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田村麻呂伝説、悪路王伝説、蝦夷アイヌ説、蝦夷日本人説、日本書紀、東北クマソ発言、東北人の怒り
北の夏祭りと田村麻呂伝説

 青森ねぶたのルーツは・・・西暦800年代、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、地理的に不案内の地では勝負が長引く。そこで,数万のタイマツに火をつけ、大きな灯篭を作り,太鼓や笛,鐘などを鳴らし蝦夷たちをおびきよせようとした。この派手な楽器や灯篭に、蝦夷たちはゾロゾロと集まり、たちまちのうちに捕まえられてしまった。田村麻呂のこの作戦が、後のねぶたになったとされている。

 能代ねぶながしのルーツも同じく、坂上田村麻呂が蝦夷を討ち払うのに、夜、米代川の川面に灯を流し、奇異に釣られて誘い出された蝦夷を平定したのが始まりと伝えられている。以下、弘前ねぷた、黒石ねぶた、五所川原立佞武多の伝説も同様である。
▲古四王神社境内の田村神社(秋田市寺内) ▲東湖八坂神社(潟上市)

疑問・・・東北に坂上田村麻呂の伝説が多いのは何故か

 秋田城に近い古四王神社には、801年、田村麻呂が蝦夷征討を祈願して田村神社を建て、大滝丸と称する蝦夷の首領を退治したという伝説がある。また、潟上市・東湖八坂神社の社殿によれば、坂上田村麻呂の創建となっている。こうした田村麻呂伝説をもつ社寺は、「秋田の神々と神社」(佐藤久治)によると、県内に85社もあるという。
▲青森市・善知鳥神社・・・由緒には、807年、坂上田村麻呂によって再建されたとある。
▲深浦町円覚寺・・・807年、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる。田村麻呂が足を踏み入れていない津軽にも、その創建を伝える寺社縁起が数多く残されている。
悪路王伝説・・・平泉町・達谷窟毘沙門堂(たっこくいわやびしゃもんどう)

 平泉町・達谷窟は、賊の主・悪路王と赤頭がトリデを構えていた岩屋である。801年、田村麻呂は岩屋にこもる蝦夷を打ち破り、悪路王らの首をはね蝦夷を平定した後、国を鎮める祈願所として毘沙門堂を建立したという。

 坂上田村麻呂が征伐した蝦夷の酋長が悪路王だとすれば、悪路王は蝦夷のリーダー・アテルイ、赤頭はサブリーダーのモレということになる。事実、毘沙門堂境内の碑は「アテルイの碑」と呼ばれている。
長面三兄弟伝説・・・「房住山昔物語」

 1823年、菅江真澄は、坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の首領・長面三兄弟などの山岳信仰伝説「房住山昔物語」を記録している。

 「東国の蝦夷征伐の勅命があり、将軍坂上田村麻呂が下向し賜うた。蝦夷の首長を誅伐し、残党をくまなく探し出して男鹿の山まで追討した。しかし、その中に、そこかしこに隠れなかなか捕まらない蝦夷の強兵が11人、その中でも名に聞こえたる三兄弟がいた。兄の名をアケト丸、次をアケル丸、その次をアケシ丸と言った。」

 平成23年に自費出版された「マンガで読む房住山昔物語」には、房住山(409・2メートル)周辺を舞台に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷の強者「長面三兄弟」を退治する伝説や町名の由来となった三種川にまつわるエピソード、房住山の寺院の歩みなどを収録している。
▲坂上田村麻呂像(奥州市埋蔵文化財調査センター) ▲悪路王の首像(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 史実では、田村麻呂は秋田、青森まで来ていない。さらに、自分たちの祖先・蝦夷が賊・鬼で、それを滅ぼした敵が英雄という歴史観は受け入れがたい・・・なのになぜ、東北各地に田村麻呂伝説が、こんなに多いのだろうか。
蝦夷アイヌ説(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 ①東北地方にアイヌ語地名が数多く存在する
 ②マタギ言葉にアイヌ語と共通する言葉が多く含まれる
 ③古代の多賀城、胆沢城には通訳がいた
 これらを勘案すると、蝦夷はアイヌ人であるという説である。

 この説が正しいとすれば、東北の先祖は、蝦夷アイヌを滅ぼした日本人であり、その先祖の英雄が坂上田村麻呂であるから、神社や祭りなどに田村麻呂伝説が数多く存在しても何ら不思議ではないことになる。
蝦夷日本人説、混住説

