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出雲大社の謎、ズーズー弁、物部氏と安倍氏、ヤマタノオチチ伝説、八郎太郎伝説、統人行事、伝説の裏を読む
出雲大社の謎

 出雲大社の巨大なしめ縄は、より方が普通の神社とは逆である。旧暦十月を神無月(かんなづき)というが、これは全国の神々が出雲に集るからである。出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。また祭神・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、社殿が南向きなのに、西を向いている・・・「全てが鏡で映したかのように世間一般とは逆になっている」・・・これは神話の裏を読み取らないと、歴史の真実は見えてこないというサインではないだろうか。
 上の注連縄は、オスとメスの蛇が絡まって交合している様を現していると言われている。日本は縄文時代から蛇信仰のメッカで、出雲大社はその流れをくむ「龍蛇信仰」でも有名である。
疑問:出雲弁(島根県)は、なぜ秋田と同じズーズー弁なのか

 松本清張の小説「砂の器」では、秋田の亀田と同じズーズー弁を話す地域が島根県の亀嵩にあった。つまり出雲弁もズーズー弁なのである。実際に出雲弁を何度も聞いたことがあるが、確かに東北の人だと錯覚するほど似ている。それにしても、なぜ東北から遠く離れた出雲が飛び地状にズーズー弁を話すのであろうか。
 出雲大社では、2000年、地下祭礼準備室を造るために掘り返していたら、巨大な3本柱が見つかった。年代測定などにより、これら巨柱群は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明。かつて出雲大社の高さは、現在の約2倍、48mもあったことが裏付けられたという。
 遺跡発掘調査の進展によって明らかになったことは、弥生時代後期に出雲が勃興し、ヤマト建国にかかわり、その後に衰弱したことが判明した。神話によれば、天照系の一派が日本にやって来た時、出雲を治めていた大国主命たちは快く国譲りをしたとされる。しかし真相は・・・

 平和的な国譲りなどではなく、ヤマト族が出雲を滅ぼしたと言われている。伝承によれば、出雲大社の本殿は130mを超す高さだったとされる。その塔は、敗者である出雲の神・オオクニヌシを幽閉するためだったとする説や、出雲の神・オオクニヌシの祟りを恐れて丁重に祀ったとの説などがある。

 岩手の作家・高橋克彦氏は、大陸から渡ってきたヤマト族に出雲の和人が敗れて、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。そのうち「北へと逃れ、新たな民族を形成していったのが東北人のルーツ」だと、東北出雲説を主張している。
▲唐松神社参道のスギ並木(推定樹齢300年)  
 政治の中心から追われた物部氏

 聖徳太子の時代、蘇我氏と物部氏の対立があり、物部氏は政治の中心から追われた。東北の神社や鉱山の多くには、物部氏にまつわる伝承が残っている。例えば、大仙市協和の唐松神社に伝わる「秋田物部文書」の伝承によれば、殺された物部守屋の子の一人が船で日本海を北上して鳥海山麓に降り立ち、やがてその後裔が秋田の唐松林に定住したという。
▲唐松神社(大仙市協和)

物部氏と安倍氏の連携

 高橋克彦氏「東北蝦夷の魂」によると・・・物部氏が一番得意としたのは鉱山の開発と馬の飼育であった。もともとニギハヤヒノミコトを奉ずる出雲の民は、鉱山技術者の集団であった。金山、銅山、鉄山の場所には、物部系の技術者が派遣され、そこで集落を形成していった。伝説では、それらは全て金売吉次が開発したとされている。

 義経記によると、鞍馬寺へあずけられた牛若丸が、奥州藤原氏を頼って平泉に下るのを助けたのが金売吉次である。彼は、奥州で産出される金を京で商うことを生業にしていた。「゛炎立つ゛を書いていた時、金売吉次は物部の一族だという仮説を立てたら、NHKが資料を探してくれた。安倍宗任に従って九州に流された人物の末裔が今もいて、その家系図に金売吉次のルーツは物部氏だと記してあったのだ。」

 蝦夷の在地豪族・安倍氏は、物部氏と手を組むことによって、黄金や鉄を採取する手段を得て、奥六郡を手中にした財力を築いたと推理している。 
▲物部長穂記念館(大仙市協和) ▲写真右が晩年の物部長穂博士

