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INDEX 基層文化①      
  • 宮沢賢治「なめとこ山の熊」
     クマ狩り名人・小十郎は、クマを獲ると、こう呟く。
     「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえへも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事をしていたんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞをしるんだ。てめえも熊に生まれたが因果だ。やい、この次は熊なんぞにうまれなよ」
     しかしラストシーンは、小十郎も大きなクマに殺されてしまう。狩りの対象だったクマに、逆に狩られしまう。クマたちは、死んだ小十郎を取り囲み、マタギたちが行うクマ送りの儀式で小十郎の魂を山の神へと送るのである。賢治は、そのラストシーンを次のように描いている。
     「その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさんになって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
     思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのようにえして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。」
     「なめとこ山の熊」のラストシーンは、マタギのケボカイの儀式やアイヌのイヨマンテを連想させる。いずれも人間がクマの霊を神の世界に送る儀式という点で共通している。宮沢賢治の「なめとこ山の熊」と柳田国男の「遠野物語」の共通点は、その狩猟民的・縄文的な感覚だと思う。
  • 菅江真澄絵図「アイノコタンの風景」・・・よく見ると、子グマを飼育する囲い柵の中に子熊が描かれている。その手前には、イナウとクマの頭骨・・・イヨマンテを行う祭壇が描かれている。
  • アイヌのイヨマンテ
     イヨマンテの特徴は、飼育型の熊送りであること。冬から春にかけて穴グマ猟を行う際、親グマと一緒に子グマがいることがある。その時、親グマは仕留めるが、子グマは生け捕りにしてコタンへ連れ帰り育てる。この子グマを1~2年丁重に飼育してイヨマンテが行われる。
     クマは毛皮と肉を土産に人間の世界にやってきた。だから再びお土産をたくさん持って訪れることを願って、クマを飾り付け、酒宴でもてなし、お土産をもたせてカムイモシリへ送り返すのである。
     「熊は、人間の食物となるべき動物の代表者なのである。アイヌは熊によって動物を代表させて、動物の魂送りを熊送りによって代表させるわけなのである。イヨマンテの祭りの中心は熊を殺す儀式ではなく、殺した熊の魂を天に送る儀式にある。
     ・・・人間によって礼儀正しく天の国に送られた熊の魂は、天に帰って、人間によって与えられた手厚いもてなしのことを仲間に話すのである。仲間の熊もその話を聞いて、そういう良い待遇がなされるなら来年にも同じようにミヤンゲを持って人間の世界を訪れようと思うのである・・・そこには人間も動物も植物もすべて同じものであるという世界観が隠れているのである。」(「ブナ帯文化、日本の深層文化」梅原猛)
  • マタギのケボカイの儀式(写真:マタギサミット)
     撃ち取ったクマに対する大切な神事がケボカイの儀式である。シカリがはぎ取った皮を持ち、クマの霊を慰め、山の神様に感謝と豊猟を祈る。その精神文化は、アイヌのイヨマンテ(熊送り)の儀式に似ているように思う。
     「マタギたちはアイヌの人々のように大きな祭りとしてのクマ送りはしない。彼らのクマ送り(は)・・・捕獲に携わった仲間だけでこじんまりとおこなう。そして、ケボカイのとき唱えられるのは、獲物を授けてもらえたことへの礼儀正しい感謝と、どうかもっと獲物を授けてほしい、もっと豊かにして欲しいという自然を支配する神に対しての願いである。
     ケボカイの儀式によって魂がクマの肉体を離れる。変容をとげたクマの亡骸は、そこから抜け出た魂を二度と元の自分の体の中に受け入れることができない。そして行き場を失った魂は神のもとへ帰っていくのである。」(「マタギ-森と狩人の記録」田口洋美)