 遺跡発掘調査が進むにつれて、東北でも水田稲作が行われていたことが証明され、東北地方でも縄文文化の後にくるのは稲作を伴う弥生文化であった。だから、古代の蝦夷は、文化的にも人種の上でも辺境に住む日本人であって、アイヌとは直接の関係がないとする説である。戦後は、蝦夷日本人説が優勢になった。

 しかし、現在は、蝦夷の言葉はアイヌ語系統であったという説も出てきている。もともと蝦夷は、単一民族と考えるところに無理があるように思う。例えば、江戸時代の弘前藩国日記によれば、マタギとアイヌは共同で熊狩りをすることもあったと記録されている。つまり津軽には、江戸時代まで、アイヌが住んでいたことが分かる。だから、古代の蝦夷は、日本人とアイヌが混住していたと考えるのが妥当であろう。
▲平泉・中尊寺 ▲平泉町・達谷窟毘沙門堂

源頼朝と田村麻呂伝説

 1189年、「出羽・陸奥は蝦夷の地」と言われていた。源頼朝は、28万4千騎を率い、平泉藤原氏を滅ぼしている。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、源頼朝が平泉を攻め、藤原泰衡らを討伐した後、鎌倉への帰路にある達谷窟に目をとめ、その名を尋ねると、「それは、達谷窟で、田村麻呂、利仁らの将軍が、綸旨を受け賜って夷を征する時、賊主である悪路王や赤頭らが、城塞を構えていた岩屋」だと教えたという。

 そして源頼朝の平泉征討は、「坂上田村麻呂」になぞらえて書かれている。つまり平泉政権に対する戦いは、古代以来の「征夷」の延長として中央権力から位置づけられていたのである。

 かくして中央に従わない蝦夷系の反乱を防ぐために、中央文化の移植と同時に、「征夷」「武将」の英雄である田村麻呂伝説を東北各地に広め、強力な武家政権を推進していった。その結果、東北各地に田村麻呂伝説が数多く残ったということであろう。
▲円仁ゆかりの山寺(立石寺) ▲円仁ゆかりの毛越寺

田村麻呂伝説と慈覚大師伝説

 「旅する巨人」と言われた民俗学者・宮本常一が「宗教者のエネルギー」として絶賛する慈覚大師円仁の概要を以下に記す。(参考文献「日本人のくらしと文化」宮本常一)

 円仁は、第三代の天台座主の方で、東北の寺々は、円仁が開いたということになっている。それは、円仁が下野(栃木県)の出身だったからである。というのは、昔の優れた聖者たちは、その郷里を最も大事にしているからである。

 円仁が大変な坊さんだったということは、円仁の遺した「入唐求法巡礼行記」を読めば分かる。当時、彼ほど優れた人はいなかった。この人が五台山に行くまでにどんな苦労をしたかということを読んでみると、東北地方を歩くことは、円仁にとって朝飯前の仕事だったと言ってよい。あの時期の人の持っているエネルギー、見通しの確かさ、それは、今の人たちと比べ物にならないほど優れたものだった。こんな偉い人が千年も前に、日本におったのである

 慈覚大師円仁ゆかりの寺は、象潟の蛆満寺、山形の山寺、岩手の黒石寺、中尊寺、毛越寺、天台寺、青森の恐山、宮城の名勝松島瑞巌寺・五大堂などである。そして東北の至る所に慈覚大師の伝説が残っている。そもそも、武力だけで蝦夷を支配し、人の心をつかむことはできないことは明白である。だから、仏教による懐柔策として、当時最も優れた坊さん・慈覚大師円仁を送り込んだと言われている。

 軍事的征服の象徴が坂上田村麻呂伝説であり、宗教的支配の象徴が慈覚大師伝説となって、東北の隅々にまで広がっていったということであろう。
ねぶた大賞から「田村麿賞」廃止

 青森ねぶた祭りでは、昭和37年制定の「田村麿賞」の名称が、平成7年度より廃止され、「ねぶた大賞」に改称された。ねぶたの最高賞として位置づけられていた坂上田村麻呂は、青森県域に遠征した史実やその際にねぶたを用いたことが立証できないこと、地元の側からみるといわゆる征服者であって逆賊ではないか、というのが廃止の理由とされている。
 古代、東北地方は中央政府の勢力圏外で、この地を出羽、陸奥と呼び、住民を蝦夷(エミシ)と称していた。もともと蝦夷とは軽蔑した言葉である。(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