出羽物部家の出身・物部長穂博士

 大正から昭和初期に活躍した物部長穂博士は、日本の水理学、土木耐震学、河川工学・ダム工学の草分け的存在で、土木工学関連の技術者で知らない人がいないほど、神様的な偉人である。彼は、出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれである。

 もともと鉱山の技術と土木の技術は、兄弟みたいなもの。物部家から土木工学の草分け的な天才が生まれたのも、何となく分かるような気がする。
▲出雲神楽の代表・佐陀神能「八重垣」

ヤマタノオロチ伝説

 日本の龍信仰は出雲から始まった。神話に登場するヤマタノオロチ伝説は、出雲の斐伊川上流が舞台になっている。ヤマタノオロチは、出雲で神として崇敬されていた。天照系の神話では、スサノオノミコトが邪悪な怪物・ヤマタノオロチを退治してしまう。こうした征服者がその土地の神を退治するストーリーは、世界各地の神話と一致している。

 出雲神楽の代表「佐陀神能」には、ヤマタノオロチを退治する「八重垣」という演目がある。また秋田には、八郎太郎伝説や三湖伝説など龍信仰が多い。それは出雲を追われた国つ神たちは、龍信仰を持ったまま東北に来た証ではないかとの説もある。
▲男鹿市船越「八龍神社」

 菅江真澄「男鹿の秋風」(1804年)には、「船越の崎の八龍の社にはヤマタノオロチをまつり、芦崎の姥御前と呼ばれる社にはテナツチを、三倉鼻の老公殿の窟にはアシナツチがまつられていると伝えられる」・・・つまり八郎太郎=ヤマタノオロチである。

出雲の神・ヤマタノオロチ=八郎太郎伝説

 男鹿市船越の八龍神社には、八郎太郎伝説の主・出雲系のヤマタノオロチを祀っている。この八郎潟の神は、出雲系でズーズー弁とも一致する。
 八龍神社は、八郎潟漁業者の信仰があつい神社である。漁業者たちは、八龍神(八郎太郎)に豊漁を感謝し、魚の霊を鎮める石碑を数多く建立している。最も古いものは「湖鰡(ボラ)供養碑」で1861年に建立されている。
 ▲写真集「潟の記憶」(川辺信康著)より ▲八郎潟漁労用具

 干拓前の八郎潟には、40科72種の魚類が生息。うち漁の対象は、約40種である。「その漁獲高も面積の広い琵琶湖と比較にならないほど多く、きわめて豊富な漁場であった。」(昭和町誌)
 潟の漁師はよく「魚七ツに水三ツ」と言った。桶一杯に水を汲めば、7割が魚だという意味である。平均水深3mと浅く、小規模な道具で漁ができたことから、多様な漁法が生まれた。建て網、ひき網、刺し網、まき網など。干拓開始当時、漁民は約3千人、動力船700隻、無動力船1500隻もあった。
▲東湖八坂神社(潟上市) ▲日本の神話「ヤマタノオロチ」(天王グリーンランド)

 ヤマタノオロチを祀る八龍神社に対して、船越水道を挟んた対岸には、東湖八坂神社がある。この神社は、坂上田村麻呂の創建と言われ、漁業者の信仰があついヤマタノオロチ(八郎太郎)を退治した天照系のスサノオノミコトを祀っているのである。京都の八坂神社と同じく、「牛頭天王(こずてんのう)」を祀っていることから地名の「天王」になったのであろう。

 この神社には、蝦夷を滅ぼした大和朝廷の神話・・・スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する神話を劇のように再現した「統人行事」が、潟上市天王と男鹿市船越の両地区住民によって継承されている。歴史は古く、約千年前から現在の形で行われているという。
 統人行事は、国重要無形民俗文化財に指定され、毎年7月7日に「牛乗り」と「蜘蛛舞」のクライマックスを迎える。この行事は長い歴史を持ち、素晴らしい民俗文化財であることは確かだが・・・歴史の表舞台だけいくら眺めていても、蝦夷の消された歴史文化は見えてこない。