▲比立内山神社(北秋田市阿仁) ▲マタギ神社(北秋田市阿仁)
  • 山の神信仰とマタギ
     柳田国男は、農民の信仰する山の神は、春に山から田に降りて田の神となり、秋に収穫が終わると再び山に帰って山の神になる。その山の神は先祖の霊であるとし、この農民の山の神から山民の山の神が派生したと考えたのである。この考え方の根底には、稲作文化が日本文化の起源とする考え方がベースになっている。
     一方、民俗学者の堀田吉雄は「山の神信仰の研究」で全く逆の考え方を提示した。「山人の信仰する山の神と、農耕者の信仰する山の神は、別であるといわれている。柳田翁もそう見ておられるようである。しかし、縄文式文化が、弥生式文化に先行していることは明白で、マタギなど狩猟者の信仰する山の神の方が、農耕者のそれよりも、一層古い起源を持っていることだけは疑う余地は乏しい。」とし、山人の信仰する山の神から農民の山の神が派生したと主張している。
     マタギが信仰する山の神は、山の全てを支配している。だからその怒りを受けないように細心の注意を払う。その山神様はとても醜い女の神様で、大のやきもちやき。オコゼを見せると「自分より醜いものがある」と、たいそう喜ぶ。さらに山の神様は、けがれた里言葉は嫌いで、山に入る時は仲間だけに通用するマタギ言葉を使った。
     これらのことから、マタギが信仰する山の神様は、先祖の霊=山の神とは明らかに異なる。そして山の神様を畏れ敬い、獲物は山の神様からの授かり物と考える精神文化は、縄文人のアニミズム(自然崇拝)と共通していることが分かる。
  • 縄文期以来の生活「マタギ」・・・「山に生きる人びと」(宮本常一)
     マタギはある意味で縄文以来の狩猟を主とした生活様式を最もよく伝えているものと見てよいのではなかろうか。縄文期には海岸および河川のほとりで漁労や魚介の採取を中心にして生活していたものと、山中で狩猟を主としていたものとがあったと見られるが、これらは民族的に区別があったのではなく、居住環境からそうなっていったものと見られ、山中にあっても狩猟ばかりではなく、川のある所では漁労にも従っていたのである。・・・
     鈴木牧之が秋山山中で出逢ったマタギも川魚をとっている。長野県の北端に近い秋山は新潟県から続く谷の奥であるが、この山中へは秋田からマタギが冬になるとやって来ている。着物はイノシシ、熊の皮の類を常に着ており・・・敷物はみな草、獣をとって食料にあてている。同時に川魚をとって、山を越えて草津温泉へ売りにいっているのである。その行動半径は実に広いものであるといえる。
     ・・・19世紀初めにあたってもなお狩猟によって生活することができたわけで、縄文期以来の生活がそこにあったことになる。
▲小国町五味沢のホナワリ(マタギサミットin東京) ▲マタギ資料館(北秋田市阿仁)
  • ケガレと差別
     近畿地方を中心に、今でも「部落差別」というものが存在する。その理由について、井沢元彦は「和とケガレの巻」で次のように解説している。
     典型的なのが皮革業です。皮はもともとは動物の皮膚です。動物を殺さない限り、あるいは死んでいる動物に触れない限り、皮は手に入りません。そのため、皮を扱う仕事をずっと行っている人間は、ケガレているとされました。ケガレはミソギで落ちるはずですが、多くのケガレに触れていると、ケガレが多くなり、それが落とすことのできない「穢多(エタ)」になってしまうという、とんでもない考え方が生まれたのです。
     ・・・日本独特のケガレの神学により、皮革を扱う人は罪人だということになってしまったのです。・・・彼らはケガレているという理由で、普通に町や村に住むことは許されず、ケガレをなくす流水、つまり「川の向う岸」に追いやられ、そこには橋をかけるなということにもなります。
▲タケノコとクマ肉の煮つけ ▲クマの内臓
  • 「歴史のなかの米と肉」(原田信男)によれば、肉食すればケガレるという考え方は「米の秩序に反するという理由で、禁忌の方向に拍車」がかかり、多くの差別される人々を作り出していった。そして、米に至上の価値を置く近世の石高社会に至って、斃牛馬の処理に関わる「皮田」が、主に「穢多(エタ)」身分として固定され、中世の非人の多くは近世では雑種賤民という身分支配システムが構築された。
