷を完全な支配下においた。いわゆる平家の軍事クーデターが起きる。この平家の軍事独裁に対して、源氏勢力が相次いで蜂起、全国的な内乱へと突入していった。

 1185年3月、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。

 1187年、頼朝に追われた義経が平泉に亡命する。義経が平泉に入って数か月後、秀衡病死。秀衡は死の直前、次男泰衡を後継者とし、義経を大将軍として奥羽の国務をまかせ、主君として仕えるべきことを遺言した。

 1188年春、後白河は頼朝と妥協し、泰衡に対し義経の身柄の差出しを命じる宣旨を発する。鎌倉と京都の圧力に抵抗し切れず、泰衡が義経を襲撃し自害させる。泰衡は、義経の首を鎌倉に送っている。しかし、源頼朝は、なおも平泉攻撃の準備を進めた。頼朝の狙いは、義経ではなく、平泉を滅ぼす口実を得ることだった。
壇ノ浦で活躍した弟・義経を、なぜ頼朝は嫌ったのか

 頼朝は、自分の許可なく朝廷から官位を受けた武士は、関東に戻ることを禁止していた。ところが、義経は、壇ノ浦の戦い後、この掟を破って後白河法皇から官位をうけてしまった。後白河法皇は、頼朝の台頭を恐れて、その対抗馬として義経を重用しようとした。義経が朝廷の信頼を得て、武士たちの人気者になることは、朝廷から距離を置いて武家政治を確立しようとする頼朝にとって脅威でしかない。義経は、戦は上手いが、政治には疎かったといわれている。
▲厨川柵(えさし藤原の郷)

頼朝、蝦夷を征する征夷大将軍へ

 源頼義・義家親子による前九年・後三年の二度にわたる合戦は、源氏の名声を高めたが、一方、源氏が関与すると乱が起きるという理由で奥州から遠ざけられていた。源氏にとって、奥州制覇は、長年の悲願であった。

 「頼義にとって陸奥の最大の魅力は、軍事力に結びつく資源だった。矢羽根の鷲の羽根、防寒用の毛皮、武器の材料である鉄、刀鍛冶の技術、そして馬がある。・・・源氏は、とにかく東北を支配下に収めたかった」(「東北蝦夷の魂」高橋克彦、現代書館)

 源頼朝の奥州征伐は「9月17日、厨川柵」を目標に定めているが、これは頼義将軍が安倍貞任を討ち取った日と場所が一致している。つまり、前九年の合戦のやり直しととらえていたことは明らか。

 北に逃亡した泰衡は、大館で河田次郎に裏切られ、その首は紫波町まで北上していた頼朝に届けられた。頼朝は、頼義将軍が貞任の首をさらしたように、泰衡の首を八寸釘で打ち掛けさせた。その三年後、頼朝は、蝦夷を征する将軍・征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家の総大将となったのである。

 当時「出羽・陸奥は夷(エビス)の地」と言われ、鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」には、頼朝の行動を田村麻呂になぞらえた記述もみえている。奥州征伐は、古代以来の「征夷」の延長として位置づけられていたことは明らかであろう。
北緯39~40度ライン

 アイヌ語地名の南限は、北緯39度ラインである。北緯40度ラインは、男鹿のナマハゲ、八郎潟の八郎太郎伝説、さらには縄文・蝦夷の末裔といわれるマタギの本家・阿仁を通るラインである。左図の北緯40度~北緯39度の斜めのラインは、積雪寒冷のため凶作・飢饉多発境界線・・・つまり、これより北は、稲作に不適な気候風土をもつ地域であった。

 おもしろいことに、北緯39度ラインと北緯40度ラインの間で、最北の蝦夷支配として設けられた秋田城、胆沢城、坂上田村麻呂×アテルイの戦い、前九年、後三年の合戦、源頼朝の奥州征伐・・・中央権力×蝦夷の激しい戦争が繰り返されている。・・・この辺りに東北の基層文化のヒントがあるように思う。
参 考 文 献
「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)
「日本史リブレット023 奥州藤原三代」(斉藤利男、山川出版社)
「東北蝦夷の魂」(高橋克彦、現代書館)
「秋田県謎解き散歩」(野添憲治編著、新人物文庫)
「岩手県謎解き散歩」(今野静一編著、新人物文庫)
「秋田県の歴史散歩」(山川出版社)
「あなたの知らない秋田県の歴史」(山本博文、洋泉社)
「世界文化遺産 平泉の源流-秋田/横手・美郷」(秋田県)
「後三年合戦そして平泉へ」(横手市観光物産課・美郷町商工観光交流課)