 その昔、蝦夷征伐の最前線であった秋田城・・・その北側は、度々反乱を起こした。その蝦夷の反乱を抑えるには、蝦夷征伐の神・田村麻呂伝説と大和の神話・・・つまり中央支配のイデオロギーを必要としたことは言うまでもないであろう。だから、この地を支配していた八郎潟の主・ヤマタノオロチ(八郎太郎伝説の主人公・八郎太郎)を退治するというストーリーを東湖八坂神社の行事に持ち込んだのであろう。
菅江真澄「牛乗り」(1804年 男鹿の秋風)

 黒い牛に乗った男が、烏帽子・狩衣の装束で、顔には墨を塗りたて、鋭い矢をたばさみ、十握の剣を帯びている。牛のはなぐりに五尺の木の綱をつけ、これを引く男は編笠をかぶり、五人の頭人たちは牛に乗った人の前後左右を囲んでいる。この牛乗りこそ、恐れ多くもスサノオノミコトにたぐえ奉っているのである。・・・ 
 船越地区住民による蜘蛛舞は、漁船の上で行われる。赤い衣装に身を包んだヤマタノオロチが、2本の柱の間に渡した綱の上で舞う。ヤマタノオロチが酒を飲んだり、スサノオノミコトに倒され苦しむ様子を再現している。

菅江真澄「蜘蛛舞」(1804年 男鹿の秋風)

 湖面には小舟をつなぎあわせて船越の浦の人々が漕いでくる。舟のなかにも屋形山が飾られ、たいそう賑やかである。・・・体に赤衣をまとい、腕にはめる筒形の布・脚絆・足袋も皆赤色の木綿で、頭には赤白の麻の糸を振り乱してかけてカズラとし、顔には黒い網をもって仮面のようにつけた者が、二筋のわら縄の上にのぼって、八つの山、八つの谷の間をはいわたり、八つのかめの酒を飲みにきたように、この湖の揺れる波の中をのたうちまわるように、のけぞるふるまいをしながら舟を漕ぎめぐっている。ヤマタノオロチのふるまいである。これを土地の人は蜘蛛舞という。まことに蜘蛛が巣をかけるさまに似ている。
 ・・・牛の背に乗った者は十握の剣を抜き、矢を射て、ヒの川上で大蛇退治をした所作をし、やがてそれも終わると・・・たくさんの見物人を乗せた数多くの舟は、蜘蛛舞が終わったので、蜘蛛の子を散らすように広い湖の面を四方に漕ぎ別れて行った。

 ・・・このように、翁とおうなが遠い神代の物語・スサノオノミコトのヤマタノオロチの大蛇退治を真似て、今の世までも怠らず行っている神事は、他に類例があるであろうか。
 この祭りの不思議な点は、酒を飲んで酩酊するのは、ヤマタノオロチだけでなく、スサノオ役も終始酩酊状態である点である。天王本郷自治会館内に設けられた「酒部屋」で、非公開の秘儀が行われるという。そこから出てきたスサノオ役の男は、酩酊しているのか、意識を失った状態のまま船越水道に移動するのである。

 神話の勇猛な姿とは、あまりにかけ離れている・・・だから、単なる神話を模した行事には見えなかった。秋田は酒好き、というだけでは理由にならないであろう・・・何しろ千年も続く厳粛な神事である。その真意は何か・・・やたら気になった。
▲三湖伝説の主人公・八郎太郎出生の地を示す石碑(鹿角市大湯草木)
八郎太郎伝説に隠された裏を読み解く

○柳田国男「山の人生」・・・八郎太郎はマタギ


 「マタギは東北人及びアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田湖の湖水から南祖坊におわれて来て、秋田の八郎潟の主になっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった・・・津軽、秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考るべき理由があったろうと思う」と記している。 
▲大湯環状列石(鹿角市大湯)

八郎太郎伝説は縄文・蝦夷系を示唆する伝説

 大湯環状列石が発見された野中堂から万座地区の一帯は、昔から「開墾すれば禍が起きる」との伝説があったという。遺跡の北東2kmほどの所に、「黒万太(クロマンタ)」と呼ばれている三角山がある。その三角山は、草木地区の村長だった黒沢万太を神として祀った墳墓だとする伝承が残っている。

 さらに、その草木地区は、かつてマタギの集落で八郎太郎伝説の主人公が生まれた故郷でもある。また、万座という地名そのものが、多くの環状列石が座している場所を暗示しているような地名である。