     さらに、キリシタンの弾圧に対しても、牛肉食の慣行を一つの理由にしている。これは、肉食を行う者を秩序の外の存在として位置付けていた点が重要であろうと記している。
  • 江戸時代、仏教では生き物を殺生してはならないという教えと、神道では肉を食べるとケガレるとされた。だから、公には肉食が禁止されていたが、栄養と体を温める薬として食べるのは許されていた。しかし食べた後、すぐ社寺に参拝することが許されなかった。幕末になると、獣肉を食べさせる店が江戸や大坂に現れる。
     ただし、猪の肉は「山くじら」「ぼたん肉」、鹿肉は「紅葉(モミジ)」、馬肉は「桜」と呼んでいた。これは、公然と肉を食べるとケガレるという意識があったからであろう。
▲「天狗草紙」・・・「穢多童」が鳥を殺している絵図
  • ケガレに対する東と西の違い
     「日本の歴史をよみなおす」(網野善彦)に記されている要約を以下に記す。
     13世紀の後半、「穢多(エタ)」という言葉が初めて「天狗草紙」に登場する。この絵には「穢多童」が河原で鳥を殺している。この鳥はトビの姿をした天狗だが、動物の肉を餌にしてこれを捕まえて殺そうとしている。「穢多(エタ)」というのは「穢れ(ケガレ)多し」という明らかに差別語を用いる動きが現れてきたのである。
     現在でも西日本に比べると、東日本の被差別部落は非常に少ない。これは、動物に対する感覚、あるいはケガレに対する感覚の違いと関連するのかもしれない。東日本は、胞衣(えな)をなるべく人が踏んでいけるような戸口とか辻などに埋める。ところが西の方では、できるだけ胞衣を遠ざけ、床下に穴を深く掘るとか、遠くの山に埋める。この違いを明らかにした木下忠さんは、東の方は縄文的で西の方は弥生的だと言っている。
  • 「日本とは何か」(網野善彦)より抜粋・・・「縄文人の流れをくむアイヌ、沖縄に被差別部落は存在せず、縄文文化の伝統の色濃い列島東部にはそれは希薄であり、弥生文化が根を下ろした列島西部を中心とするケガレを強く忌避する地域に被差別部落が濃厚なのである。」
  • 熊鷹文学碑と縄文的感覚
     羽後町五輪坂には、最後の鷹匠・武田宇一郎さんをモデルにした小説「熊鷹・青空の美しき狩人」の一文が刻まれた熊鷹文学碑が建立されている。
     「草も木も鳥も魚も/人もけものも虫けらも/もとは一つなり/みな地球の子」(藤原審爾)
     この碑文は、鷹匠という生業を通して「人間と動植物を全く区別しない同じものと考える世界観」を高らかに歌っている。この世界観は、狩猟民共通の世界観で、そのルーツは当然のことながら縄文文化である。
  • 小説「橋のない川」(住井すゑ著)・・・明治時代後期の奈良県の被差別部落が舞台になっている。歴史学者の網野善彦は、こうした差別は、関東や東北に行くにしたがって希薄になると指摘している。まして鷹匠やマタギのように狩猟を生業とし、「獣も俺も同じ」という感覚を持つ人たちにはあり得ない発想である。だから東北に被差別部落を定着させなかったのは、マタギの存在が大きく動植物に対する感覚が縄文的だからであろう。
▲大館野遺跡(大館郷土博物館) ▲大館曲げわっぱ(大館郷土博物館)
  • 平等な社会を提唱した安藤昌益
     万人が平等に暮らす世界を理想とした安藤昌益は、大館市仁井田で生まれ、晩年、八戸から生家に戻って、病死している。彼の稿本「自然真営道」を発見したのは、同じく大館出身の狩野亨吉である。
     「この本は、狂人が書いたのではないか」・・・狩野博士が初めて「自然真営道」を読んだとき、そう思ったという。例えば、徳川家康のことを書いた所に、なぜか張り紙がされていた。「そこを湿して剥いでみると、まず出てきたのが君主という字、次に、その一番下に書いてあったのが奴輩(獣にも劣る卑しいやつ)の二字であった。」
     昌益は、42歳頃から約15年間八戸で町医者をしていた。当時、八戸では、冷たいヤマセが吹き荒れ、凶作と飢饉が猛威をふるっていた。中でも大豆生産のため焼畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇(イノシシケガチ)」は、昌益に大きな衝撃を与えたと考えられている。