日本書紀(659)に記された蝦夷

遣唐使が中国に蝦夷を連れて行った時の記述は・・・

天子「蝦夷の国はいずれの方にあるか」
遣唐使「東北にある」

天子「蝦夷は何種類あるか」
遣唐使「三種ある。遠方を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)、熟蝦夷(にぎえみし)という。今回伴ってきたのは熟蝦夷・・・」

天子「蝦夷の国には五穀があるか」
遣唐使「五穀は無い。肉を食して生活している
天子「蝦夷の国に家はあるか」
遣唐使「無い。深山のなかで樹木の本に住んでいる

(注)熟蝦夷(にぎえみし)とは、大和朝廷に従う蝦夷のこと。一方、大和朝廷に従わない蝦夷を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)と区別していたことが分かる。
(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)
▲「清水寺縁起絵巻」・・・坂上田村麻呂軍蝦夷征討の図(奥州市埋蔵文化財調査センター)

 「東夷は性格が強暴で、村の長はなく、皆侵し盗む。夷の中で蝦夷が最も強く、男女父子の間の節度も確立しておらず、兄弟間でも信用し合わず、山や野を行くのは敏捷であり、恩を受けたことは忘れてしまうが、怨みを抱くと必ず報いる。・・・彼らを攻撃すると草の中に隠れ、追うと山に逃げ込む。昔から未だ王化に従ったことはない」

 これらの記述は、「蝦夷は、ヤマトに従わない未開の野蛮人」と蔑視、差別していることが分かる。また上の絵巻をよく見ると、敗走する蝦夷は人種の違う貧相な姿で描かれている。この絵巻は16世紀初めに畿内のひとが描いたもの・・・つまり、近世に入っても基本的な認識は変わっていないことが見て取れる。この偏見に満ちた歴史観の延長線上で「東北クマソ発言」が飛び出す。
東北クマソ発言(写真:奥州市埋蔵文化財調査センター)

 昭和63年2月28日、TBS特集番組「首都移転問題」で、当時サントリー社長だった佐治敬三氏は、「仙台遷都などアホなことを考えている人がおるそうやけど・・・東北はクマソの産地。文化程度も極めて低い」と発言・・・大きな反感を買ったことがあった。

 ちなみに、「東北はクマソ(九州南部)」ではなく「エミシ(東北)」の間違いである。
東北人の怒り

 翌2月29日、河北新報が「東北差別の過激な発言」と題して報道。秋田県では、佐々木喜久治知事の指示で共済組合の保養・宿泊施設にサントリー製品の仕入れを停止した。東北で激しい反発が起き、サントリー・ボイコット運動へと発展した。

 3月4日、岩手・宮城両県議会は、「強い憤りを覚える」との抗議声明を採択した。3月9日、「八重の桜」の地・福島県議会もこれに続いた。特に、東日本大震災で甚大な被害を受けた福島、宮城、岩手で怒りが爆発している。
▲アテルイのイメージ肖像(奥州市埋蔵文化財調査センター)   ▲NHK「アテルイ伝」

 河北新報社編集局「蝦夷-東北の源流」(1979年)には、「歴史は常に勝利者の手によって書かれる。東北が後進地と言われる全ての源泉はここにある・・・

 我々東北人は何をなすべきか。それは、蝦夷とそしられつつ滅亡を強いられた・・・アテルイ、安倍、清原、藤原氏の生きざまの中に見出せると思われる。・・・我々東北人の務めは・・・東北の大地に自らの足でしっかり立ち、エミシの歴史を背負って、エミシ文化を確立することではなかろうか」・・・アテルイ・蝦夷の復権を力説している。
参 考 文 献
「東北学/忘れられた東北」(赤坂憲雄、講談社学術文庫)
「東北ルネサンス」(赤坂憲雄、小学館文庫)
「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」(熊谷公男、山川出版社)
「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)
「アジア太平洋レビュー2011 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」(岡本雅享)
「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原猛、集英社文庫)
「蝦夷-東北の源流」(河北新報社編集局)
「マンガで読む房住山昔物語」(立松昴治、岩城紘一)
「2014青森ねぶ祭」(青森ねぶた祭実行委員会発行)
「日本人のくらしと文化」(宮本常一、河出文庫)