 1807年、菅江真澄は十和田湖を訪れ、八郎太郎伝説を詳細に記している。休屋の小屋に入ると・・・
「飯を炊き、自ら採ってきたマイタケ、ヒラタケなどを煮ていたが、コタタキ、カツトリなどと聞いたこともない言葉を耳にした。これも何かの忌言葉かと思って、確かめると、このキノコ採りの人々の本来の職業は、雪が積もると山に狩猟に出て、クマ、サル、カモシカを撃つマタギであり、それらの使う山言葉というものであった」

 菅江真澄の記録を読めば、大湯から十和田湖一帯は、古くからマタギが活躍した舞台で、八郎太郎伝説の主人公がマタギであったという設定は、ごく当たり前のことであることが分かる。龍伝説の象徴・八郎太郎は、大湯環状列石のすぐ近くの草木村が出生の地であることは、マタギを生業とする八郎太郎伝説が縄文・蝦夷系の伝説であることを示唆しているように思う。
菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・十和田湖編要約

 昔、草木の郷に八郎太郎というまだ若いマタギがいた。この辺りの人々は、毎日猟で生計を立てていた。ある日、八郎は仲間と共に猟のために奥入瀬に入った。仲間二人は猟のために山中に入ったが、八郎は一人留守番で木を切り、飯を炊く係りになった。

 湖に水を汲みに行って、大きなイワナを見つけ、仲間の分も含めて三匹つかまえた。余りに美味そうなので、一匹食べたが、その美味さに残りの二匹も食べてしまった。すると、たちまち喉が焼けるように渇いた。岸辺から湖の水を飲み続けると、八郎太郎は八頭のオロチに身を変えてしまった。
 マタギの世界では、捕った獲物は平等に分配するのが掟である。その掟を破ったために天罰が下る。さらに出雲の神であったヤマタノオロチに変身する。この伝説の裏を読み解けば、蝦夷系のストーリーが潜んているように思う。
▲青森ねぶた「十和田湖伝説 八郎太郎と南祖坊」

 十和田湖伝説では、湖の覇権をめぐって熊野修験道の南祖坊と戦うストーリーになっている。菅江真澄が記録した伝説によると、播磨の国から法華経を読む難蔵法師が十和田湖にやってきて、八頭のオロチと戦う。難蔵は、九頭のオロチに身を変え勝利・・・八頭のオロチ・八郎太郎は、南へと逃げ去った。
菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・七座山編要約

 八郎太郎は、米代川を下り、両岸切り立つ七座山を堰き止めて湖水をつくり、そこを安住の地とした。この地の天神さまは、八郎太郎を追い出すために語り掛ける。ウナギの寝床みたいで窮屈だろう。男鹿半島の方に行けば際限なく広々とした所がある。そこを住家にすれば龍王の宮殿になると勧めた。

 湖水をつくっている山に穴をあけるよう白ネズミに命じた。ネズミが岩山に穴をあけ、ついに水を通した。すると大洪水となって一座の山を押し流し、八郎太郎はその濁流に乗って米代川を下り天瀬川へ。
▲姥御前神社(三種町芦崎)

菅江真澄記「八郎太郎伝説」・・・八郎潟編要約

 男鹿がまだ島であった頃の話・・・七座山から下った八郎太郎は、天瀬川の老人夫婦の世話になっていた。本土と男鹿をつないで巨大な湖をつくり、この地を安住の地にしようと考えた。神の許しを得た八郎太郎は、世話になった老夫婦に「鶏の鳴く夜明けを合図に大地震が起きて大洪水になる」と告げ、立ち退くよう言っておいた。

 しかし、当日、老婆は忘れ物の麻糸を取りに戻ったところ、鶏が鳴き大地震が起きてしまった。八郎太郎は、老婆をとっさに蹴り上げ、対岸の芦崎に飛ばし、老翁は天瀬川にとどまって別れ別れになってしまった。以来、八郎太郎は八郎潟の主となり、老翁は夫殿権現(アシナツチ)になり、老婆は芦崎の地で姥御前(テナツチ)として祀られた。天瀬川と芦崎の人々は、鶏を忌み、飼うことも、鶏肉・鶏卵を食すこともなかったという。
▲菅江真澄絵図「氷魚の網曳」 ▲八郎潟「うたせ舟」