     「自然真営道」には、不幸にして天寿を全うできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれている。額に汗して食料を生産する農民たちの多くが命を落としているのに、支配階級である武士たちには大きな被害がない。その不平等な社会を批判し、全ての者が労働に携わるべきであるという平等な社会を提唱したのである。
  • 司馬遼太郎は「秋田県散歩」の中で「秋田県で゛県北゛といわれるやや僻地視されているこの山間の小盆地が安藤昌益と狩野亨吉という二つの大きな精神を生んだということに驚くのである。」と述べている。
  • 安藤昌益とマタギ勘定
    大館や八戸は、いずれも縄文・蝦夷に連なるマタギ文化圏に位置している。マタギの世界では、猟の獲物は参加した人全員に平等に分けるという「マタギ勘定」が今でも生きている。たとえば熊を捕った時には、熊の胆、皮などは仲間同士でセリで分ける。セリで得たお金や熊の肉は、参加者に平等に分配する。
     マタギのクマ狩りに同行した田口洋美先生は、マタギ勘定と呼ばれる分配法が実に細かいことに驚いている。さらに驚いたのは余所者の田口先生にも分配されたことであった。その時、シカリの鈴木松治さんは次のように言ったという。
     「マタギはすなっ、一緒に山さ入った者は皆平等なんだ。山神様はあんたを別け隔てはしねぇすがらな」・・・縄文・蝦夷を基層とする狩猟文化・・・この徹底した平等主義は、安藤昌益の思想に少なからず影響を与えたのではないだろうか。また司馬さんの言う「「秋田県で゛県北゛といわれるやや僻地視されているこの山間の小盆地」だからこそ生まれた思想家だと思う。
  • 秋田犬(国天然記念物)と縄文犬
     犬の祖先はオオカミと言われている。秋田犬(あきたいぬ)は、かつてマタギの猟犬であった。ただし、かつてのマタギ犬は小型の猟犬系の秋田犬である。猟犬系秋田犬は、県内のマタギ集落に数多く見られたが、今はほとんど姿を消した。天然記念物に指定されている秋田犬は、戦後改良された大型犬で猟には向かないという。秋田犬は、渋谷の忠犬ハチ公のエピソードで有名になり、主人に忠実な犬として知られている。
     猟犬のルーツを辿ると、これまた縄文時代に行き着く。縄文人が狩猟を共にしていたことは、犬を人間と同様に丁重に埋葬していたことでも分かる。縄文人の狩猟は、弓矢だけでなく、罠を巧みに仕掛け、猟犬を使って追い込むなど、組織的で高度な狩猟法を駆使していたのである。
    秋田犬保存会(秋田県大館市)
  • 菅江真澄と北海道・北東北(北緯40度以北)
     1811年、菅江真澄(58歳)は、秋田藩主佐竹義和に初会見し、出羽六郡の地誌作成を依頼される。それまで菅江真澄が自らの意志で歩いた足跡は、北緯40度線周辺から北の道南地域の間に集中している。これは、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の分布とほぼ一致している。これは単なる偶然とは思えない。
     私の推測だが・・・菅江真澄は、西の文化圏に位置する愛知県出身である。それとは異なる北海道・北東北地域を旅することによって、新しい民俗の発見、ひいては稲作以前の日本の基層文化を発見したような衝撃を受けたのではないだろうか。だから、彼は何かにとりつかれたように、北の民俗文化を記録することに生涯を捧げることを決意したのであろう。
     いずれにしても、当時の知識人、文化人と言われた人たちが目もくれなかった無文字社会の暮らしと文化を、ひたすら「歩く、見る、聞く、記録」したところが凄い。
     秋田には、国重要無形民俗文化財が17件で日本一だが、その起源や由来は、必ずといっていいほど真澄の記録が参考になっている。「牛乗りとくも舞」「なまはげ」「大綱引き」「竹うち」などが国指定の重要無形民俗文化財に指定されたのは、真澄の記録が決め手になったといわれている。
▲北海道・北東北縄文遺跡群は、北緯40度以北に分布  
  • 2009年、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載された「縄文遺跡群」は、なぜ北緯40度以北の「北海道・北東北に限るのか」という疑問に対して明確な説明が求められているという。
  • 北緯40度・南北の地域差(「日本史リブレット 奥州藤原三代」斉藤利男)
     東北北部の地は、北緯39度以北に広がる広大な地域で、ヤマトを中心とする西日本やアズマ=中部・関東から東北南部に及ぶ東日本とは異質な、寒冷な気候と風土をもち、本格的な弥生文化や前方後円墳に象徴される古墳文化を経験しなかったことである。そしてこの地の住人は、北の北海道に住む人びととともに「エミシ」と呼ばれ、南の日本社会とは異なる政治・文化圏を形成してきた。・・・
     その東北北部の地も、中間を通る北緯40度ライン付近を境に、明瞭な地域差を有していた。すなわち、津軽海峡を越えた北海道南部と共通した気候・植生をもち、北の世界と強い結びつきのなかで歴史を歩んできた「北緯40度以北」の地域と、より温暖で、南の日本文化の影響を強く受け、中間地帯として独自の歴史的発展をとげてきた「北緯40度以南」の地域である。そして、南の北緯39度以北・40度以南の地域こそ、安倍氏・清原氏が勢力をふるった奥六郡・山北三郡であり、その南の境・・・北緯39度ラインに相当する・・・
     服属した蝦夷と未征服の北の地域の蝦夷の人びとの双方を支配するための軍政府として整備されたのが・・・鎮守府と秋田城であった。しかも日本国への編入後、北緯40度以南の地域には東国から大量移民が行われ、仏教と神社信仰を中心とする中央文化が移植され、強力なヤマト化=同化政策が推進された。
     だが・・・東北地方北部の強固な自立性は失われることがなかった・・・北海道を除く日本本土の中で荘園が存在しなかったのは、この北緯39度以北の東北北部だけなのである・・・十世紀半ば以降・・・これまで知られていなかった「北の世界」の活気に充ちた歴史が存在した。それを物語るのが、この時期の北奥・道南に出現する「防御性集落」と、北東北・北海道を舞台とした活発な交易活動である。
  • 防御性集落とは、蝦夷たちが集団間の争いに備えて、集落の周りに環濠を巡らしたり、高い山や丘陵上に集落を営んだもの。その防御性集落の最盛期は10世紀で、その分布は北緯40度周辺以北から北海道に及んでいる。安倍氏や清原氏は、蝦夷の集団間の抗争に介入して勢力を北東北に拡大していったと考えられている。
▲北緯40度以北では、バケツを上下に引っ張ったような独特な形の円筒土器が作られた。右図は、円筒土器の分布図(岡田康博青森県文化財保護課長のプレゼンより)。
  • 円筒土器と大木式土器の境界は北緯40度
     今から約5千年以上前の東北地方では、北緯40度線を境に北で円筒土器 、南で大木式土器と呼ばれる二つの異なった土器が使われていた。土器だけではなく、住居や様々な道具など、それぞれ独自の特徴を持ち、「円筒土器文化」「大木式土器文化」と呼ぶにふさわしい様子が見られることである。つまり、北海道・北東北は、縄文時代から文化的にまとまりを持った地域である。大きく見れば古代に至るまで、北緯40度線付近が南北の社会の境界線であると言われている。
▲北緯40度 マタギの里・阿仁 ▲北緯40度 なまはげの里・男鹿
  • 北緯40度は、狩猟民と農耕文明を分かつライン(「日本の心、日本人の心 上」山折哲雄)
     考古学の専門家にきくと、北緯40度線を中心とするあたりは、かつて気候変動が激しく起こったところであり、環境考古学の上からも重要なポイントであると言われているようです。・・・北緯40度線というのは、北方の狩猟遊牧民が中国に入ってくるときの入口にあたる緯度なのですね。またそれは、万里の長城の線と言ってもいいかもしれません。
     ・・・北緯40度線とは、北方狩猟遊牧民と南方の農耕文明というものを分かつラインであり、逆に言えば、二つの異なる文化が接し合っているラインである、と大雑把に言うことができるのではないかと思います。
▲魚形文刻石(由利本荘市矢島町龍源寺) ▲魚形文刻石(北秋田市阿仁根子)
  • サケ・マス論(参考:「縄文の生活誌」岡村道雄)
     山内清男氏は、毎年秋から初冬にかけて、群れをなして河川を遡上してくるサケやマスを、縄文人は大量に捕獲し、干物や燻製にして冬期の保存食料にしていたとする説である。しかし、縄文遺跡からサケ・マスの骨があまり出土しなかったので、批判的な見方が一部にあった。
     秋田県内の河川の中・上流沿いに、単独で立てられた「魚形文刻石」は、別名「サケ石」とも呼ばれ、縄文時代中期、約4千年前のものが多数見つかっている。加えて、近年になって海岸部の貝塚から、サケ類の骨が少量ながら発見されるようになった。