 八郎太郎は狩猟を生業とするマタギであったが、十和田湖で出雲系の神に変身・・・ヤマト系の神々に追われて辿り着いたのが八郎潟であった。そして八郎潟の漁業の神として祀られている。八郎太郎伝説は、狩猟・漁労採集を生業とする縄文・蝦夷とつながっているように思う。
▲田沢湖の主・達子姫

三湖伝説を読み解く

 八郎太郎は、永遠の美と命を求め龍の姿となった辰子に惹かれ、田沢湖へ毎冬通うようになった。辰子もその想いを受け容れ、二人は恋仲となった。それを妬んだ十和田湖の主・南祖坊が八郎太郎を田沢湖から追い出そうと攻撃する。今度は八郎太郎が勝利を収めた。

 それ以来、八郎太郎は冬になる度に、辰子と共に田沢湖で暮らすようになった。主が半年間不在となった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなく、ますます深くなったのだという。

 「辰子」という名前は、アイヌ語で「タブコブ(平野の中の小高い丘・たんこぶ山)」から来ているという。蝦夷系のマタギ・八郎太郎は、同じアイヌ・蝦夷系の辰子姫と恋仲になった。一方、十和田湖の主は、南から来た天台宗の坊主でヤマト系だから、辰子姫に嫌われたと解釈することもできる。

 神話や伝説には、必ず表と裏がある
。その裏を読み解かないと、消された歴史は見えてこない。おもいろいことに、三湖伝説は、南から来た坊主を嫌い、土着のアイヌ・蝦夷系の龍に味方している。三湖伝説は、素直にストーリーを読むだけで、古代蝦夷の文化が色濃く残る希少な伝説であることが分かる。
田沢湖・石神番楽

 田沢湖の中生保内石神集落に伝わる番楽は、山伏系の番楽であるが、大蛇を退治する「鐘巻」は決して演じないという。これは田沢湖の守り神=辰子の化身である大蛇に刃をむけることは、とんでもないことだからである。後発の山伏修験道の信仰より、古来からの信仰を重んじるところに民間信仰の凄さを感じる。
▲えさし藤原の郷

 東北はアテルイ、前九年・後三年の合戦、平泉滅亡、戊辰戦争と度々大きな戦に巻き込まれたが、全て中央権力に敗北・・・「歴史をズタズタに書き換えられ、捨てられてしまっている」(「東北・蝦夷の魂」高橋克彦)。しかし、言葉と伝説まで消し去ることはできない。東北のズーズー弁と龍を神として祀る八郎太郎伝説は、岩手の作家・高橋克彦氏が言う「東北出雲説」を示唆しているようにも見える。

 北東北のアイヌ語地名の存在やマタギ言葉にアイヌ語が多く含まれていることなどを加えると、蝦夷は単一民族ではなく、アイヌ系、ヤマト系、出雲系が入り混じっていたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 そう考えると、ヤマト系の神話や田村麻呂伝説、出雲系の八郎太郎伝説が共存していても何らおかしくないし、アイヌ語地名、マタギ言葉にアイヌ言葉が含まれている謎、東北から遠く離れた出雲のズーズー弁の謎も、何となく解けたように思うのだが・・・。
参 考 文 献
「東北学/忘れられた東北」(赤坂憲雄、講談社学術文庫)
「東北ルネサンス」(赤坂憲雄、小学館文庫)
「日本史リブレット 蝦夷の地と古代国家」(熊谷公男、山川出版社)
「ジュニア版古代東北史」(新野直吉、文献出版)
「アジア太平洋レビュー2011 アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」(岡本雅享)
「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」(梅原猛、集英社文庫)
「縄文の生活誌」(岡村道雄、講談社学術文庫)
「東北蝦夷の魂」(高橋克彦、現代書館)
「日本の心、日本人の心 上」(山折哲雄、NHK出版)
「ブナ帯文化」(梅原猛外、新思索社)
「ヤマト王権と十大豪族の正体」(関裕二、PHP文庫)
「菅江真澄遊覧記4」(内田武志・宮本常一編訳、平凡社)
「東北ふしぎ探訪」(伊藤孝博、無明舎出版)
写真集「潟の記憶」(川辺信康著、秋田魁新報社)