     アイヌの例でも知られるように、骨の柔らかいサケは全て調理され、食べ尽くされることも多かったと考えられている。そもそも北の縄文人が、群れをなして遡上するサケ・マス類を見逃すはずはなく、大量に消費していたと考えるのが妥当であろう。だから「サケ石」は、縄文人が川に遡上するサケの豊漁を祈って立てたと考えられている。
▲春は山菜 ▲夏は川漁 ▲秋は木の実、きのこ
▲大型掘立柱建物 ▲縄文ポシェット ▲高床式倉庫
  • 縄文は、木の文化、森の文化
     三内丸山遺跡では、栗の木の巨柱、漆器、木の皮を編んだ縄文ポシェット、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成された「縄文里山」など、木の文化に支えられていたことを教えてくれる。特にクリ林は、果実の採取のためだけに栽培、造林されたものではなく、建築用材を供給するために植えられたのである。
     さらに富山県桜町遺跡から、高床式建物の柱材と考えられる貫穴(ヌキアナ)や桟穴(エツリアナ)と呼ばれる加工をした木柱が発見された。これは,それまで米作りの技術とともに弥生時代に日本へ伝えられたと考えられていた高床式建物が、定説より2,000年も古い縄文時代にすでにあったことを証明したのである。ゆえに縄文社会は木の文化と言い換えることもできる。
     縄文の昔から東北の大地をおおっていた森は、ブナを主とする落葉広葉樹の森であった。縄文時代の人々は、春は山菜採り、夏はマス類を中心とした川漁、秋は木の実・きのこ採取とサケ漁、冬は狩猟を行っていた。縄文土器は、これらの恵みを調理するための必需品であった。縄文人は、森の四季の循環に順応した暮らしをしていたことが分かる。だから縄文文化は、「森の文化」と言い換えることもできる。
▲母なる森「ブナ」 
  • 縄文が始まる前の2万年前は・・・気温が今より10℃近くも低く、海水面が120mも低かった。だから日本海に対馬暖流は流れていなかった。当時は、亜寒帯針葉樹の森に覆われていた。
  • 森の文化と日本海
     環境考古学の安田喜憲さんは、森の文化について・・・日本に「森の文化」をつくった根源はどこにあるかというと、実は日本海である。地球の温暖化によって海面が120m上昇し、日本海に対馬暖流が北上してくる。中国大陸からは、非常に乾いた大気が西から東へと流れてくる。その時、対馬暖流から湿気を吸収して、脊梁山脈にぶつかることによって日本海側に多くの雪をもたらす。これが、温帯の落葉広葉樹の森、ブナやナラが茂るような森がいち早く世界の中で成立したのである。
     地球は1万4500年前に寒冷な氷河時代から後氷期という温暖な時代に変わる。そのとき世界中で温帯の落葉広葉樹、つまりブナやナラの落葉広葉樹の森がどこで一番最初に拡大を始めたかというと、この日本列島なのである。日本海があることによって日本列島に「森の文化」が育まれた最大の理由だと述べている。
▲縄文遺跡群世界遺産登録推進会議 岡田康博座長のプレゼンより
  • 縄文時代はいつからいつまでか・・・諸説あるが、推進会議では、寒冷な時代から温暖化へと激変する1万5,000年前から2,300年前までの1万2,700年の長きにわたり続いたとしている。
  • 世界最古の土器と落葉広葉樹の森
     日本以外の地域では、土器が1万年以上遡ることはない。日本では、1万3、4千年前の世界最古の土器が青森から九州まで出土している。土器を生活の中に取り込んだ時期が、地球上の他の地域より群を抜いて早かった。その理由は、安田さんが言うとおり、日本列島に「世界中で一番早くブナやナラの落葉広葉樹の森が拡大」したからにほかならない。  
▲ミズナラ ▲キノコの王様「マイタケ」は「ミズナラ」の木に生える
  • 縄文文化はナラ林(ブナ林)帯文化・・・ 「縄文文化と日本人 日本の基層文化の形成と継承」(佐々木高明)
     縄文社会の非常に高い人口密度を支えていたのはナラ林(ブナ林)帯の自然、とりわけクリやクルミやトチなどの堅果類、あるいはサケ・マスなどの漁業資源の豊かさだったと考えられる。そういう意味では縄文文化はナラ林(ブナ林)帯の自然に適応し、それを基礎に発展した文化であると言い切って間違いない
     近頃よく話題になる青森県の三内丸山遺跡は、このナラ林(ブナ林)帯に成立した「豊かな採集民文化」の存在を象徴する遺跡だということができる。
  • 北の縄文人が見たであろう森の原風景、縄文文化を開花させたブナ帯の森が、17,000haという面的まとまりをもって残っているのが「世界自然遺産・白神山地」である。
  • 動画「世界自然遺産白神山地追良瀬川源流 美しき森と水の賛歌」・・・15分56秒
  • 万物に生命が宿る(「日本の心、日本人の心 下」山折哲雄、NHK出版)
     我々人類の先祖は、万物に命が宿っているという普遍的な宗教をもっていたということを思い出してみなければなりません。日本列島の場合を考えても、そこには豊かな緑があり森があり、川には魚が泳いでおり、海の幸、山の幸に豊かに恵まれている。
     我々は天上の彼方に唯一の価値あるものを求める必要はなかったのです。地上にはたくさんの恵みにみちみちていました。そこから、自然そのもののなかに命が宿っているという信仰や感覚が自然に育まれたのではないでしょうか。
     ・・・万物に生命が宿る・・・このような宗教意識こそが最も普遍的であり、そうであるがゆえに今日、それは真に未来を開く根源的な力をもっている考え方ではないかと思うのであります。
▲ブナ林の黄葉  ▲ブナの幹に群生したナメコ
  • 縄文的基層文化の継承(「縄文の生活誌」岡村道雄) 森羅万象に生命が宿り、山や森に神聖さを感じ、死して魂は山に帰ると考え、物を大切にして役に立った物を感謝を込めてカミに送り、人々を敬い、祭りで結束を深め楽しみ、火に神聖さや水とともに清めの力を信じるなど、精神生活の多くも縄文時代に形成され、今日に至るまで受け継がれてきた。・・・日常生活の原型は、縄文時代にその基本がすでに作られ継承されてきたのである。
     ・・・ようやく近年になって、縄文文化の実像の解明が進み、縄文見直し論的な風潮の中で、「日本文化の基層は、自然と共に生きた縄文文化に求められる」という理解が進んできた。
 ▲縄文遺跡群世界遺産登録推進 国際シンポジウム
  • 2014年9月13日、縄文遺跡群世界遺産登録推進国際シンポジウムが秋田市で開催された。世界遺産登録を実現するためには、まだまだ越えるべきハードルがあるとのことであった。
  • 「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界遺産に!
     北海道・北東北三県は、南の稲作文化を吸収しながら、この豊饒の森で北の狩猟・漁労・採集の生活文化を色濃く継承してきた。その北の基層文化を代表する文化遺産が「北海道・北東北の縄文遺跡群」なのである。この基層文化は、1万年もの長きにわたり自然と人間が共生してきた木の文化・森の文化であり、21世紀の持続可能な「自然と人間と文化」のあり方を学ぶ人類共通の宝として、一日も早く世界文化遺産に登録されることを祈りたい。
  • 祝「北海道・北東北の縄文遺跡群」、世界文化遺産に登録決定・・・2021年7月27日、ユネスコの世界遺産委員会は、17遺跡で構成する「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界文化遺産に登録することを決めた。世界文化遺産として国内最古。地球環境の危機を迎えている今こそ、縄文人の持続可能な生き方に学ぶ必要があるように思う。
参 考 文 献 
「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原猛、集英社文庫)
「ブナ帯文化」(梅原猛外、新思索社)
「山の道」(宮本常一、八坂書房)
「なめとこ山の熊」(宮沢賢治)
「マタギ-森と狩人の記録」(田口洋美、慶友社)
「日本史リブレット 奥州藤原三代」(斉藤利男、山川出版社)
「日本の心、日本人の心」(山折哲雄、NHK出版)
「北の生活文庫第2巻 北海道の自然と暮らし」(北海道新聞社)
「縄文文化と日本人 日本の基層文化の形成と継承」(佐々木高明、講談社学術文庫)
「和とケガレの巻」(井沢元彦、徳間書店)
「日本の歴史をよみなおす(全)」(網野善彦、ちくま学芸文庫)
「日本とは何か」(網野善彦、講談社学術文庫)
「歴史のなかの米と肉」(原田信男、平凡社)
「縄文の生活誌」(岡村道雄、講談社学術文庫)
「山に生きる人びと」(宮本常一、未来社刊)
「秋田県散歩」(司馬遼太郎著、朝日新聞社)
「菅江真澄遊覧記」(内田武志・宮本常一、平凡社ライブラリー)
「写真ものがたり 昭和の暮らし2 山村」(須藤功著、農文協)
「芸術新潮2012.11 大特集 縄文の歩き方」(新潮社)